岡本正、病上手の死下手、1部 体験記―死にいたる病、痛い | オカポンのブログ

オカポンのブログ

サイクリングや旅行などの記録用に書いています。
リンクはご自由にどうぞ。
メール okamotom@nifty.com
岡本 誠 OKAMOTO Makoto

体験記―死にいたる病

痛い

昭和五十三年十一月十一日(土曜日)
朝、右季肋部にきわめて軽い鈍痛がある。きのう遅くまで飲みすぎたせいかと思う。

十一月十三日(月曜日)
診療所で、定期集団検診を受ける。血液検査その他の結果はすぐにはわからないが、村田純一郎先生〔保健同人診療所長〕は「特別に異常はないようですね」という。この日まで、右季肋部の鈍痛はごく軽くではあったがつづいていた。その点についても村田先生は、特別の返事をされなかった。

十一月二十五日(土曜日)
夕刻六時から府立二中第二四回卒業生の同期会「山紫玲瀧会」が開かれる。久しぶりの顔が懐かしい。次の同期会は駒が根市長になっている竹村健一君の設営で長野県駒が根市に一泊の予定で開くことを申し合わせる。

十一月二十七日(月曜日)
平塚農業会館で神奈川県市町村職員共済組合の人たちに「私たちの保険財政」と題する講演。

十一月二十八日(火曜日)
葛飾区民会館で葛飾区経済課消費生活係主催にかかる主婦対象の講演会、テーマは「わが家の健康管理」。

十二月一日(金曜日)
日本消費者協会が主催する消費生活コンサルタント養成講座において「日本の医療と医療制度」と題する講義をする。会場は麹町の食糧会館。
この週は三回も講演があった。講演ではそのつど二時間前後の話をするが、話をしているときには痛みなど、ほとんど感じない。

十二月七日(木曜日)
網代の国鉄保養所で東京南鉄道管理局管内の結核回復者を対象に、私の療養体験を含めた結核回復者の生活管理について話をする。

十二月十一日(月曜日)
痛みがすこしずつ強くなる感じなので気になり、先日の集団検診の結果を診療所に問い合わせる。ほかに異常はないが、ALPが一四・五、LAPが三〇八とやや高いということである〔肝臓機能を表わす数値〕。やはり気になるので、いちど詳しい検査をしておきたいと思い、診療所の西谷君に順天堂大病院消化器内科の受診の予約を頼んでおく。

十二月十四日(木曜日)
順天堂大病院で受診。担当は池延東男先生。十一月半ばからの経過を報告し、診察を受ける。結局、血液、尿などの検査をしたうえで、あらためて来週、受診することにする。

十二月十九日(火曜日) 順天堂大病院・検査入院
順天堂大病院受診。検査の結果はALPが一七、LAPが三五四と、共につい一か月前の会社の定期検診の数値より高くなっている。ほかに異常はないが、ALPとLAPについてはさらに詳しい検査が必要だという。検査は外来受診でもできるということであつたが、私は早く結論を出したいと思い、検査のための入院をお願いする。池延先生が入院受付の担当者に問い合わせたところ、本日ならただちに入院できるということである。私は即刻入院を決めた。
いったん出社し、短期間の入院の許可をもらう。
病室は新館十二階の三二〇八号室。この病棟は最近になってからでも、三回入院したことがある。
夕食後、入院に付き添ってきていた光恵帰る。
疲れがでたのか、ベッドに横になっていることがなんとも快いやすらぎで、七時半には明かりを消す。
九時の消燈後、排便をすませ、十一時に、持参の睡眠薬ネルボンをのむ。

十二月二十日(水曜日)
六時、検温で起こされる。体温六度四分。
七時、起床、洗面をすませ、持参のよいお茶を飲む。     ・
朝食は流動食であった。そのあと排便する。昨夜も、けさのものも下痢であった。
十一時半、入浴。午後の胆管造影(ERCP) にそなえて、この日は絶食である。血圧測定一三〇~九二。体温六度六分。
胆管造影という検査は、内視鏡を胃からさらに十二指腸まで入れ、この内視鏡の横についた細い管を胆管に挿入する。そしてレントゲン写真を撮る。
血圧が、朝のはなんでもなかったのに、二時の測定で二三〇~九〇あり、二時二十分には二四〇~九二になった。このころから、急に心窩部に強い痛みを感じる。痛みが激しく、痛み止めの筋肉注射をうち、さらに静脈注射をうち、それでも痛みがとまらずまた筋肉注射と、三回注射をうったが痛みはかわらない。痛いまま薬の効果か、うとうとしている。点滴による静脈注射がはじまり、七時三十分に終わったときには痛みはすっかりおさまっていた。
光恵は、この日は遅く八時までベッドのわきにいてくれた。
栗原稔、宮坂圭一両先生来診。両先生の話によれば、この痛みは胆のうに入った造影剤のためであろうということである。胆のうに結石があったり炎症があるときは、痛みや発熱が長くつづくが、このように早く痛みがとれる場合は、機能的なものにすぎないから、心配はいらないという説明があった。
点滴終了後、リンゴ一個、おせんべい二枚を食べ、お茶を飲む。検査による心窩部の痛みはやわらいだが、前からあった右季肋部の痛みはいままでにないはど強く痛む。のどのかわきがつよい。
十時、ネルボン一錠をのむが眠れない。

十二月二十一日(木曜日) 右を向いても左を向いても痛い
昨夜は一晩じゅう右季肋部に痛みがあった。あおむけに寝ていると比較的らくで、横を向くと痛む。これは右を下にしても左を下にしても同じことである。
六時三十分、検温。きのうの検査のためか朝から七度三分の熱がある。看護婦が水枕をもってきてくれる。全身がだるい。
七時三十分、検査のための採血。八時三十分、血圧測定一人Ot 一一〇。依然として血圧は平常時より高い。九時、心電図の検査。九時三十分、遅い朝食をほとんど食べる。九時五十分、胸部と腹部の単純レントゲン撮影。
池延先生来診。胆のうや膵臓には異常がありませんという。そして、あしたは胃のレントゲン撮影を行ないますともいう。私は、素人考えで、右季肋部の痛みや、ALP、LAPの値の高いのは、胆のうあるいは膵臓の病気によるものではないと思っていたので、安心すると同時に、いろいろな疑間がわいてくる。

十二月二十二日(金曜日)
六時三十分、検温、六度人分。七時、排便。
便がすこし固まってきたので、この便を培養検査に出す。同時に検査のための中間尿を採る。
十時、胃のレントゲン検査。担当の山本先生が「幽門部に小さな潰瘍があるな」とつぶやく。
十一時、十二時、あらためてレントゲン検査室にゆき、小腸、大腸の検査を行なう。
宮坂先生来診。胃か腸におかしなことがあったのですかときいてみる。先生は「あらためて注腸検査をしてみて、そのうえで詳しいことはお話しします」という。注腸とは、要するにお尻から造影剤を入れて腸の精密検査をすることである。
会社の西脇君、後藤君くる。突然の入院であったため、連絡事項が多く、話を聞いたり指示を与えたりする。
消燈後、隣のベッドの赤塚さんも眠れないらしく、ガサガサとうるさい。これも同室の坂本さんがトイレにたつのをきっかけに私も排便にゆく。たったひとかたまりであるが、固くなったバリウムが出る。十二時近く、ネルボン一錠をのみ眠りに入る。

十二月二十四日(日曜日)
あす、注腸検査があるので、きょうは一日注腸食である。すでに経験したことだが、どんな検査よりもこの注腸食がつらい。
十時三十分、きょう二回目の排便。ようやく便に黄いろい色がついてきた。パリウムの滞留期間がずいぶん長かったということだろう。排便後、腹の張った感じがいったんらくになったが、お茶を飲むと、腹が張り、右季肋部に、入院時とまったく同じような痛みを感ずる。
光恵くる。きょうは北海道の光恵の姉の一人息子の田坂幸一君がきていて、みんなでクリスマスイブのまねごとをするという。
注腸検査のための下剤を夜八時と十時の二回のむ。注腸食のまずいのもうんざりだが、この下剤をのんだあとの下痢が、またなんともいえず不快である。この日、下痢は、夜十時十分、十二時、午前二時十分、同五時、同六時三十分の五回であった。

十二月二十五日(月曜日)
七時三十分、最後の仕上げの浣腸を行なう。
いよいよ注腸検査である。肛門からバリウムを入れたあとのいやな感じは、何回やっても変わらない。検査をしながら先生が「レントゲンで見る範囲では異常がないようですね」という。
検査後、部屋に帰り、おせんべいでお茶を飲む。そのあとつづけて二回、下痢があった。内容はすべてバリウムである。すでに下痢をしているから必要はないと思うのに、看護婦が下剤をのめとすすめる。やむを得ずのむ。
宮坂先生来診。胃に小さな潰瘍があり、胆のうの収縮力が弱いという点を除いては、異常はまったくないという。それならALPとLAPの値が高いのはなぜなのですかと質問すると、温厚そのものの官坂先生が、笑いながら「アルコール性肝炎かもしれませんよ」という。こんどの検査入院のさい、池延先生に「このところ寝酒の量がふえておりますので……」と話したことが、宮坂先生にも伝わっているのだろう。そのあとまじめな顔になって「ALP、LAPの値は、入院後すこしよくなっています。なんの治療もしていないのによくなっているとしたら、胆のう炎の心配はまずないでしょう。だからALP、LAPの異常は一時的な肝機能の低下と考えられます」という。
栗原先生来診。「約束の明日の退院を延ばし、肝シンチグラムを撮りましょう」といい、「そのうえで二十七日に私がもういちど、内視鏡をやってみたいと思います」ともいう。
池延先生来診。宮坂、栗原両先生のお話でだいたいのことはわかっていたが、池延先生に、あらためて詳しい説明をしてくれるように頼む。「二十六日の肝シンチグラム、二十七日の内視鏡がすんだら、いちおう退院してもらいます。詳しいことは一月四日の外来でお話することになるでしょう」ということであった。病院も年末年始の体暇に入り、機能がほとんどとまってしまうのだから、それもやむを得ないことと思う。

十二月二十六日(火曜日) 肝膿瘍の疑い
六時、検温、六度三分。すぐ排便がある。便は正常であった。例によって梅干しとおせんべいでお茶を飲む。久しぶりに朝の気分がいい。
十時五十分、肝シンチグラムの検査。
肝炎のような病気では、血液による肝機能の検査でだいたいのことがわかる。より詳しい検査には、腹腔鏡で肝臓の表面の変化を観察したり、組織の一部を取ってくる肝生検による肝臓の組織学的検査が行なわれる。しかし、肝炎のように同じような変化が肝臓全体におこるものではない場合、悪性腫瘍や肝膿瘍のような病気の場合には、肝シンチグラムを行なうわけだ。肝シンチグラムは、肝シンチスキャニングともいい、肝臓に親和性のある放射性同位元素で標識した化合物を血管に注射し、ガンマ線を光に変えて、肝臓の形態をフィルムの上に写しとる検査である。
めずらしく池延、宮坂両先生が一緒に来診され、検査の結果、肝膿瘍の疑いがあるので、あす、急邊、血管造影を行なうことになったといってゆく。
血管造影法というのは、血管の中に造影剤としてヨード化合物を入れ、血液の流れをレントゲン写真に撮って、肝臓内の異常を調べる方法である。十二月二十七日にもなって血管造影をやるというのは、病院の状態からいって、相当な無理を各方面にお願いしたのであろう。
二時三十分、哲くる。あさりのつくだ煮、梅干し、イブの残りの七面鳥などをもってくる。光恵あてのメモをことづける。あす血管造影を行なうこと、したがって退院は二十八日以降になることなどを書いておく。
肝膿瘍という病気がどういう病気なのかよくわからないので、会社に電話して、『国民医学大事典』と南山堂の『医学大辞典』から肝膿瘍の項をコピーしてもってきてくれるように頼む。
午後四時、あすの血管造影にそなえて剃毛を行なう。
四時三十分、後藤君がコピーをもってきてくれる。
肝膿瘍というのは、肝臓に膿瘍が発生する病気だが、小さな膿瘍がたくさん散布してみられる場合と、一、二個の大きな膿瘍が孤立してみられる場合とがあり、膿瘍をおこす菌は、いわゅる化膿菌の場合と赤痢アメーバによる場合がある。私は、赤痢アメーバに感染するはずがないから、私の場合は化膿菌によるものと思う。これは虫垂炎の手術のあとなど、血行性に感染するものと、胆のう炎、胆遺炎に続発してみられるものとがあって、膿瘍の半数以上の症例では進入経路が不明なことが多いそうだ。肝膿瘍は診断、治療のもっともむずかしい病気の一つで、専門医でもその判断に迷うことが少なくないという。孤立性の肝膿瘍であれば、切開、排膿を行なうことで症状は軽快するが、多発性の小膿瘍の場合には、内科的な治療によらぎるを得ない。しかし、多発性小膿場の原因となっている菌の検出はきわめて困難で、なかには抗生物質も効きにくいものがあり、適切な治療法の選択がきわめてむずかしいという。
ここまではよいのだが、『国民医学大事典』には「そのため手おくれになる症例が多く、致命率も八〇パーセント以上ときわめて高くなっており、患者の救命には早期からの適切な診断と治療が必要だ」と書いてある。
宮坂先生来診。コピーで読んだ予備知識をもとに、いろいろ質問する。先生は、「ともかくあすの血管造影の結果を待つことです。この点については、自壁教授にも相談し、レントゲン科のほうにも無理をいって実施してもらうことにしたのです」といって、つぎのように答えてくれた。
一、あなたの場合は、経過がたいへん緩慢なので、膿瘍は孤立性のもので、しかも袋に包まれているものと考えられる。
二、切開、排膿を行なうか、化学療法で治療するかは、これも血管造影の結果をみてから決めることになる。
三、いずれにしても、いちおう二十八日に退院してもらい、来春早々再入院したうえで治療をはじめる予定である。
肝膿瘍という診断がつけば、胃の小さな潰瘍などは大事の前の小事だということなのであろう。肝膿瘍とわかってみると、これまでの自覚症状や病気の経過がなぞ解きのようによく理解できる。肝臓に病気があるときに、右の季肋部に痛みがあるというのは、よく聞く話である。

十二月二十七日(水曜日)
八時四十五分、肝臓の血管造影。検査室には有山、池延両講師をはじめ、数人の先生がすでに待機していた。血管造影は、昭和四十八年に腎臓、後腹膜に腫瘍のある疑いで、すでにやられたことがある。右の鼠径部にメスをいれ、そこからカテーテルをさしこみ造影剤を肝臓近くの動脈に注入する。ごく短い時間とはいえ、お腹の中が突然熱くなる感じは、何度やっても、けっして気持のよいものではない。
二時五分、光恵くる。肝膿瘍についての話をしてきかせる。
検査後は一昼夜の絶対安静が必要である。夕食は、お茶だけですます。そのころから強い寒けを感じ、熱をはかると八度七分ある。寒けがなくなるとこんどはからだが熱くなってくる。看護婦さんに氷枕を頼む。安静にしていなくてはいけないのに、しばしば便意をもよおし、三回、排便に起きる。いずれも水様便である。十時三十分、ネルボン一錠をのみ、眠りに入る。しかし眠りは浅く、四時には完全に目がさめてしまった。

十二月二十八日(木曜日)
官坂先生来診。「肝膿瘍はきわめて小さなもので、化学療法によって落ち着くものと考えられる。きょうからさっそく抗生物質を投与します」という。
十一時、点滴を開始する。この中に抗生物質が含まれているのであろう。先生は、三十日まで点滴をつづけ、年末年始を外泊ということにして、あらためて来春早々からこの治療をしばらくつづけますという。
二十六日の肝シンチグラムのあとでは、孤立性のものが一つあるといったのに、血管造影後のいまの話では、小さなものがいくつかあるという。私にとって、この差はきわめて大きいように思われる。
村田先生に相談して、もっと詳しい話を聞きたいと思う。

十二月三十日(土曜日) 退院
十一時、光恵が退院の手続きをすべてすませる。ねまきから洋服に着かえようとして、全身に薬疹がおこっていることに気がつく。
皮膚科の先生の「この薬疹はまもなく治ると思います」という言葉に勇気づけられて、薬疹のあるまま退院する。             ″
二時三十分、帰宅。ただちにベッドに横になり、久しぶりのテレビを楽しむ。
十一時三十分、睡眠薬なしに眠りに入る。

十二月三十一日(日曜日)
きょうは大晦日である。妻や子どもたちが忙しげに立ちまわっているが、私は一日ベッドで寝ていることにする。
朝、薬疹はすでにうすらいでおり、夕刻にはほとんどわからなくなっていた。家族はNHK恒例の「紅白歌合戦」に興じていたが、私は一人、早く寝床に入る。いつのまにか寝入ったようだ。

昭和五十四年 元日
病気中とはいえ、せめて元日だけはと思い、和服をきちんと身につけ、八時、家族で居蘇を祝う。昨年暮れまで入院していたので、さぞ忙しかったと思うが、お節料理が例年どおり用意してあった。
午後、天野夫妻と彬夫妻、それに飯島の優美子が年賀のあいさつにきてくれる。お正月らしい気分になったが、熱が夕刻に七度五分あり、右季肋部の痛みも強い。

一月二日(火曜日)
和服に着がえ、食膳にむかう。こうして家にいて、家族と一緒にお節料理や雑煮を食べていると、自分では病人のような気がしない。ただ、右季肋部の痛みが気になるだけである。

一月四日(木曜日)
きょうは順天堂の外来で診療を受け、昨年行なった検査の結果を詳しく聞く日である。朝、早めに起き、八時四十分、家を出る。
新年早々のせいか、外来は混んでいない。池延先生は「週に二回、外来で点滴による化学療法を受けるだけで、通常勤務をしてもいいと思う。もしできるなら点滴治療を保健同人診療所でやってもらってもけっこうですよ」という。しかし、たとえ週二回とはいえ、外来通院をするのは気がすすまないし、なんとか早く病気を治したい。あしたにでも入院し、化学療法をより積極的に進めていただくようにお願いする。肝膿瘍の状態について伺うと、「胆管造影で胆のうに異常がないので、門脈からの血行性の感染によっておこった、きわめて軽い肝膿瘍であり、化学療法だけで十分だ」というお話である。入院期間は一か月を越えることはないでしょうという。
帰宅後、村田先生に経過を報告する。

●ガン再発までのこと――主治医から
四十九年六月二日に、岡本さんが私の外来にまいりましたとき、ご自分のからだの症状について克明に書いたメモを持ってきました。
「五月十三日、夕刻よりだるく、からだが非常に熱っぽい感じ。高温多湿の故かと思っていた。帰宅、夕食十時、酒を飲んで寝た。十一時半とつぜん悪寒戦慄が約一時間つづいた。ふとんを掛けアンカをしてようやく寒けがとまった。発汗があった。十二時から二時まで、数回、九度五分の熱がでた。その間、腹部膨満感と軽い胃部の痛みがあった。二時半眠りに入る。
六月一日、七時起床。一日じゅう人度から八度五分の熱があり、一日じゅう腹部膨満感と軽い胃部の痛みがあった。朝、下痢が一回、その後二回軟便。ゲンノショウコ、梅肉エキス、十時ネルボン服用入眠。
六月二日、熱は七度から七度人分、やはりお腹が張り、胃部に軽い痛みがある。軟便が二回。午後、放屁後、腹部膨満感が多少らくになる。十一時ネルボン服用入眠」。
こういうことで六月三日に、私の外来にきたわけです。
岡本さんのお父さんがガンで亡くなっていると聞いておりましたし、非常にやせているし、どうも顔色もよくないので、私には、ガンがどこかにあるのではないかという、仮説みたいなものがありましだ。機会あるごとに腹部の触診をたえず行なっていました。
四十八年の時点では、触診では腹部の腫瘤は触れませんでしたが、四十九年六月二日、おへその右上に、ちょうどゴルフボールぐらいの固い塊が手に触れました。これはガンではないかというごどで、翌日、至急レントゲンを撮ったところ、結腸曲(上行結腸と横行結腸が移行するところ)に、明らかな、ガンを思わせる陰影欠損がみられました。
ちょうどその頃、岡本さんはヨーロッパに行く予定がありました。直ちに旅行を中止してもらい、ちょっとおかしいから、順天堂に相談するからと、レントゲン写真をもってとんでいって、順天堂大病院の白壁先生にバトンをお渡ししたわけです。
(保健同人診療所・村田純一郎)

●― 主治医から
諸検査の結果、右結腸曲に腫瘍があり、さっそく手術しようということになりました。
四十九年六月二十五日、城所教授が執刀、右結腸を含めて大腸右半切除術(結腸の右半分を盲腸から虫垂まで含めて取る手術)を行ないました。そのときには腹水もなく、肝臓、腹膜、見える範囲のリンパ節にも、肉眼的には転移はみられませんでした。手術は治癒切除で、きれいにできました。そして七月十九日に退院されています。
その後は保健同人診療所の外来でたびたび診察を行なっています。五十一年五月、五十二年四月の診察でも特に異常はありません。
順天堂大付属病院には、その間、五十年三月六日に、「朝からめまい、嘔吐、耳鳴り、目をひらくだけでめまいがして、周囲が回転しているようだ」ということで、救急車で入院されています。耳鼻科を受診、内耳性のもので、メニエール症侯群と診断されました。その際、消化器内科で大腸ガンの術後の諸検査も行ないましたが、血液検査でも注腸検査でも全く異常はみられませんでした。その月の十七日に退院しています。
五十三年四月三日、「手術後順調であったが、最近、下痢が頻回になった」ので精査してほしいということで、七日まで入院。私どもは再発のことが頭にあるので、いろいろ検査をしましたが、このとき検査した範囲では異常なしということで帰宅していただきました。このときは″痛み"は訴えていなかったと思います。
そして、五十三年十二月十四日、右の側腹部痛が持続するので、ということで順天堂大の消化器内科外来を受診されました。そのときの血液検査でALP一九・四、LAP三五〇、黄疸はありませんでしたが、肝転移の″疑い″は濃厚でした。
十二月十九日に入院。そのとき岡本さんが提出されたメモには、
「十一月十一日に深酒をしたあと、心窩部右に鈍痛がある。就寝時、就業・退社時などに短時間。
十一月二十日、鈍痛を感ずる時間少しずつ長くなる。深酒した翌日は痛みが強い。背中、季肋部に打ち身よう痛み。
十二月一日、腹痛と背中の痛みが区別しにくい。そして痛みしだいに強い。まったく痛みを感じない時間もかなり長時間ある。
飲酒は、寝酒ウイスキー一二〇~一五〇ミリリットル。外での酒、週一~二回、ビール三~四本、水割り五~六杯」
と書いてあります。
さっそく肝シンチグラム、血管造影検査を行ない、その結果、まず一〇〇パーセント転移にまちがいない、ということになりました。
そのときに、白壁教授と私どもで相談してつけた診断名が″肝膿瘍″ということだったわけです。直ちに抗ガン剤(フトラフール)の投与を開始。この際、この薬を単味として処方すると、岡本さんのことだからお調べになることもあるだろうと、薬局長と相談しまして、岡本さんだけの特例として、特別の記号もつくり、他の整腸剤と混ぜて、経口的に投与しています。
(順天堂大病院・栗原稔)


今回は病名がわかっている

一月五日(金曜日) 順天堂大病院。再入院
光恵を大学病院にやり、入院手続きをすませてもらい、私は会社に行く。会社で社長、同僚諸氏に再入院の話をし、しばらくご迷惑をかけることをお詫びする。
十一時十分、入院。病室は三二〇七号室である。
池延先生来診。池延先生の話では、週に二回、抗生物質を高濃度で入れていくという。どうせ入院したのだから、週二回などといわず化学療法をもっと積極的に進めてもらいたい。宮坂先生が来診されたとき、このことを雑談めかして話したところ、宮坂先生は、点滴は毎日やりますよという。しかし、点滴を毎日やるといっても、高濃度の抗生物質を入れるのは、そのうちの適二回だけということになるのであろう。
昨年の入院では、検査に明け暮れていたし、病名がわからないという不安もあったので、あまり本を読む気にならなかった。きょうはさっそく、島尾敏雄の『死の棘』をひろげ読みはじめる。
九時の消燈後、眠っているのか起きているのか、どちらともわからない混沌とした気分のなかで、しきりに夢をみる。
目がさめるたびに右季肋部の痛みが気になる。

一月六日(土曜日)
三時から目がさめてしまった。六時三十分起床。洗面の後、いつものように朝のお茶を飲む。
九時四十五分から十一時十分まで、点滴。
宮坂先生来診。入院前高かったLAPの値がすこしではあるが下がっているといわれる。
四時三十分、光恵くる。梅干し、のり、くだものなどのほか、頼んでおいた小型のラジオをもってくる。
消燈後、十時半までレシーバーをつけてラジオをきき、十一時ごろ眠る。

一月八日(月曜日) .
きのうまでかゆ食であったが、きょうからは普通食にしてくれるよう頼む。
宮坂先生来診。気になることをそれとなくきく。「医学書によれば、肝膿瘍は思いのほか重い病気なのですね」。
先生は、「症状が軽いのは膿瘍が小さいからです。このように症状の軽い場合には、治癒率はきわめて高いので、そう心配することはありません。ともかく、経過をみていくことですね」という。
呂先生の来診のさいにも同じような話をする。先生は「医学書に書いてあることはあくまで一般論なので、問題はあなたの肝膿瘍に、現在行なわれている抗生物質がうまく効くかどうかなのです」という。
二時三十分、入浴。
夕刻、西谷君が見舞いにきてくれる。

一月九日(火曜日)
塚本哲先生〔保健同人選書『ぼっくりさん信仰』著者。東北福祉大学教授〕が、思いがけなくお見舞いにきてくださる。きのう所用があって私あてに電話をしたところ、入院していると聞き、さっそく駆けつけてくださったのだそうだ。塚本先生も五十一年に上行結腸の手術、五十三年に腎臓摘出の手術と二度の大病をされている。しかし、お見かけしたところではむかしのままの元気なお姿だったので安心する。
栗原先生来診。先生から「この病気は治癒の判定が困難なので、あなた自身の自覚症状や発熱の状態などをみながら、すこしずつ社会復帰をして、その経過を観察していく以外にありません。あまりあせらないで、すべてを医師にまかせてください」とさとされる。
六時、池延先生来診。昼間の検温では熱がまだあるようなので、きょうから就眠時の体温もはかることにしましょうという。言外に、なぜ熱が下がらないのだろうといった気持がにじみ出ている。
夜十一時の検温では六度三分であった。やはり熱の高いのは昼間だけである。

一月十日(水曜日)
官坂先生来診。CTスキャンナーの検査をしたいのですが、まだこの病院にないので、近日中に都立大久保病院に行って検査をしていただきたい、という話がある。

一月十二日(金曜日)
大久保病院に行き、CTスキャン(コンピューター断層撮影)の検査を受ける。帰りに新宿飯店でそばを食べ、車をひろって東京女子医大まで足をのばし、入院中の大沼正君を見舞う。大沼君は小学校の同級生で、読売新聞の文化部の芸能記者として、最近めっきり売り出している男だが、食道ガンの疑いで女子医大に入院中である。考えていたより元気なので安心する。入院中の患者が入院している友人を見舞うなど、奇妙な話だ。
四時二十分、病院に帰る。午前中外出したせいか、三日ぶりに熱が七度を越した。

一月十六日(火曜日) 二月の講演旅行にゆけるだろうか
入院してからここ数日は熱もな.く、体重もややあえたようだ。右の季肋部には、相変わらず軽い違和感があるが、痛みというほどではない。排便も一日一回、きちんと正常便が出る。治療の効果がいろいろの面で出ているという感じがつよい。
宮坂先生来診。三月一日の熊本市における、「医療を考える会」の出席の可否について相談する。「今週いっばいくらいで点滴治療を終わり、あとは経口投与にきりかえ、その後、すこしずつ労働を付加していって、一、二か月経過を観察していくつもりです。病気が完全に治ったかどうかの判定は、CTスキャンやLAP、ALPなどの数値を見て、三か月先になってから決めることになるでしょう。三月上旬の講演旅行は、まずさしつかえないと思います」という話であった。
私は、三月二日に、以前から宮崎県主催の市民対象の講演会の講師も頼まれていたが、その返事を保留しておいた。三月一日熊本、三月二日宮崎という日程なら万事好都合だと思い、気分があかるくなる。

一月十七日(水曜日)
九時十分、胃の内視鏡検査。担当は丸山、呂の両先生。九山先生が「きのう大橋先生にお日にかかりましたよ。彼が、どうしたのかなといって心配していましたよ」といわれる。大橋先生は、最近順天堂大学からガン研病院に転勤された。私が前回、結腸の平滑筋腫で入院したときの病棟主治医である。
検査の結果は、栗原、九山両先生方のお話では、胃に母指頭大の浅い潰瘍があり、ステロイドや抗生物質などの薬剤によっておこった潰瘍に似ているという。入院以来、すでに潰瘍浩療のための薬剤を使用しているので、まずこのまま自然治癒するはずだということである。
天野の兄、小学校時分の同級生、小俣健治君が見舞いにくる。

一月十八日(木曜日)
宮坂先生来診。点滴を行なう。気分がいいので食事のあと、病院内の床屋へゆく。
日本経済新聞の竹内治郎君と博報堂の石尾茂君が見舞いにくる。石尾君はかつて私の同僚であり、その当時、雑誌『保健同人』のカットやンタリングは、ほとんど竹内君に頼んでいた。三人で新宿あたりをうろついた若い時代が懐かしい。心おきなく話し合いのできる仲間である。

一月十九日(金曜日)
住吉栄蔵氏お見舞いにみえる。住吉さんは、姪天野由利子の夫、晃君の父上である。かつて晃君のからだの調子がよくなかったとき、私がこの順天堂大の栗原先生に紹介し、早期に手術できたために、胃潰瘍が完全に治ったことがある。いまだにそれを多とされ、私が具合がわるいと聞くと必ず丁重なお見舞いをしてくださる。
このところ夜、眠れないで困る。朝起きたとき熟眠感がなく、気分もよくない。眠れない夜は、右季肋部の痛みが、気になる。

一月二十二日(月曜日) 退院をすすめられる
官坂先生来診。点滴を行なう。先生にも婦長にも右季肋部の痛みが再び出てきたことを訴えるが、宮坂先生は「きょうあすで点滴を終わり、そのあとは経口剤にきりかえます。来週早々にも退院ができるはずです」とくりかえしていうだけである。

一月二十二日(火曜日)
最後の点滴を行なう。宮坂先生がかさねて退院をすすめ、その日取りを二十九日の月曜日と予定する。それまでは、できるだけ外出などをして運動を付加し、退院後の勤務にそなえたほうがいいでしょうとアドバィスしてくださる。
午後、腹痛ますます強く気になる。

一月二十五日(木曜日)
七時三十分、朝の早い時間に宮坂先生来診。外出をすすめられる。
午後、病院を出て社に寄ってみる。後藤君が、私からコピーを頼まれたとき、その致命率が八〇パ―セントもあるという内容に驚き、はたしてこのままのものを届けていいかどうか、ずいぶん悩んだんですよという。そばで聞いていた社長が笑いながら「それはこの本の編集者が悪いのだ」という。その編集者とは私である。たしかに一般大衆のための家庭医学書に、致命率八〇パーセントなどと書く必要はない。ただたんに「比較的治りにくい病気である」とするぐらいで十分であった。

一月二十六日(金曜日)
きょうは白壁教授の回診である。回診の前に栗原先生が顔を出し「二十九日の退院だそうですね」といい、また、「もうすこし大事をとったはうがいいとも思うのですが」と遠慮がちにいう。そして「退院した後はぼくの外来にいらっしゃい」ともすすめてくれる。
午後の白壁教授の回診では、格別の話はなかった。
夕刻ごろから、また右季肋部の痛みが強い。二時過ぎまで眠れず、しばらくのまないでいた睡眠剤のやっかいになってしまった。

一月二十七日(土曜日)
検査のための便と尿を出す。
きょうは熱もなく、格別のこともなかったのに、夜になると、やはり右季肋部の痛みが強く眠れない。看護婦さんに痛み止めをもってきてくれるように頼んだが、湿布をするだけで、痛み止めの注射をうってくれない。

一月二十八日(日曜日)
右季肋部の痛みが強いが、明日退院ということがいつのまにか既定の事実のようになっているので、光恵に、荷物の一部をもって帰ってもらう。

一月二十九日(月曜日) 退院
十二時、退院。きのうまであれはど痛かったのに、きょうはふしぎに痛みを感じない。家に帰って家族と一緒に夕食をし、入浴をした後、心がやすまったのか、早く眠りに入ることができた。

一月三十日(火曜日) 右下腹にしびれ感
終日ベッドの中で、星新一著『小金井良精の記』を読む。夕食後、腹の張った感じとともにいつもの季肋部の痛みのほか、右の下腹、おへそから下で、しかもその右の部分だけに奇妙なしびれ感がある。これはいままでにない違和感であった。

二月一日(木曜日)
一昨日来の右下腹のしびれ感がしだいに強くなる。入浴して頭を洗ったところ、頭髪がひどく抜けるのに気がつく。おそらくは抗生物質の大量療法を行なったための副作用であろう。


これが心因性の痛みなのか

二月八日(木曜日)
きょうは、退院以来はじめての外来受診である。池延先生に右季肋部の痛みがしだいに強くなってきたこと、それに右の下腹に強いしびれ感(知覚異常)があり、パンツのゴムがすこしきつくてもきわめて不快な感じがあるということを強く訴える。
池延先生は「私どものデータでは、すべて経過は順調で、消化器内科のほうでは、そのような痛みの原因はわからない。念のために脳神経内科で診察してもらいましょう」といって、その場ですぐ電話をしてくださる。
しかし、その方面の専門家である福田真二講師の外来は、いつも患者が殺到し、この時間に受診を申し込んだのでは、診察の終わるのが夕刻になるということで、脳神経内科の受診は来週に延ばすこととする。

二月十五日(木曜日) 順天堂大病院・脳神経内科受診
池延先生の外来をすませ、あらかじめ診察券を提出しておいた脳神経内科に行き、しばらく待たされた後、福田講師の診察を受ける。脳神経内科特有の、指を動かす、手を動かす、体を動かすなどのこまかい診察が行なわれた。福田先生は、先週撮ったレントゲン写真をみながら、詳しい説明をしてくださる。話の大要は、神経内科的にみても、そのような痛み、あるいは違和感が感じられる原因はまったく見あたらないということである。
それにしても、私自身、痛く、知覚異常のあることにかわりはない。かさねて質問をくりかえすと、福田講師はいつか私の痛みを心因性として考えているらしき発言になっていく。私も心身症についてはいくつかの実例を見ており、からだにまったく異常がないのに、考えられないような激しい症状を示す例があることはよく知っているつもりであったが、さてそれを自分にいわれた場合、患者としてはけっして愉快でない。私はこの気持を隠せずに、「ではすぐ仕事についてみたはうがよいでしょうね」と念をおしていく。
福田講師は「あなたの場合、病気に負けて、あるいは仕事を避けるために病気に逃げているということも考えられなくもない。あらためて池延先生に相談したうえで決めることではありますが、私としてはすぐ日常生活に戻るほうがよいと思います」という。
脳神経内科の外来から、再び池延先生の外来にまわり、以上の話を報告する。そして「そういうことなら来週から出勤することにします」といい、「仕事に戻って、もしこの痛みが軽快していくなら、私としても自分の症状が心因性であることを認めましょう。ですが、もし痛みがさらに強くなったときには、先生が責任をとってくださいますか」とまでいってのけた。先生は笑いながら「引き受けますよ」といってくださる。

二月十九日(月曜日) 出勤
その後はじめて会社に出勤する。月曜日恒例の連絡会議に出席し、いままでの欠勤を同僚諸氏に詫びるとともに、しばらくの間は月、火、木、金の四日を出勤日にあて、しだいに慣らしていきたい旨の希望を述べる。社長が、朝もすこし遅らせ、退社もすこし早めてけっこうですよといってくれる。

二月二十二日(木曜日)
会社へ出勤する日であるが、痛みとしびれが相変わらず強いので、順天堂大病院に寄り道し、池延先生の外来で受診する。外来でもらった処方箋を薬局に提出する前に、ついその内容を見てしまう。この処方には胆汁の分泌を促進させる薬や、胃の潰瘍の薬あるいは腸内細菌叢を改善する薬などが入っているほか、どういうわけか抗アレルギー剤も入っているし、院内処方らしき記号のものがほかに二種類ある。

二月二十八日(水曜日) 熊本。宮崎講演旅行
病気が治って出社しはじめたばかりだというのに、かねての約束でもあったので、熊本、宮崎での講演について社長の了解を求め、飛行機で熊本に向かう。ホテル・キャッスルに一泊。夜は同行の健康保険組合連合会理事北野寿三郎業務部長等と熊本日日新聞社の小宴に招かれる。 一行のなかには、熊本日日の担当氏と旧制五高の同窓であったものが二名おり、翌日の講演会の打合せのはずが、まるで五高の同窓会のようになってしまった。

三月一日(木曜日)
午後一時半より、熊本日日新聞のセミナービルで「よい医療を受けるために」と題した講演を行ない、出席した約五十名の主婦たちの質問を受ける。
同行の人たちが東京へ帰ったあと、一人でひきつづき熊本泊。

三月二日(金曜日)
熊本発七時五十六分の急行えびの一号で宮崎に向かう。熊本―八代―人吉―吉松―都城―宮崎と、国鉄の鹿児島本線、肥薩線、吉都線、日豊本線と四つの線を結んで一日に二、三本組まれた急行列車である。鹿児島本線の八代から人吉までの肥薩線の車窓からの眺めは、久しぶりの旅を満喫させてくれた。
十二時四十人分、宮崎着。迎えの車で宮崎中小企業センタービルに車を走らせ、一時からの講演会に出席。県の消費生活センターが地域の女性を対象に催した消費者生活講座で、「私たちの健康は守られているか」と題して講演する。
講演後、同センターの押領寺さんの案内で、宮崎市内の主なところを見物させてもらう。すべてにこせこせした感じのない、豊かな雰囲気を身につけた町であった。
今夜は宮崎で一泊。あすは、えびの高原に一泊、一日の体養をとり、高原の散策ですごし、再び宮崎に戻り夕刻四時宮崎発の飛行機で東京に帰ればよい。

三月五日(月曜日)
きのうまでの三泊の旅行はたいへん楽しく、疲れもなく、痛みもそれほど感じられなかった。出社し、連絡会議や午後行なわれた出版企画会議に出席、久しぶりに保健同人社の仕事に復帰した気分になれた。

三月八日(木曜日)
退院以来、つごう四度めの順天堂大病院外来受診である。消化器内科で池延先生、脳神経内科で福田先生の診察を受ける。池延先生は格別の異常はないといい、福田先生も改めて撮ったレントゲン写真をシャウカステンにかけながら「あなたの訴える痛みは脊椎におこった異常が原因とするには、その神経の支配野と矛盾するところが多く、神経内科的には異常がないと申しあげるほかはない」、と重ねてそれが心因性のものであることを強調する。

三月十五日(木曜日)
順天堂大病院外来受診。池延、福田両先生とも「異常なし」という。池延先生に、右季肋部の痛みと右下腹のしびれ感について、それが強くなっていることを訴える。肝シンチグラムの検査を受ける。

三月二十一日(水曜日)
きょうは彼岸の中日。瑞光寺〔岡本家の菩提寺〕へ墓参りに行く。

三月二十八日(水曜日)
つい先日に東京女子医大に見舞った大沼君が、西荻中央病院に転院した後、けさ死亡したという話を聞く。さっそくい枕花を贈るよう手配する。大沼君の食道ガンは放射線療法である程度おさまっていたが、長い新聞記者生活中の深酒でおこしたと思われる肝硬変が原因で静脈瘤の破裂をおこし、吐血しての急死であった。

四月二日(月曜日)
朝、本年度採用の新卒社員を全社員に紹介する。
ここのところ、話をするとき、私のろれつがすこしおかしいという指摘を受ける。親しい仲間は、ろれつがまわらなくなるはど強い薬をのみながら、無理に出勤するのは考えものではないかと忠告してくれる。

四月五日(木曜日)
順天堂大病院外来受診。十六日から一週間の予定で再入院することに決める。池延先生としては、肝膿瘍がこの二か月間でどのようになっているか、どこまで治っているかを調べるための検査のつもりのようである。私としては、この入院を機会に右季肋部の痛み、右下腹の知覚異常を徹底的に調べてもらいたいと思う。

四月六日(金曜日)
社の経理の日原哲子さんが、こんど定年になり、ひきつづき嘱託として勤務することになった。私は日原君や調査部の所沢君には日ごろたいそう世話になっている。その感謝の意味をかね、庭の満開の桜を見においでくださいと誘う。両君だけではさびしいので、数年来「岡本家の桜は上から見おろすだけにすばらしい」といつもはめてくれる有吉堅二君と、松山和子さんにも加わってもらう。楽しい花見の宴であった。

四月九日~十一日 伊豆長岡二泊の旅
先月の末に、大渡社長から「岡本さん、いちどご夫婦で旅に出てみませんか」という話があった。病気でしばらく休み、復社して無理な仕事をしている私への社長の思いやりであろう。同時に、私の看護のために心労の多かった妻に対するいたわりの気持とも考え、すなおにそのはからいをお受けすることにした。
「宿は私にまかせてください」といわれていた長岡の二養荘に着く。
三養荘は、私の想像を絶する豪奢な旅館であった。金持の別荘の立派な庭園にいくつかの離れ屋が独立して建ち、その一つ一つが数寄をこらし、まさに豪華としかいいようがない。その離れ屋は、それぞれに浴槽を持つ。芝生を敷きつめた広い庭には小鳥が舞い、四月の花が擦乱と咲き乱れている。
妻は、こんな立派な宿に泊まるなどということは、これから先も考えられないなどといいながら、ため息をついていた。
十日、宿に手配してもらったハイヤーで大瀬崎を一周する。
十一日、宿をたち、修善寺まで出て、浄蓮の滝に遊ぶ。同日夕刻、帰宅。まさに王侯の気分をあじわった二泊の旅であった。妻がしみじみと「もうこんなぜいたくな旅は、一生できませんね」などという。

四月十三日(金曜日) 「痔療ですよ」
これを弱り目にたたり目とでもいうのであろう。一か月はど前から肛門周囲に軽い腫れがあることに気づいていたが、それを強くおしたら、少量の出血があった。出血の後、少量ではあるが膿汁がちり紙についたので、いちおう痔痩を疑い、かねてごじっこんにねがっている五反日の三輪先生〔三輪病院長。保健同人選書『痔をなおす』の著者。五十五年一月八日、膵臓ガンで亡くなられた〕の診察を受けにゆく。
先生は患部をひとめみただけで「これは痔療ですよ」という。来週早々、順天堂に入院する予定ですと申しあげたところ、さっそく順天堂大第一外科の谷先生あて紹介状を書いてくださる。

●――主治医から
一月四日に外来に受診されたとき、外来で治療しましょうとしきりにおすすめしたのですが、岡本さんは、″肝膿瘍″をご自分でお調べになって、たいへんこわい病気なので入院治療してほしいという希望をだされました。そこで翌五日に入院、一月二十九日にいったん退院されるまで、抗ガン剤による治療を強力に行ないました。
退院後はそのまま外来で治療をつづけておりましたが、痛みもとれないし、右側腹部にしびれ感がでてきた、脱毛もある、なにかおかしいと、しきりに訴えられるのです。
そこで脳神経内科を受診していただいたわけですが、このあたりから、誰がはっきりそういったということではないのですが、″この痛みは心因性のものだ″というのが、どこからともなくでてきてしまったわけなのです。
もちろんわれわれには、それがガンによる疼痛だということはわかっているのですが、ご本人はそれを知らない。必死になって、ここが痛いのだ、持続する時間はこうだ、さしこんでくるとじーっとしていてもちっともらくにならない、しびれてくる、そういうことをことこまかに訴えてこられるのです。実際にたいへんな痛みに苦しまれているのですから、岡本さんでなくても、それを"心因性"といわれては納得できないのは当然だったと思います。しかし、私どもとしてもそれをいうわけにはまいりません。
三月十五日の肝シンチグラムの結果では、十二月の写真と比較してみると、ガソは明らかに増大しており悪くなっていました。
四月の半ばころになると、かなり持続して痛む、側臥位がとれないくらい痛むようになり、再入院ということになりました。
(順天堂大病院・栗原稔)