岡本正、病上手の死下手、1部 締め切り日はいつなのか | オカポンのブログ

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岡本 誠 OKAMOTO Makoto

締め切り日はいつなのか

九月十二日(水曜日)
きょうも目ざめが遅い。十時三十分、遅い朝食をとる。お昼まで原稿の執筆。
原稿を書いていると、やはり右の横腹が痛くなってくる。ベッドに入り、雑誌を拾い読みする。月刊『現代』に「日本の医療をダメにした元凶」という記事がある。社会保険中央病院の三輪という先生の執筆にかかるものだが、この数年同じような告発が何度もなされ、書籍としても何冊も出版されているのに、事態はいっこうに改善されない。むなしさだけがのこる。
昼食後、再び月刊『現代』を取り上げ、「我慢できない新聞記者の騎り・非常識・ゆ着」という記事を読む。週刊誌などの若い取材記者の不勉強ぶり、あるいは非常識な態度については、私もこの数年、しばしば悩まされたものである。現在私は、かつて私が若い時分に書いた著名人の療養日記を読みかえしているが、そのとき、私にも不勉強な点や、傲慢な取材態度があったのではないかと、いまさらのように反省する。
午後に二時間原稿を書く。
新聞の記事で、結核死亡が九千人を割ったことを知る。私が療養した時代は、毎年十五万人をこえる死亡があった病気である。結核による死亡はなくなったが、しかし現在まだ年間八万人の新しい患者があり、現在結核治療中の患者は、三十万人をこすという。私は私が療養した時代の体験を、やはり記録しておく必要があると、あらためて原稿執筆への意欲をわかした。

九月十四日(金曜日) 安楽死について
昨夜は久しぶりによく眠れたので、朝の寝起きも気分がいい。朝食後、十時すこし過ぎから、十二時三十分ぐらいまで原稿を書く。仕事をしていると、やはり疲れが出てくる。
限られた時間のなかで、原稿を完成させるためには、もういちど構成を考えなおさなければいけないかとも思う。しかし、私はもともと融通のきかない人間なのだろう。結局、入院中に考えた構成のまま、締め切りに間に合うかどうかを別問題にして、このままのかたちで書きすすめようと決める。そう決めてみると、入院中を無為に過ごしたことが、悔やまれる。
とはいえ、病気の正体を知らず、いずれは完全に治ると期待していたことが、私の病気の進行を遅らせていたのだと考えれば、これもいたしかたのないことである。
昼食後、書斎の整理をする。死に関係する文献のリストが出てくる。これは新宿の紀伊国屋書店の発行になるもので、自殺に関するもの三十、安楽死に関するもの十一、死と看護に関するもの五、愛と死に関するもの十、生と死に関するもの二十一、死とその後に関するもの十一、死ぬ瞬間に関するもの六、死生観に関するもの二十二、さまざまな死についてのもの三十五というようにきちんと整理してある。このリストを手にして私の書棚をみわたすと、自殺に関するものわずかに一冊、死と看護に関するものは先日、季羽さんからもらったもの一冊、死生観に関するもの一冊ときわめて少ない。
死の瞬間についてのものは三冊ある。これまで私にとって死への関心は、死の瞬間における当人の意識の問題に比重がかかっていた。E 。キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』を何度か読みなおしたことを思い出す。安楽死に関する文献が、大田典礼先生から贈られた著書を含め数冊ある。これは太田先生のご提言以来、私にも何度か安楽死の問題について、発言を求められたことがあるからである。
しかし、私のような若輩が、安楽死について云々するなどということは、あまりに僣越なので、そのつど辞退した。それでも私は、雑誌『暮しと健康』の「渡辺淳一氏の連載対談」において、大田典礼先生をグストとして、安楽死について対談したこともあるし、大田先生の編著にかかる『安楽死』が発行されたとき、その版元の社長がかつて保健同人社に在籍したことがある縁で、太田典礼、植松正両先生の対談に私も加わり、なんとなく司会のような役割を果たしたこともある。
月刊『エコノミスト』からは、植松正先生と那須宗一先生のお二人に私を加え、安楽死をテーマに鼎談してはしいという申し出があったが、このときも固く辞退した。しかし『エコノミスト』編集部から、この司会はなかなか難しいと思っていたところなので、それでは岡本さんが司会ということにして、植松、那須両先生の対談の形式にしてはどうでしょうかという話になり、結局引き受けてしまったこともある。
安楽死のような問題は、 一人の患者と一人の医師とのあいだに深い信頼関係があるときには、なんらかの形式で、すでに数多く実施されているものであろうと私は思うし、これをあえて法制化する必要は認めないというのが私の考えかたである。しかし私の親族に、もし安楽死させたほうがよい明らかなケースがあったなら、私はあえてその道を選ぶであろう。そして、それが法に問われたとしても、それはやむを得ないことだと思う。
もし私自身が安楽死をしたいと思うような状態に陥った場合には、私は、先生に、完壁な安楽死をと迫るのではなく、「医師の使命が患者の延命にあることは、よくわかっておりますが、患者としては、できるだけ苦しまないで、安らかに死にたいと思います。その処置が多少死を早めるとしても、私はすこしも後悔しないつもりです」というような表現で、それとないお願いをするつもりでいる。そういう私のねがいをきく先生の立場を考えれば、無礼極まりないこととは思うが、それは私自身にとって非常に大事な問題なので、あえてその失礼を辞さないつもりである。
死に関係する文献をあれこれ手に取ってはみたが、いまさら読みなおす気にはなれなかった。
保生園の斎藤さんから電話があり、先日依頼しておいた患者自治会の機関誌『魔の山』のバックナンバーはみつからないそうである。残念だが、もう二十年以上もむかしのことであるので、それもやむを得ないと思う。
夕刻四時三十分から一時間、夕食後八時から一時間半、それぞれ机に向かいペンをとる。
十時、入浴。十一時睡眠剤をのみ、十一時三十分、十二時三十分と二度ソセゴンの注射をうち眠る。

九月十五日(土曜日)
退院以来すでに二十一日になる。入院中あれはど暑かったのに、退院してからはずっと涼しい日がつづいていた。しかし、きょうは久しぶりに暑い。十時に朝食をすませ、ベッドでぼんやりしているうちに、また二時間ほど眠ってしまった。
子どもたちはきょうも朝早く家を出、夜遅くまで帰らない。育児は、子どもの親離れによって完成する、という言葉が、しみじみと思い出される。光恵がこれからも、子どもたちのこの親離れという現象を、否定的に受けとめるのではなく、積極的に、喜んで受け入れるような心境でいてはしいと思う。
入浴後、頭にハサミを入れてもらう。毎日入浴できる、そのことだけで生きていることの幸せを身にしみて感じる。

九月十六日(日曜日) スモン訴訟に思う
六時に目がさめ、さっそく朝刊を読む。スモン訴訟の和解の確認書が調印されたそうだ。スモンが日本だけに多発したというその事実、その現象の確かな原因を、たとえ長い時間をかけてでも明らかにしなければならない、と思う。
むかし、公衆衛生院の重松先生から伺った話を思い出す。科学というものは、因果関係の理屈の原則が、確実に実験によって確認されない限り真理とは認められない。法律でも同じことがいえる。二人の刀を持ちた人間がいて、ある人間が、その二人の刀によって死をもたらされたとする。二人のどちらかに殺されたという事実は明白である。しかし、その二人のうちどちらの人間が直接の死因をもたらしたかが明らかにされない限り、容易に殺人罪の判決を適用できない、ということがあるのだそうだ。
従来の日本の医療関係の裁判では、科学的にその原因が確認されない限り、しばしば医療の加害者は無罪になった。しかし最近では、それらをのりこえて、法律によって加害者に敗訴がもたらされることが多い。これは確かに、被害者である一般大衆にとって喜ぶべきことではある。それにしても、スモン訴訟において、国と製薬会社だけが被告になり、患者に必要以上の大量のキノホルムを、長期にわたって直接投与した医師の責任がすこしも追求されないという事実に、疑問を感ぜずにはいられない。
テレビで「日曜美術館」をみる。桑原武夫氏の富岡鉄斎に関する解説がたいへんおもしろかった。
このところ光恵が油絵に熱中しているので、光恵からの話題は、ともすれば絵のことになる。中年過ぎてから習いはじめたことでもあり、光恵は絵を見、絵を描くことにすなおな喜びをあらわす。しかし私は、どんな絵を見ても、それをいったん言葉になおして理解しようとする傾向がある。風景画にしても、光恵がよいという絵は、ただ美しいだけである。私は風景を見て、作者のわれわれに語りかける言葉をその中に読みとりたい気持がいつも動く。人物画についてはとくにそうである。ただ綺麗なだけの人物画はすこしも私の胸を打たない。富岡鉄斎の人物画では、そこに描かれた人の思想に鉄斎が懸命に追ろうとしているそのことが、私たちの心を打つのだろう。桑原武夫氏の解説のなかで、晩年の鉄斎に、中国学者の内藤湖南、狩野直喜の影響が大きかったという話を聞いて、いっそう興味深かった。
気分がよいので、机に向かって仕事をはじめたら、光司が見舞いにきた。先週、光司が提案した房州行きの一泊旅行の、具体的な案をもってきてくれる。これが最後の旅になるかもしれないと思い、同行を承知する。しかし私には注射が必要で、そのために光恵を同伴しなければならない。光司にも世津子さんを同伴するように頼む。結局、兄弟夫婦二組の房州行きを決める。

九月十七日(月曜日) ハリ麻酔による生 帝王切開実況
夜十時、NHKテンピの、科学ドキュメント「ここまでわかったハリ麻酔のなぞ」をみる。画面にはいきなり豊島病院産婦人科での飛松先生のハリ麻酔による帝王切開の実況が登場していた。 ハリ麻酔は私の病気を治すことはない。しかし、あの右下腹のしびれがなくなったのは、明らかに飛松先生のハリのおかげであった。『漢方・鍼灸・家庭療法』の企画の段階でいろいろご指導いただいた間中喜雄先生も登場し、中国におけるハリ麻酔と、日本で現在行なわれているものとの違いを解説される。モルヒネと同じ役割を果たすエンドルフィンという物質が、脳内に分泌される実験の実写がおもしろい。カメラは再び豊島病院の産婦人科に移って、元気な子を産んだお母さんの談話があり、豊島病院におけるハリ麻酔による帝王切開の症例はすでに一一五例である、という言葉がしめくくりであった。
いつものように、遅い時間に睡眠剤をのみ、ソセゴンを注射するが、なかなか眠れない。気分転換のために居間にゆき、自湯など飲む。現在の私にとっては、病気そのものに対する恐怖より不眠へのこわさがつよい。『暮しと健康』の渡辺淳一氏連載対談に登場していただいた、作家の有馬頼義さんの、睡眠薬中毒の話がなまなましく思い出されたりする。
九月十九日(水曜日)
昼食後、西荻中央病院に行く。
荒木先生は「退院してからのほうが調子がいいでしょう」という。
私は順天堂大病院にしても、豊島病院にしても、格別の待遇をしていただき、入院生活に不満な点はまったくなかったといっていい。しかし、こうして家に帰ってきてからのほうが、すくなくとも入院中よりは人間らしい生活ができている。このことも併せて感謝したい気持でいる。
帰宅後、また二時間近く机に向かう。

九月二十日(木曜日)
誠の就職に、どうやら有望の可能性がでてきた。ほかにも、卓球部の先輩が人事部長をしているある会社で、自分のところ一本にしぼるなら、なんとか好意的な計らいができるという話ももらってきたらしい。きょうあたり誠は、気持が落ち着いているらしく、私との雑談にも心なしか弾みがついている。   .
昼間まどろんだときはいいのだが、起きていると右のわき腹に軽い鈍痛がある。この痛みがすこしずつ強くなっている。横になっても、仕事をしていても、痛みかたに変わりはない。しかし長く起きていると、痛みはいっそう強まる。 一時間から二時間仕事をし、痛んだらすぐ横になり、またしばらくして起きだすという生活で、ここ当分は送れそうだ。
仕事を急がなければならない。

九月二十一日(金曜日) 病者のための医学
九時四十分、遅い朝食をすませ、テレビをつける。小川宏ショーで、丹波哲郎が死についてしゃべっている。彼は死の問題をテーマに、三部作の映画をみずからプロデュースすることが念願だそうだ。丹波は死後の世界を信じ、死を常にみつめてきたから、たとえガンの宣告を受けても、普通の人の一〇分の一もショックをうけないという自信があると語る。
私はそんな偉そうなことはいうつもりはないが、私自身がガンであり、予後はまず三ないし六か月であるとわかっていても、ふしぎと心に動揺はない。
十八歳のとき、私は死の宣告をされたに等しかった療養生活に入った。心の底ではずっと死をみつめ、その時を考える、そんな毎日であったように思う。あの時以来、私がいつも抱いていたのは、人間いつかは死ぬ、それが早いか遅いかの違いだけだという諦念だった。
週刊朝日に連載された司馬遼太郎の『胡蝶の舞』が単行本になり、その広告が本日の朝刊に載っている。そこには全五段というスペースの大半をさいて、帰国を前にしてポンペ〔オランダの医者。長崎養生所の教頭として日本人に西洋医学を教えた〕が松本良順に語った言葉が書かれていた。いわく「松本さん、世の中でいちばん愚劣なことは、病者のために学んだ医学を、立身の道具にすることです。それ以上に愚かなことは、医学を道具に無用の金もうけをすることです」。
この十数年、私がわずかの場を与えられて、社会的に発言してきたことも、このひとことに尽きる。現在の日本の医療の現実が、このポンペの警告を受けるに値するような状況である以上、私たちはその現実から身を守るためにも、私たち自身の患者学をつくりだす必要がある。と同時に、国民皆保険のもとで、国民自身にも、多くの心得ちがいがあることを警告する必要もあった。これも私の患者学の大事な要素のひとつだったと思う。
十一時から約二時間近く机に向かう。
西荻中央病院の帰路、駅前の山水楼で妻と昼食をとり、書店にまわって帰宅する。三時間も外を歩くと、さすがに疲れをおぼえる。疲れはそのまま私の右横腹の痛みに通じる。
帰宅後、熱が出ているのではないかと心配したが、七度三分であった。右の下腹が痛い。いずれ昼間から鎮痛剤を必要とするような時期がくるのかと考えるとゾッとする。
七時、夕食。早々にベッドに引き上げる。八時三十分から約一時間あまり仕事をしたあと入浴する。体重は四四キロと、豊島病院に入院したころと、ほとんど変わっていない。
十時三十分、睡眠剤、十一時、ソセゴンの注射。一時、アタラックスPの注射をうちながら、光恵が、ソセゴンだけで眠れるかもしれないのだから、そう注射に依存しないほうがいいのではないかしら、という。私はそのことを自分自身で知っているだけに、妻に指摘されるとそれだけで腹が立つ。
気持を落ち着かせるために、私物の睡眠剤ネルボン一錠を追加。

九月二十二日(土曜日)
昼食後、光恵がパーマ屋へいった留守に、誠に私の現在置かれている立場について、それとなく話をしておく。
天野の姉、丸橋の妹くる。きょうはお彼岸の入りである。二人はわが家の仏壇にお線香をあげる。天野の夫妻は、愛知県知多半島にある天野家のお墓参りに出かけ、そのあと下関の住吉家を訪問するという。

九月二十三日(日曜日) 一房州行き
かねて光司と約束してあった房州行きの旅に出発する。東京駅十二時三十分発館山行きの急行は、グリーン車のせいもあって、きわめて快適であった。二時五十分、館山マリーンホテルに着く。夜の宴会は外へ出ず、このホテルで行なうことに決める。
光司夫妻と光恵を、今夜お招きする房州の友人たちの家に訪問させ、おみやげを届けさせる。私一人はベッドに入る。久しぶりに波の音を聞きながら、ベッドで横になっていると、気分もよく、痛みもあまり感じない。
五時三十分、今津茂一君、汐崎政光君が早くも同道して、ホテルを訪れてくれた。六時三十分から、われわれ兄弟夫婦と、今津、汐崎両君のほか、加藤周久君、松崎兼吉君の八人でテープルを囲む。水槽に泳いでいた大きな鯛の活づくりのほか、アワビ、サザエなど酒の肴はすべて生のものを頼んでおいた。せっかくの鯛の活づくりに、鯛の頭がそのままになっている。これで潮汁をつくってくれと注文すると、しばらくして板前が、会食の席にあいさつにやってきた。この房州の土地で十年間板前をやっているが、潮汁の注文をきいたのははじめてですという。
食べかつ飲みながら、四十年前の思い出話がつぎつぎと出て、時のたつのを忘れてしまう。
私がこの土地で療養をしていたころ、まだはんの小学生だった子どもたちがいまでは何をしている、どこそこの嫁になったと、ひとりひとり名前をあげてゆく。私の高等学校入学がきまり、房州の離れ屋をひきはらったとき、大勢の子どもたちが駅のプラットホームまで見送りにきてくれた。そのときホームにはこず、駅のはずれの畦道で泣いていた女の子がいたという話が出る。名前を聞いて、そういう子がいたなというかすかな記憶はあったが、ついに顔を思い出すことはできなかった。

九月二十四日(月曜日)
七時目がさめる。昨夜入浴しなかったので、部屋のバスに入る。入浴後ちょっと横になったが、ふと思いついて隣の部屋をノックする。光司はすでに散歩に出ているという。私も追いかけて浜に出た。むかし過ごした房州船形の海岸べりをそぞろ歩きながら、懐旧の情しきりである。
朝食後、弟夫婦と光恵は、崖の観音まで再び散歩に出るというが、私は自重してベッドに向かうことにする。
ホテルをチェックアウトし、旅仕度のまま松崎君、今津君の家を訪ね、さらに加藤君の家へまわる。すでに八十歳をはるかにこしているはずの加藤君のお母様が、まだまだお元気なのがたいへんにうれしい。
懐かしい房州の寿司屋「茂八」で昼食をと考え電話したが、きょうは物日であるせいか満員で、予約以外は受け付けないという。やむをえず、加藤君に車を呼んでもらい、昨夜席を囲んだ八人で館山駅まで直行、駅前の寿司屋で昼食をとる。きのうあれだけ話をしたのに、まだ話はつきない。
四人の友人から、唐桟織の財布やら、生きのいいサザエ、団扇、カワハギの干物など、いろいろのおみやげを手渡され、館山発三時十分の急行で帰路につく。六時すこし過ぎに自宅着、すぐ横になる。
光司から電話があり、大丈夫だったかときいてくる。光司のところでは、さっそくサザエを料理し、生で食べているらしい。
私は二日にわたってすこし生ものを食べすぎたので、夕食は軽くそうめんですませた。

九月二十五日(火曜日)
午前十時、テレビお茶の間映画劇場で、鈴木清順監督による「肉体の門」の放映、昭和三十九年度の作品だそうだ。原作は発表当時、新鮮な感動を与えた同名の小説で、その映画化である。この映画を見たいと思ったことが何度かあったが、いまごろになってテレビでお目にかかることができた。
画面からは、星の流れに身を占って…… また、サトウ・ハチロー作詞のりんごの歌などが流れてくる。ボルネオマヤに扮した野川由美子、伊吹新太郎に扮した宍戸錠、それに役者の名前も知らない関東小政その他のパンバン仲間たちが動きまわる。すべて懐かしい。
原作者の田村泰次郎はいま元気でいるのだろうか。たしか脳卒中で倒れ、リハビリテーションをやっているという話を聞き、社の同僚が取材に行ったことがある。
きょうは、一日おきに行っていた西荻中央病院の外来診療をとりやめにし、光恵に病院から注射薬をもらってくるよう頼む。光恵は、「これで注射が丸山ワクチンであり、あなたが自分がガンであることを自覚していることが、荒木先生にもはっきりわかってしまうわね。わたしは先生から、どんな質問を受けても、絶対にわたしの日から″そうです″という返事をしてはいけないといわれていたのだから、困ったことになる」という。
私は「いまごろになってそんなことをいってもしかたあるまい。私自身の口からすでに荒木先生に、私の考えを直接お話してあるのだから、そんなことを苦にするな」といって、丸山ワクチンのアンプルを取りにゆかせる。
夕食後もテレビをみて過ごす。結局一日じゅうばんやリテレビをみ、仕事をしないで終わる。

九月二十六日(水曜日)
昨夜ほとんど寝ていないのに、気分はわるくなく、十一時から一時過ぎまで、二時間以上仕事ができた。四時から五時までまた仕事をする。台風の影響で空模様があやしく、雨も風も強い。
光恵も気分が滅入るらしく、いつもは私一人を寝室におき、自分は居間や食堂のあたりでなにか仕事をしているのに、めずらしく病室にきて、自分のベッドに入り、ため息などをついている。私はもっともらしい顔で、きみの弱気はきみの甘えにすぎない、こういう場合にはだれも頼る人はいないのだ。現実を厳しくみつめ、二人でこの困難を克服していかなければいけないのだから、すこしぐらいのことでめそめそしないように、ときびしく注意する。
九時、入浴。睡眠剤をのみ、三十分後にソセゴンを注射する。この注射をうったあとは、いつもなら部屋を暗くし、じっとしているのだが、きょうは光恵も早くベッドに入り、寝ながら話をする。この痛み止めの注射をうつと、あまりつらいこと悲しいことを考えず、いつも楽しいことばかり思い出すので、会話が入眠を妨げるのではないかと心配であったが、いつのまにか眠ってしまった。
久しぶりにアタラックスPの注射をせず、ソセゴンだけで眠ったわけである。夜中四時に目がさめる。いつもとは性質のちがう痛みが右下腹にある。いままでのものは、どちらかというと筋肉痛のような性質をおびていたが、きょうの痛みは、下腹が重く張った感じである。これが本格的痛みの前触れでなければ幸いだと思う。
せっかくアタラックスPの注射をしないで眠ったのだからと思い、パテックスを横腹に貼り、インドメタシンーの坐薬を入れてみるが、あまり効果はなく、朝がたまで痛みがつづき、眠ることができなかった。

九月二十八日(金曜日)
朝の目ざめと同時に痛みがくる。二度排便にゆくが便は出ない。朝食をとり、そのあとようやく排便に成功する。インドメタシンの坐薬を入れ、横になる。 一時間ほどで痛みがすこしらくになる。順天堂での入院仲間や大沼君が「よく効く」といっていたが、 一昨日の夜の痛みには効かなかった。やはり私にもこの鎮痛のための坐薬が効くということがわかる。
会社の西脇君くる。会社の近況について、いろいろ話を聞く。持ってきてくれた医療辞退連盟の機関誌を読む。
昼食をはさんで三時間仕事をつづけ、全部で四部の構成になる『私の手記』の第一部(予定)の執筆をほぼ終える。このあとしばらくは、こんどの病気について、病院でつけていたメモを見ながら録音をとっておこうと思う。
夕食後早く入浴をすませ、八時には睡眠剤をのみ横になる。いつものとおり、暗闇のなかでソセゴン、アタラックスPのやっかいになり、さらに坐薬を入れたりし、眠りについたときは、二時をだいぶ過ぎていた。

九月二十九日(土曜日)
朝食後、仕事をはじめていたら、大渡社長から電話があり、後刻お邪魔したいと告げてくる。社長の来宅にそなえ、仕事をきりあげベッドに入る。それでも仕事は二時間近くやったことになる。
大渡社長来宅。光恵に席をはずしてもらい、最近の私自身の覚悟について報告する。
社長は「ぼくはそんなこと、なにも開いていないよ」という。私は「もし私の思いすごしなら、それはそれでこんなにうれしいことはないわけですが、すくなくとも私自身はこのように覚悟し、これからの時間を計画をたてて、のこされた人生を有意義に過ごすつもりです」という。社長は「岡本さんの開きなおりだと思うが、それはそれで結構ではないですか」という。
痛みが強いが、あまり早く寝ようとするととかく入眠に失敗するので、ベッドでテレビをみ、週刊誌を読んで時間をやりすごす。
九時三十分からいつものように薬のやっかいになる。痛みで目がさめ、一時間半ほどがまんしていたが、こらえきれず、光恵を起こして、四時にもういちど痛み止めの注射をしてもらう。

九月二十日(日曜日)
十一時から十二時三十分まで仕事。昼食後小憩ののち、二時から四時まで仕事をする。
入浴後、八時にベッドに入り、きょうから八日間にわたって連続放映される「ルーツ」そのパートⅡをみる。これから一週間、夜のいやな時間が、このテレビ映画で慰められるだろうと思う。

十月一日(月曜日)
奄美大島付近に停滞し、東京に長い雨をもたらした台風が、急にそのスピードを増し、九州から東北まで一挙に北進したため、けさは一週間ぶりに快晴である。朝食後、ふとんを全部干してもらい、マットレスの上にじかに横になる。
十時過ぎから机に向かうが、 一時間ほどで疲れ、ベッドにもどる。午後、排便があったので、痛み止めの坐薬を入れ、三時三十分、再び仕事をはじめる。三十分ほどで痛みが強くなり、横になる。

十月二日(火曜日)
夜の「ルーツそのⅡ」も楽しみだが、きのうからはじまったNHKテレビの女性手帳「話芸にひかれて」をおもしろく聞く。話し手は東海女子短大の先生である関山和夫氏で、きのうは「私と説教」、きょうは「一声二節三男」と題した話である。浄土真宗、いわゆる門徒宗の、信者に対する節をつけた説教(説経)が、大衆芸能のもとになったというのだが、私はこれを聞きながらいまは亡い祖母を思い浮かべている。
私はむかし、祖母の信仰のもとを探ろうとして、親鸞上人の『教行信証』や『歎異抄』さらに蓮如上人の『御文章』までも読んだことがある。室町時代、もと仏教は支配階級のものであった。それが法然そして親鸞によってその教えが庶民(衆生)に解き放たれ、広がって、やがて根強い信仰に育っていったのには、この節づけ説教が大きな意味をもっただろうことがわかる。
水谷八重子が亡くなった。かつて雑誌『これから』で、秋山安三郎さんをホストにした連載対談をしたとき、日中澄江さんと一緒に水谷八重子さんに出席していただき、「女の幸福」と題する鼎談をやったことが思い出される。
四時、机に向かい、六時ベッドにもどる。
診療所の菊池君から電話がある。菊池君も結核回復者で、いちどかぜをひくといつまでも気管支炎がのこり、このところ十日も勤めを休んでしまったという。保生園の私の最後の主治医であった宮下脩先生を紹介しておく。

十月二日(水曜日)
昨夜はよく眠れた感じであるが、日ざめたとき、右横腹を中心に、胸から腰にかけて、全体が痛だるい。
きょうから原稿執筆をいちじ休み、病院でつけたメモをもとに、こんどの病気の体験談をテープに入れることにする。その準備として手帳類を整理する。
夜、天野の姉奈々子が娘の住吉由利子、丸橋の妹京子と三人連れだって見舞いにくる。天野の姉は、下関の住吉君の父上から私あて懇切な見舞いの手紙をことづかってきた。由利子は別にお見舞いをするよう頼まれたとのことで、大きなバラの花と、有明のつくだ煮などをもってくる。住吉君の父上のご厚情が身にしみる。

十月四日(木曜日)
西荻中央病院へ行くまえに、これまでの経過をあらためてレポート用紙にまとめる。
きのうは豊島病院の町井先生の外来日であったが、行くのは中止した。同一疾病で同時に二つの医療機関で受診することは、これまで私がしばしばそれをしてはならないと警告してきたことでもある。自分でもそれを実行するため、本日、西荻中央病院にあらためて被保険者証を提出し、カルテをつくってもらうことに決める。豊島病院の村上、町井両先生のところへは近日中に、光恵をうかがわせることにする。
私は、午前中まとめた最近の経過を荒木先生にみていただき、就眠時における睡眠剤、注射の使いすぎについて先生に相談する。先生は、やむを得ない場合は、ソセゴンの一五ミリを倍量にするか、アタラックスP二五ミリを倍量にすることはよいが、ニトラゼパムは現在服用している三錠一五ミリがすでに限界だから、これ以上絶対に増やしてはいけない、という。あなたの病気は、いま休火山の状態にあるのだから、このままの方法で自宅で療養し、できる範囲内で仕事をすすめること、そして、もし入院が必要となったときは、自分の全力を尽くすから、くれぐれも心配しないようにといってくださる。
大渡主筆と菊池君が見舞いにみえる。現在執筆中の手記について、主筆からご注意をいただき、私からは昭和五十三年度の医療制度あるいは医事紛争をめぐる、切り抜きのファィルを主筆に呈上する。
ぎょうは起きている時間が長かったせいか、腰のあたりが重く痛みが強い。右の胸、右わきの胸から右の横腹、右の腰にかけて重い鈍痛がある。
夕食後はテレビ映画「ルーツそのⅡ」。その他の夜の行事いつものごとし。

十月五日(金曜日)
光恵を豊島病院へやる。十時三十分から三時間ほど録音をとり、一時三十分、一人きりで昼食をとる。
NHKテレビの女性手帳「話芸にひかれて」がきょうで終わる。この番組のはじめの一、二回こそは祖母の信仰にからめておもしろく聞いていたが、この祖母と二人、房洲船形で転地療養の世帯をはっていたころの、私のまだ若かったとき、己れのしたかったこと、為さんとしていたことなどが胸中をよぎり、いまは複雑な思いで画面をみつめている。私にとって文学とはなんであったのだろうか。
私の若いころ、結核で療養中から、とくに高等学校にかけて、当時の仲間は西田哲学、ヴァレリー、あるいはカントなどにそれぞれ熱中していた。私は一人それに逆らって、五十巻もの有朋堂の全集で、日本の古典を古事記から江戸末期に至るまで、一心に読みふけったものである。しかしながら、私に詩人の素質はない。もの書きになりたく思ったが、そのことだけで暮しがたてられるという自信はなかった。
そのころの私がいちばん影響をうけたのは土居光知先生の大冊の文学論であったろう。その後、小林秀雄、福田恒存、石川淳などの文学論を読むにいたり、芥川、太宰、坂口安吾などを読みふけった。その後は、しだいに小説からは遠ざかっていってしまった。
このたびの入院で、私はしばらくぶりにじっくりと小説を読むことができた。心にのこったのは、島尾敏雄の『死の棘』であり、吉行淳之介の『夕暮まで』であった。私がなぜ二人の作品を読むにいたったかについては、新聞、雑誌において、このいずれもが大きな話題になっていたからといっておこう。『夕暮まで』は、おもしろかった、といっていい。ここに展開する吉行の美学と、その表現としての文体には感嘆を惜しまない。しかし、この作者の美学は、私自身の人間あるいは生についての美学とはまったくの別ものである。つまるところは、それを自分のものとして消化することはできない。
『死の棘』は、私にとってあまりに重い。ここに描く作者夫妻の体験は、むろん私、あるいは私たち夫婦のそれとは別世界の出来事である。しかしここで、島尾が、おのれの真実を、一人じっと凝視しつづけていた手ごわさが、圧倒的な力で私の上にのしかかってくる。
小林秀雄、福田恒存、石川淳を読みかえし、若いころの感激を新たにしたいと思う。しかし、私にその時間はもうのこされていない。
一日じっとしていたせいか、昼のうちは痛みが比較的弱かった。夕食近いころから、右の腋の下から右横腹、腰にかけて重い鈍痛がのしかかってくる。夕食後ベッドヘ直行、「ルーツそのⅡ」をみて痛みをごまかす。早く痛み止めの注射をうちたいと思うが、それをすると入眠に失敗するのだ。
九時入浴。ただちに睡眠剤をのみ、暗闇の中でじっとしんぼうし、九時五十分ソセゴンを注射してもらう。この注射をうつと痛みがやわらぎ心もなごんでくる。十時三十分アタラックスPを注射し、インドメタシンの坐薬を入れ、まもなく眠りに入った。

十月六日(土曜日)
九時三十分から一時三十分まで、途中ちょっと休憩したが、ずっと横になったまま体験記の録音をテープに吹きこむ。
光司が、先日の房州旅行の写真をもってくる。きちんとアルバムに貼られ、立派な記念品につくってあった。この写真が、再び私をあの楽しかった一泊旅行へといざない、しばしの時を忘れさせてくれることだろう。
堀田善衛の『ゴヤ』を買い求めながら、つい読み通す元気がなかった。この大作はあきらめ、岩波新書で、堀田の『スペイン断章』を読む。かつて遊んだスペインの思い出がよみがえり、スペイン旅行のアルバムを引っばり出す。素通りの観光の旅人にすぎない私がそのとき見たものは、ただそのエキゾチズムだけであった。『スペイン断章』に結びつけながら見なおしていく。私はあのヨーロッパ旅行で、三十六枚撮りのフィルムを二十四本も使い、アルバムはゆうに十冊にのぼる。旅行後得たスペイン関係の知識と一緒になって、私の心は三年前の旅行の思い出に、どっぶりとつかってしまう。

十月七日(日曜日) 総選挙に思う
六時、いったん目がさめたが、また眠ってしまう。完全に目ざめたときは、九時を過ぎていた。十時十五分、朝食。きょうは選挙日である。台風が東京を直撃した模様で、激しい風雨である。当然棄権することと決める。
朝日の青柳君から電話。十一月末に定年後、来年早々の就職がほぼきまったという吉報を伝えてくれる。三時、遅い昼食をとる。
私のような年齢のものはほとんどそうだと思うが、私たちは若いとき、人間の歴史は奴隷社会から封建社会へ移り、産業革命によって資本主義社会が生まれ、この資本主義はいずれ崩壊して、必ず社会主義社会がくるものと信じていた。ただ、私の心にはいつも、革命にともなう混乱と殺戮への不安があった。それに、人間がすべて経済的に平等の生活をすることの必要についてはよくわかるが、人の能力には当然個人差がある。
古いむかしは家柄が、時代が下っては親の財産がその人間の一生をきめた。これは理不尽なことであろう。そして明治以後は、学閥が人の一生を定めることに激しい反対があった。これには一理あるとしても、私は、ひとりの人間がその能力に応じ、それなりの評価を受けることには、反対する気持になれない。社会主義社会において人間の自由、また個人の能力への評価が、どのようなかたちになされるかは、私にはよくわからないことであったが、ソビエト連邦や中国における事態は、それがけっして公正なものであるようには思えなかった。
年齢が高くなるにつれて、私の日は、いつのまにか社会を、資本と労働との対立でみるよりも、企業そのものの格差の矛盾に向けられるようになった。小さな企業では、けっして資本と労働は対立するとは限らない。この両者が一体となって、自分の飯の種は自分で稼ぐ以外に生きる道はない。とすれば、労働者の収益は、その企業の収益に対する貢献度によって評価を受けることもやむを得ないのではないか。社会主義というものについて、私はマルクス・レーニン主義だけでこの問題を完成させることはできないど思う。
たとえばこんどの総選挙における増税問題にしてもそうである。増税以前にまず行政改革が必要なことは自明の理であろう。では、これを妨げているものはといえば、官僚と密着した保守勢力であり、と同時に官公労という労働者を重要な支持母体とする社会党である。このようにみれば、行政改革の問題は資本と労働の対立ではなく、官僚プラス官公労に対する一般庶民・納税者の対立と考えなければなるまい。とすれば庶民としては、自民党にも社会党にも当然顔をそむけることになろう。そんなところから、今回、中道勢力が浮上してくることは、容易に想像がつく。行政改革の問題には、この官僚、官公労という二つの力以外にも、それぞれの業界、地域における利害関係団体まで口ばしをつっこんでくる。だから行政改革は、いつでも総論賛成各論反対になる。
いままで、いずれ人間の歴史は、社会主義へ向かって歩むのが当然のことであると考え、社会党に投票をしつづけてきたのであるが、いまの私の心境としては、官公労を支持母体とする限り、 一票を投じようとは思わない。といって中道勢力に入れる気もない。現在の中道勢力を育てたのは、宗教団体であり、また民間の労働組合であるとしてもそれはほとんど大企業に属する。いまなによりも望まれるのは、われわれ一市民が政治に直接参加できるそのような場ができることだ。
けさの朝日新聞の社説は、「国民運動を考える」というテーマである。考えてみると、日本の市民運動はすべて被害者同盟に終わってしまうか、あるいは特定の政党の支配下に入ってしまう。日本にはほんとうの意味での市民運動は容易に育とうとはしない。
私どもが関係したものでも、たとえば「難病団体の連合会」あるいは「医療をよくする市民の会」、そのほかいろいろのものがあった。それぞれに将来を考え、ひとつの起爆剤になろうという努力もした。しかし、私どもが微力であったせいもあるが、多くはいまあげたような原因で、手を引かなければならないような道をたどってしまう。
午後つとめて時間をとり、こんどの病気の体験記の録音を急ぐ。