前回までのお話はこちら( ・ω・)
1996年3月下旬。
生まれて初めて栃木県小山市に行く。
母と一緒に下宿を探し、思川にある白鴎大学キャンパスのすぐ近くにあるアパートで一人暮らしを開始する。
小山・・・徳川家康が、上杉景勝の討伐に向かう途中、関ヶ原の合戦を行うため西に引き返すべく、評定を行った地。
小山評定・・・結果的に徳川家康が天下を取ることを決めることになる評定(会議)を行った地ですな( ・ω・)
大学入学の4月は、まだ奨学金も無く、とにかくお金が無かったが、
実家から送られてきたお米、缶詰、タマネギなどを食べて生活していた。
ちなみに淡路島のタマネギは、生で、スライスして醤油だけかけて食べるととても美味しい。
ツナ缶など加われば、ごちそうである( ・ω・)
参考に南あわじ市の紹介ページを貼ります。
https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/soshiki/shoku/tamanegi.html
大学時代は、奨学金を1種(無利子)、2種(有利子)の二つ借りながら、いろいろアルバイトをやった。
最初にやったアルバイトは、5月の連休の短期バイトで、おやま遊園地という遊園地の駐車場の警備をやったな。
今は、遊園地は無くなり、跡地は、おやまゆうえんハーヴェストウォークというのになっているようだ。
派遣会社に登録して、栃木県内のいろんな工場に行ったりした。
大学在学中に長かったのは、ゲームセンターのアルバイト(夜)をしながら、土日の昼は、当時、駅前にあった住宅展示場の駐車場警備もしていた。
たまたま目撃した警察ネタを二つ( ・ω・)
ゲームセンターでバイトしていたとき。
ゲームセンターにお金を持ってくるように恐喝された人がいたらしい。
複数の警察官が私服で店内に待機。
警察に通報されてるとは知らない犯人がノコノコゲーセンにやってくる。
通報していた被害者に近づく。
あっ
という間の出来事。
数名の私服警察官が、犯人を取り囲む。
にじりよりながら、間合いをつめていく私服警察官。
犯人はあっさりと逮捕された。
ゲームセンターのカウンターから、逮捕劇の一部始終を見物。
刑事さん、いい動きしてますな( ・ω・)
もう一つは、住宅展示場の駐車場バイトのとき。
自転車に二人乗りしている高校生らしきカップル。
住宅展示場の周りの茂みの中から、
警察官が飛び出す!
自転車の二人乗りをしていたカップルは、二人乗りするなと注意を受ける。
むう・・・注意するために、わざわざ警察官が茂みに潜むとは・・・
自転車の二人乗りは危ないのでやめましょう。
白鴎大学では、学園祭の運営をする、白鴎祭実行委員会に入っていた。
3年生のときの第25回白鴎祭のときは、委員長をやっていたぞ( ・ω・)
白鴎祭も昨年11月5日、6日に、第49回が無事行われたようだ。
白鴎祭実行委員会のホームページも以下のようにあるようだ。
弁護士としての多忙さや、その後のコロナ禍や自分の体調不良もあり、最近は、まったく白鴎祭にも行けていないが、後輩たちががんばってるのはうれしい(^_^)
しかし、今年が、第50回か・・・
歳もとるはずや( ・ω・)
自分が委員長をやったときから25年目に入るのですな。
あの頃は、始めたばかりのお笑いライブで、バナナマンをついでに出させてくださいと業者に頼まれて、前座みたいな形でバナナマンに出演してもらった。
ギャラは、メインの十分の一以下の金額・・・今では考えられませんな。
第25回の白鴎祭が終わった後、
大学3年の秋。
司法試験の勉強を始めた。
それがすべてというわけではないが、きっかけの一つを。
僕が生まれた淡路島の母の実家があった場所の近所にある夫婦がいた。
会ったことがあるのは幼いとき。
その人たちのことは、特には覚えていない。
実家にいた母と電話で話していたときに、その夫婦が自殺したということを聞いた。
理由は、息子がヤミ金から借金をしてその取り立てに悩んでいたようだった。
息子が借金をしたからといって、保証人にもなっていない親が息子の借金の取り立てを受ける理由は無い。
まして、高金利でのヤミ金は犯罪で、ヤミ金からの貸し付けは、元金を含めて「不法原因給付」として返還の義務は無いというのが判例である。
弁護士が介入すれば、おそらく電話一本で解決した事案。
でも、その夫婦は、淡路島に住んでいて弁護士に相談するという発想を持てなかったのだろう。
その結果、誰にも相談できず、自分たちの命を絶つという最悪の選択をしてしまった・・・
弁護士にたどり着けない人を無くしたい・・・
無くすことはできなくても、減らしたい。
自分が弁護士になって、
それも、「相談しやすい弁護士」になって、
法的には義務の無いことで苦しんだり、
最悪の選択をしてしまう人を一人でも減らしたい。
勉強する時間と生活、受験にかかるお金を稼ぐために、
アルバイトは、塾講師に変えた。
小学生から高校生まで。
国語、数学、社会、英語、理科、どの科目も担当することもあった。
司法試験は、当時、合格率2パーセント代の超難関と言われた試験だった。
当時、白鴎大学で目指している人はいても、合格した人は誰もいなかった。
司法試験を受験すると初めて両親に話したとき。
父も母も複雑な表情をしていた。
当時は、司法試験は、「受からなくて当たり前」、努力しても受からない人の方が圧倒的に多い試験だった。
大学も4年になると、ゼミくらいしか取らなければならない授業は無い。
それまで入り浸りだった白鴎祭実行委員会室にもあまり顔を出さなくなり、
塾講師の仕事をしながら、独学での司法試験受験生活が始まった。
2000年3月に白鴎大学を卒業。
本格的な司法試験受験生活へ突入する。
そう、苦しい戦いの日々の始まりだった・・・
(次回へ続く)
法律相談は、アレテー法律事務所まで。