前回までのお話は、こちら。
1995年1月17日午前5時46分・・・そのとき、前日の神戸でのセンター試験から淡路島の自宅に戻り、寝ていたところだった。直前に、当時飼っていた猫のルイが暴れ出した。
「ルイ、どないしたんや?!」
そう自分が声を出した直後、あるいはその瞬間・・・
今まで経験したことの無いすさまじい揺れを体に感じた。
電気をつける・・・停電している。しばらく待った。
ようやく電気がつき、ラジオをつける。
ラジオから流れた声は・・・
「名古屋で地震が観測されました。」
名古屋?どういうこと?
事態が把握できない。
自宅の仏壇は倒れて崩壊している。
学習机に並んでいた参考書は、全部、落ちた【ついでにその年の受験は落ちた・・・】
翌朝、いつもの時間より少し遅れて、高校に登校する。
クラスで登校しているのは半分くらい?
地震があったことはわかるが、いまだに事態がよく把握できていない・・・
その日、授業があったのか無かったのかさえ覚えていないが、自宅に帰り、テレビをつけた。
「神戸の町が・・・」
前日まで自分も含めて兵庫県中のセンター試験受験生が集まっていた町。
淡路島生まれの自分にとって、一番近くにある綺麗な大都会。
高校1年の遠足で自由行動をし、高校2年の夏休みに代ゼミの夏期講習を受けたあと、映画を見たり遊んだ町。
それまで世界で一番好きな町だと思っていた神戸・・・
神戸がこわれとる!!!
崩壊した高速道路・・・
瓦礫となった昨日までいた町並み・・・
火災で無くなったたくさんの住宅街・・・
そして、失われたたくさんの人の命・・・
淡路島南部は、給水車がまわったりしたことはあるが、そこまでの被害は受けていなかった。
前日まで泊めてもらっていた父方の伯父夫婦も無事だった。
電話で伯母がこう言う。
「卓大・・・一日、ちごとったら(違っていたら)、あんた、死んどったよ(死んでいたよ)。」
前日、前々日に寝ていた部屋はタンスが倒れ、もし一日違っていたら、たしかに自分はこの世にいなかったかも知れない。
後に、東日本大震災の後、被災者支援の活動をすることになる、自分の大災害との初めての出会い・・・体験だった。
さて、阪神淡路大震災。淡路島北部はともかく、淡路島南部は、それほどの人的被害も建物倒壊も無かった。
だが、大きな影響があった。
経済である。
瓦が産業だった淡路島南部。地震に弱いと瓦産業が軒並みダメになった。
被災地への自粛行動。観光産業は壊滅的打撃を受けた・・・
父は、その頃、淡路島のホテルで警備員の仕事をしていた。
父の職場は観光客がまったくいなくなり大打撃を受け、父の月収は、月2万円ほどに激減・・・
父は、淡路島の北部まで掛け持ちでアルバイトをし無理をして昼も夜も働くようになり、怪我をしたこともあった。
母は、介護の仕事するようになっていた。
経済的苦境・・・元々、事業をしていた頃の借金もあり、岡本家の家計はたいへんな事態になった。
大学なんて行くお金あるのか?
大学受験が終わり、浪人した。
最初、新聞奨学生というのをやってみようと大阪で新聞配達しながら予備校に通おうかと一月ほど新聞配達をした。
もちろん、朝は早い。
大学受験をしなかったという何浪かした先輩もいる。
京都の洛南高校という進学校出身の人と同部屋。プライバシーは、無いも同然。
安アパートの薄壁の向こうからは、毎晩、カップルの何かしている声が聞こえてくる・・・
俺には、無理だ!
新聞配達をしていたから、東大に落ちたとは思いたくなかった。
たとえ、合格するにせよ、落ちるにせよ、全力を尽くしたと思える1年を過ごしたい。
一月ほどで新聞配達をやめ、当時奈良県に住んでいた姉のアパートに居候することにした。
ちなみに、新聞配達をしていた頃、新聞の届くのが異常に遅い一日があった。
朝刊が新聞販売店についたとき、その一面には、地下鉄サリン事件の記事がでかでかと載っていた。
さて、奈良の姉のアパートに居候して自宅浪人を始める。
ときどき、近鉄線に乗って、代ゼミの大阪南校に模試を受けに行ったり、参考書を見に行ったりしながら、高校時代に取っていたZ会の問題をやったりしながら、浪人生活を送る。
余談だが、安倍元総理が銃殺された現場となった西大寺駅は、乗り換えでよく通った。
あんな場所で、そんな大事件が起こるとは・・・
話を戻そう。
とはいえ、受験生活の一年間のことなど、話しても面白くもなんともないから、一気に割愛( ・ω・)
1996年2月・・・
東京大学駒場キャンパス
2日間にわたる第2次試験(前期日程)。
英語、数学、国語、日本史、世界史の受験をした。
内容も手応えも、今となっては、まったく覚えていない( ・ω・)
そして、1996年3月・・・
東京大学本郷キャンパス
いわゆる赤門のある校舎ですな。
小論文の第2次試験(後期日程)
これまた、どんな問題だったかも、今となってはまったく記憶に無い( ・ω・)
前期、後期とも、わざわざ合格発表を見に行ったことからすると、受験が終わった時点で、落ちたとは確信しなかったのか、もしかしたらと思っていたのか・・・?
なんせ27年も前のことだからのう( ・ω・)・・・
記憶にあることといったら、駒場の前期試験のとき、たまたま代ゼミの東大模試で知り合って帰りの近鉄線で一緒になったことある成績上位者の女の子(今は、日弁連が
講師として招くこともあるクラスの刑事法の教授になっているようだ。)とばったり会った。
あたかも、「東大でまた会おうね」的な雰囲気で会話して、そのまま会う機会は無いが、向こうは、覚えてもいないかな( ・ω・)
もう一つは、もう無くなっているが、当時は、「駒場寮」という寮があって、受験後に、駒場寮の寮生何人かと一緒に駒場寮で、鍋を食べた。
寮の存続を訴えていたようだ。
参加した受験生は3人くらいだったかな?
一人は、十浪だと言っていた。彼は、合格したのだろうか・・・
東大生の人たちと鍋を囲んで、いろいろ話をしてなかなかに面白い夜だった。
その中で、話の流れはとうに忘れたが、イジメが話題になった記憶がある。
イジメがどうして起こるのかという話をしていたときに、参加していた受験生の一人がこう言ったのを覚えている。
「イジメをなんでするって、面白いからに決まってるじゃん。」
ちょっと衝撃だった。こういう考えの人が東大に行って日本社会を動かすことになるんだとしたら、嫌だなと、そのとき思った記憶がある。
いじめが面白い?理解できない。
いじめを受けると本当に辛い。
加害者は忘れても、被害者はずっと覚えてる。
面白いから、人をいじめる?
自分には理解できない考えだったが、いろんな人がいるものだなと思った。
もちろん、その場でも、東大生の人たちからも、そんなのはおかしいという反論がされてたと思う。
さて、後期日程の受験をしている以上、当然、前期日程は東大に合格していない。
では、後期日程の結果は?
合格してたら、私の学歴は、東京大学法学部卒業になっとるはずだから、いわずもがな( ・ω・)
東大に落ちた。
高校の進路指導部の先生たちからは、早稲田とか慶応とか上智とか同志社とかいろいろ受けろみたいなことを言われていたが、当時のうちには、私学の滑り止めにかける入学金など無かった(※ 当時は、ほとんどの私立大学の入学金は、国公立大学の合格発表前に納めないといけず、入学金の返金など考えられなかった時代)。
一つだけ受験していた私立大学があった。
たまたま模試会場でビラを見つけた。
白鴎大学の学業特待入試である。
東大の後期入試の結果発表の後、母は「二浪する?予備校、なんとかしよか・・・」
と言ってくれた。
白鴎大学の入学金は、納めてしまったが、それでも東大行きたいならという母の心遣いは、嬉しくはあった。
それに対して、父ちゃん(故人)は、こう言ってくれた。
「ハクホウ(※ 正しくは、「ハクオウ」です)行ったら、それはそれでおもろいことあるんちゃうかな。」
父の言葉で心を決めた。
ハクホウ大学に行こう!(ハクオウ大学です・・・)
白鴎大学があるのは、栃木県の小山市。
関西出身の自分には、栃木県と群馬県がどっちがどっちからもわからない状態。
受験は、当時は大阪で受けることができた(現在は、大阪会場は無いはず)。
小山って、どこ( ・ω・)?
そして、白鴎大学法学部10期生 岡本卓大の伝説(?)が始まる!!!
(次回へ続く)
法律相談は、アレテー法律事務所まで。