今回は、弁護士 岡本卓大のこれまで歩んできた道を紹介するぞ( ・ω・)

 

1976年11月15日、兵庫県の淡路島の南の端にある南淡町(現・南あわじ市)で生まれた。

 

 

生まれた日に、家にいた犬(ジェリー)も夫トムの子を出産した。子犬たちをお供にこの世に生をうけたと言ってよかろう( ・ω・)

そして、卓大【(タクオ)と読むぞ。】の生まれた日、父に長男誕生の報告が。そのとき、父は叫んだ!!!「何匹や!?」

父ちゃん、あんたの子が生まれんや(;;)

名は、祖父がつけたらしい。「卓越した大人物」になってほしいというのが命名の理由だったらしい。なお、これまで「卓大」で「タクオ」と説明なしに読んでもらったことはほぼない。読めんな。普通( ・ω・)

ちなみに、淡路島の名産となっているタマネギだが、これを開発したのは、うちの母方のひいじいさん宮本芳太郎という人で、阿万農協前には、生前墓が建てられたほどの名誉町民だったらしい。ひいじいさんが書いた「淡路たまねぎの歴史」という古文書のような本が残っているから、まず間違いなかろう( ・ω・)

 

 

小さな頃は、登下校中の小学生たちの前に立ちはだかり、仮面ライダーごっこやウルトラマンごっこをして、近所の小学生たちを悩ませる悪ガキだったらしい。なんでも、卓大くんが、保育園に通うことになって、近所の小学生たちは安堵したとか・・・記憶にございませんな( ・ω・)

 

卒業した小学校は、兵庫県立阿万(アマ)小学校。

 

 

小学生の頃は、それほどできの良い子ではなかった。小2の頃、かけ算の九九を覚えるのも、たぶん、クラスで一番遅かったんじゃないかと思う。2かける2が4になる。・・・なんで?ただ暗記するということができず、考えてしまう子どもだった。

自分ならもっとうまく教えるなと今では思うが、初等教育の「なんで?」ほど難しい問いは無い。当時の担任の先生もきっと困っただろう。

卒業した阿万小学校の当時の自分の学年は、淡路島でもスポーツ、勉強とも優秀な学年だったらしい。淡路島の小学校の陸上競技の大会が小6のときあり、みんなクラスメートたちが淡路島で一番の成績を上げていく中、卓大くんは、ずっと体育座りしてテントで見学していた。その感想文に書いた言葉・・・「ぼくは退屈だった」

こんな感想を書いたのは、クラスで卓大くん一人であった。しかし、当時の担任のM先生は言ってくれた「こういう意見も大事なんや。」もう他界してしまったその担任のM先生が認めてくれたことがきっかけなのか、小6のあたりから、なぜか勉強の成績も良くなってきた。

 

中学は、兵庫県立南淡中学校に通い、卒業する。

 

 

中学の部活は剣道部。多少、イジメを受けたこともあった。たいして強くはなかったが、一応、初段は取った。剣道三倍段という言葉からすると、柔道や空手の3段の人とも互角に戦えるということになるはずだが、まあ、勝てまい( ・ω・)

中学のとき、恋をした。同じ剣道部の子だった。勉強の成績も学年上位、1位になったこともあった子だったと思う。他方、卓大くんは、当時、まったく勉強しない子でファミコンのドラクエや信長の野望ばかりやっていた男の子だった。あるとき、中学の他の男子たちにはやし立てられ、一念発起、告白をした!しかも、中学の駐輪場で、たくさんの見物人に見られながら!・・・当然のことながら、フラれる。少年よ。そういうことも、あるある( ・ω・)

 

 

 

フラれても、好きな人は好き。そんなとき、誰かがこう言ってからかってきた。「おまえの頭じゃ○○ちゃんと同じ高校行かれヘな【同じ高校に行けないな】(笑)」・・・

勉強した。自分の中で何かがはじけた。これが若さか?!これが恋の力か?!勉強を始めてみると、それまでわからなかったことがどんどんわかってくる。面白い。知識を得るとはなんと面白いのだ!気がつくと、成績もどんどん上がり、無事に当時好きだった子と同じ高校に入った。もっとも、同じ高校で2年間同じ文系進学クラスにいたが、特になにもドラマは起こることはなかったがね・・・( ・ω・)

 

高校は、兵庫県立三原高校に通い。卒業した。

 

今では、合併して淡路三原高校になっているが、当時は、淡路島南部ではできる子が行く高校だった。

1年、2年と生徒会にいて、2年のときは生徒会長だった。

中学のときで語り忘れたが、中学のときも生徒会はやっている。選挙では2位だった。でも、生徒会担当の先生から、「岡本君・・・悪いけど、副会長は、君でなく、○○君にしてもらっていいか?」と選挙後に言われた。教師の目から見れば、歌を歌って選挙で得票を得たポンコツ生徒より、票数3位の優秀な生徒に副会長をやってもらう方が座りがよかったのだろう。別に生徒会のポジションなど、些末なこと、我はどうでもよい。教師の言うことを聞いてやった。内心では、日本の学校教育とは、なんとくだらぬものか、と思いつつ・・・さて、高校での生徒会長。もちろん、得票は文句なしの1位である。もはや、中学の頃に馬鹿にされていた連中にも、馬鹿にされるような成績ではない。

高校1年のときは、演劇部に入っていた。役者、大道具、演出、いろいろ経験できて楽しかった。高校を卒業したT先輩という人がよく遊びに来てくれていた。演劇部は、文化部の中では練習時間も長く、みんなで一つの舞台を作り上げていく、とても面白い部活だった。

だが、高校2年になるとき、その後の進路を考えた。東大に行きたい・・・そう思うようになっていた。なぜ、東大に行きたかったか?簡単な理由だった。この国で一番頭の良い人たちと知り合い、最高の学問を究めたい。今の部活をやりながらでは十分な勉強時間が取れない。悩んだ。きっかけは忘れたが、T先輩に相談した。そのとき、T先輩はこう言ってくれた。「私は、演劇好きでずっとやってるし、淡路島で就職して、君らの部活に関わっていける道を選んだけど、岡本君の人生は岡本君のものだよ。勉強したいなら、大学行きたいなら、岡本君の道を進んだらいいよ。」T先輩がそっと肩を押してくれた。部活をやめて、東大を目指す。

そして、時は流れ、高校3年生。1995年1月15日、16日センター試験を神戸で受験。その翌日・・・あの日がやってきた・・・

(次回に続く・・・)

 

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