YOU は SHOCKッッ!!!!! -47ページ目

北園麻雀放浪記~その5

随分と遅くなってしまった。
(*~ρ~)? 眠い。
もうすぐ夜が明ける。


さて昨日は恒例の麻雀日でした。
これといって目立った手とかは無かったと思う。
至って普通の麻雀かな。
自分はわりとツイてたと思う。
久しぶりにダブル立直の手が入ったが、立直せずに一周待ったら平和が入ったりした。
テンパイまでも早く、6順目以下のテンパイも総じて多かった。


そんな感じで結果
キャベツ-4
ヒカル-91
松-83
おかまりも+178


今回はかなり抜け出せた。
\(^O^)/
久しぶりに大きく勝てたんでよかったよ(涙)
なんとか次回も勝てるように。
ほな 乙

世の中には『屑』と呼ばれるものが存在している。
自分は高校生だが、自分の通う高校はどちらかと言えば、段違いで『屑』だと思う。
あえて名前は出さないでおくが、都立の中堅上位校と表現すればいくつかの候補が思い浮かぶと思う。
そんな中の一校がいわゆる『屑』なのだ。


入学前のイメージはそれこそ『自由で生徒の自主性が尊重される開かれた学校』であった。
事実文化祭などを見に来ていた自分にとって、そういったイメージに基づいて生徒達を見ていると、かなり生き生きとした様子であったと記憶している。


ただしそれは入学前までの話であった。
それは確かに過度な期待だったのかもしれない。
勿論、自校以上に酷い、期待ハズレな学校は多々あるとも理解している。
しかしそれ以上に、自分の想像以上に自分が通う学校は『屑』であった。


今日はそんな自校の屑さについて述べたいと思う。


・校風に偽りあり?
本校は『自由』を校風に掲げ、実際に髪色、ピアス、服装など表立った、外見的な面ではかなり自由であると思う。
しかし深く掘り下げてみれば、それは外面を自由にすることで生徒の内面を制限しているに過ぎない。
教職員達はよくこの言葉を口にする。
『自由を履き違えるな』
履き違えているのは自分達だということには、一切気付いていない。


・進路指導部とは名ばかり
一度新聞に『実績のある進路指導には定評がある』と評価されたことがあった。
全くの嘘偽りwww
実際進路ガイダンスなんかは業者に丸投げ。
授業のレベルは教員によってバラツキがあり、実際は生徒の努力によって今のところレベルが保たれているに過ぎない。


実際、生徒のレベルはそれなりに高い位置にあると思う。
そんな生徒達に囲まれているおかげで自分は今までやってこれたとも思っている。
今後入学する後輩たちのためにより良い学校作りを教職員達には願いたい。
ほな 乙

おかまりも世界史探究~その3

今日の世界史探究は少し嗜好を変えて日ノ本の国…日本の事柄に目を向けてみよう。
今回のテーマはあの有名人に投げ掛けられた疑惑。


時は戦国、土岐源氏の名族ながら、斉藤道山(美濃国主)に仕えるどうもパッとしない男がいた。
その名を『明智光秀』と言った。
そんなパッとしない彼は、君主道山の死と共に一度歴史の表舞台から完全に姿を消してしまう。


しかし、再び歴史に登場すると、まさに別人。
詩、教養、軍事、民政、財政において全て一流、戦では負け知らず。
さらに何故か当時の最先端兵器である火繩銃の戦法にも長け、おまけに朝廷と個人的に強力なコネまで持っているという天下一の超人として、信長の側近にまで上り詰める。
さて、ここで当然『入れ替わり説』が思い浮かばれる。
実際当時そういった『入れ替わり』は頻繁にあったという。
しかしそんな彼も本能寺の変を経て亡き人になったっされている。


さて時は変わり小田原討伐の頃、突如歴史の表舞台に現れ、瞬く間に並み居る家臣達を押しのけ、家康の側近に上り詰めた人物がいる。
名を『天海』と言い、用心深い事で有名な家康がその寝床にまで呼んでいたというのだから、驚くべき人物である。
しかしそんな天海についてのそれまでの記録が一切ないことが実に不思議である(本人は比叡山の僧と名乗る)


そしてもう一つ、『本能寺の変陰謀説』
これは有名であるが、家康が光秀と結託して、信長を暗殺したというもの。
しかも秀吉の光秀討伐を失敗と考えれば、その後の天海の不可解な登場にも納得がいく。
事実光秀は一般の土民に討たれたとされ、何故かその遺体は判別不可能な程に破壊され、持っていた刀が『土岐桔梗』の家紋が入っていたという実に疑わしいもの。
無事に比叡山に匿われたという記録もある。


そう…本能寺の変の後死んだとされた光秀は、無事に比叡山に匿われその後名を変えて家康に仕えたのではないだろうか?


この『光秀=天海説』にはかなり有力な証拠が多々ある。
・生まれた年が同じ。
・天海の別名『滋恩』の名を冠す滋恩寺に明智光秀の像がある。
この像は天海の像という説もある。
・三代将軍家光の乳母、春日局は絶大な権利をふるい、女天海と言われた。
そして彼女は明智光秀の姪。
さらに家光は二代将軍秀忠の実子ではなく、家康もしくは天海の子ではないかとされる。
さらに家光の『光』は光秀の『光』とされ、天海が名付けたという。
・天海が建立した日光東照宮。
そこに至るいろは坂の上に天海が名付けた『明智平』という地名がある。
また日光の元の地名は二荒。
『荒』をわざわざ『光』に変えている。
また日光東照宮の雛型である日吉東照宮は明智家とは縁の深い地であるが、徳川家には何の縁もない。


これ以外にも多々疑わしき点がある。
今となっては天のみが知る事実。
しかし実にロマンがあるなぁと。
ほな 乙