制約から生まれる自由 | ドラクエ好きに悪い人はいない

ドラクエ好きに悪い人はいない

ドラクエから人生を哲学するブログ
ネタバレには全く配慮していませんのでご注意ください!

「海図にない海を帆走するには、勇気がいるね」

 

って、スヌーピーが言ってたって

『四月は君の嘘の中』の中で、かをりちゃんが言ってましたが

 

 

ドラクエで、船取った後の自由度って凄いですよね。

特にドラクエ2とか3くらいの初期のやつだと

全くのノーヒントで次にどこに行ったらいいのかさっぱり分からなくて。

とりあえず大海原出てみるしかなくて

いきなりバピラスがあらわれて瞬殺されたりとか、

いきなりテンタクルスがあらわれて瞬殺されたりとか、

 

 

この自由度が醍醐味!っていう人も多いと思うんですけれど

こういう船取った直後とか、8のマップの感じとか

私は昔からそういう"自由"がすごく苦手で。

自分が宙ぶらりんな状態、というか。

 

人生で一番辛かった時期って

大学2年くらいの何にもやることがなくて、

自分が将来どうなっていくのかが全然見えなかった時で。

そういう状態がすごく怖いので、

昔から浪人とか留年とか離職期間とか、

どこか曖昧というか宙ぶらりんだった時が一度も無い。

 

何したらいいのか分からなくて毎日怖くて怖くて

不安や寂しさで潰れそうだった経験から、

常に何かに所属して、一定の枠を設けて

ある程度その中のルールに従っていれば生きていける……

みたいな状況を作り上げてきてる。今もだけれど。

 

 

高校の教科書に、安部公房の『鞄』という短編が載っていて

個人的には教科書掲載作の中で最高傑作だと思っているのですが。

 

ーある日、主人公の事務所に面接を受けに男が来る。

なぜ志望したのかを聞いても、鞄に導かれたからという奇妙な回答しかしない。

なんとも不気味なその鞄は絶妙な重さで、

平坦な道は持ち歩けるけれども、段差や坂などに差し掛かると肩や腰に来て動けず

つまりそれを持ち続ける限り行く道は決まってる。

結果、この事務所に来るしか無かったと。

何でそんなものを持ち歩く必要があるのか訪ねても、

いつでも手放せるからこそ、辞めないのだと。

 

最後、試しにその鞄を手に取ってしまった主人公が

歩きながら、こう言って終わる。

 

「選ぶ道がなければ、迷うこともない。」

「私は嫌になるほど自由だった。」

 

 

授業ではクラスメイトの一言感想がプリントで配られるんですが

多くの人が「それは本当の自由じゃない」みたいなことを書いていたのだけれど。

高校2年の当時の私も、文系か理系か、大学か否か、大学ならどこ受けるのか等々

自分の進路を考えて選ぶことが嫌で嫌で

いっそ誰かが決めてくれれば楽なのに、と思う時さえあって。

 

私は目の前に鞄が置かれたら取ってしまいそうで怖い、と

感想文に書いたのを覚えてる。

 

 

選択肢が多いことは、果たして人間にとって幸せなことなのか。

「人は自由になるほど幸福度が下がる」という

"選択のパラドクス"というバリー・シュワルツ氏の研究結果もあるけれど。

 

 

結構良く聞く話が

「器用貧乏な人ほど、やりたいことが見つからない」という話。

 

何でもそれなりに上手く出来てしまうから、

選べてしまうから、

どれに対しても「これじゃなきゃいけない」っていう理由が無くて、

結局どれも選べなくなってる人……というのは多いし、実際に周りでも良く見る。

 

 

ドラクエで器用貧乏の代表格って言ったらそれはもう、

ドラクエ2のサマルトリアの王子ですが。

 

ローレシアの王子は打撃、

ムーンブルクの王女は魔法、と1個の強みだけを特化してるのに対して

(ローレシアの王子なんてMP0という潔さ)

打撃も魔法も両方そこそこ出来るサマルトリアの王子の強さは、

それはそれは中途半端で。

結果的には3人の中で一番使い辛い。

 

ローレシアの王子は魔法の概念すらきっと分かってないし、

ムーンブルクの王女もきっと攻撃力磨こうとか一切思わなかっただろうけど、

サマルトリアの王子はなまじどっちも出来てしまったんだろうな、と。

 

「バランス型」っていうのはそれはそれで1つの能力で、才能だと思うのだけれど

意外と運用のコツが難しいのかもしれない。 

もしくは本当は運用出来てるし、無くてはならないメンバーなのに

本人がそれを実感しにくかったりとか。

(ドラクエ2もじゃあサマルトリア抜きで

 2人で旅しろって言われたら相当辛い訳で……)

 

 

私は能力値にすごいムラがあって

出来ないことは本当に出来なくて、それが分かりやすくて。

 

ケアレスミスが多いから、看護師とか人の命を預かる仕事は出来ないし

事務作業が苦手過ぎるから、事務職にもなれないし

数字見てるとチカチカして桁が分からなくなるから、経理も出来ないし

運転が下手過ぎるから、タクシードライバーにもなれないし

運動音痴だから、体使った仕事も無理だし

 

とか色々考えると、人見知りだし向いてない…とは言いつつも

今の会社の営業職って、

100%合致じゃなかったとしても

私にとっては結構いい方の選択肢ではあって。

 

いつも進路を選ぶのは苦しかったけれど、

今思えば、ある意味「鞄」を持っている状態というか

私の場合は出来ないことを考えれば、

実はもう道はかなり絞られてたんだなあ、と思う。

 

 

人は無い物ねだりなもんで、

私は器用貧乏(っていう言い方もどうかと思うけど)というか

そういうバランス型の人が、

ずっと羨ましいし憧れるし惹かれるし

 

逆に私は、バランス型の人から

「才能が分かりやすくて羨ましい」と良く言われる。

 

 

大学に入ってから、中沢新一先生の

宗教論の授業ではこう習った。

 

「本当の自由とは、恐ろしいものだ」と。

 

最も自由な存在で分かりやすいのは赤ちゃんで。

彼らは場所がどこでも、社会的規範など関係なく

泣きたい時に泣き、叫びたい時に叫ぶ。

しかし、この世の何も分からないから

恐ろしくて泣き叫ぶし何も出来ない。

 

自由とはつまり混沌(カオス)であり、

人類はその混沌を分節する為に

言葉を作り、規律だらけのルールや宗教を作り、社会と心の安定を図ってきた。

言葉で定義するからこそ物を分節して認識することが出来るのであり、

分けるとはつまり、分かることなのであると。

 

ていう感じの授業だった、と思う。うろ覚えだけれど……

 

 

与えられた真っ白な自由を少しずつ切り取って、

埋めていく様に、

私達は生きている訳で。

その過程は楽しくもあり、たまに怖くなることもあって。

 

 

毎回、このブログを書くのは結構怖い。

 

真っ白なメモ帳を開いて、

ちゃんとこの空白をうまく埋めて完成させられるんだろうか、とか

 

完成しても、改めて読み返してみて

果たしてこれは人に伝わる文章になってるのだろうか、とか

こんな長文が人にとって面白いんだろうか、とか

 

本当にこれは今自分が思っていることなのか、

人目を意識して言葉に酔って綺麗ごとを書き過ぎていないだろうか、とか

 

 

こんな個人のささやかなブログでさえ、

書き始めるのもアップするのもいつも緊張する。

書き上がった時の「出来たーー!」っていう感覚とか、

それで人から感想貰えることはとても嬉しいのだけれど。

 

 

このブログは「ドラクエの中で」「人生を語る」という

2軸の縛りプレイでやってますけど

誰だよこんな制約設けた奴というか、

ぶっちゃけ辛いんですけど

 

 

ただ、縛ることで

その枠の中で一生懸命考えたり工夫することで、

生まれてくることが結構あるんですよね。

 

 

最初このブログ始めた時点では、

書きたいことが4個くらいしか無い中で

えーーい!って見切り発車してみたんですけど

 

色々と振り返りながら

ドラクエから「人生に当てはめるとこうかも」って考える時もあるし、

人生から「ドラクエに当てはめるとこうかも」って考える時もあるし、

 

何書こうかなーーなんてあれこれ考えて、

書き始めてるうちに

「いや、これはもっと一歩深く掘り下げればこういうことなんじゃないか、」とか

最初書こうと思ったことと違う着地点に行くこともあって。

自分自身が書きながら気付かされることもある。

 

「ドラクエの中で」「人生を語る」という

範囲が決められてるからこそ、

ぼやけないというか、その範囲で集中して深く考えられるというか。

 

 

HUNTER×HUNTERの念能力も、

制約と誓約をキツく設ければ設けるほど強くなるし

 

ウルトラマンも「3分しか戦えない」という弱点があるからこそ、

エヴァンゲリオンも電源ケーブル切れちゃうと1分しか動けないからこそ、

(エヴァは他にも色々とあるけれど)

戦闘シーンに緊張感が生まれ、より深みのある展開になってるのだろうし

 

 

制約を設けることが逆に、

何かを強くしたり面白くしたり、

創造に繋がることはあると思ってて。

 

 

会社員というのはがっちがちに「制約」を設ける行為だ。

就職前、友達に「仕事でも自分を表現したい」と言ったら

「会社じゃそんな自分の思い通りには仕事出来ないよ」と言われて、

もちろんそれは正しいのだけれど。

 

絵画だってキャンパスから離れられない訳で

芝居だって体や舞台から離れられない訳で

小説だって文字から離れられない訳で

 

一見どんなに自由に見える芸術だって、

どんなことにも制約がある。

でも、その上で表現出来ることがある。

 

 

ある程度の統一ルールというか

フォーマットがあるからこそ、

作り手はルールの制定に時間を取られず、その先に集中出来るし

受け手はルールの把握に頭を使わず、作品が理解しやすくなるし

対比や批評も出来る。

 

 

絶対的に究極の自由なんて、存在しないし

あったとしてもそれは

人を幸せにしないと思ってる。

 

海図にない自由な海を帆走するには

まずはとりあえず大海原に出て、

バピラスに瞬殺されようと

テンタクルスに瞬殺されようと

少しずつヒントを掴んで、

次にどこに行くべきかの航路を描いていくしかない。

航路を描くことはつまり、少しずつ自由を潰していく作業でもあって。

 

 

ただ、どれ位の自由度が心地よいかは

人それぞれではあるから。

 

 

私も自由は怖いと言いつつも、

一方である程度自由じゃないと絶対無理なタイプで、

ルールに厳しい固い社風とかは無理だし。

逆にきっちり規則に従っていることが落ち着く人もいるだろうし、

決められた時間に出社して退社してっていう会社員自体が、

全く合わない人もいるだろうし。

 

 

自分はどの程度の自由が肌に合ってるのか、

その匙加減はうまく自分で見極めながら。

 

 

 

何かに所属したり

何かを選択したり

自由を少しずつ切り取って、コントロールして

秩序を作って、

その枠の中でまた自由を求めてあれこれ工夫して。

 

時には枠を変えたり、

もしくは同じ枠でも、もうちょっと自分のやりやすい様な

環境作りを働きかけたり。

 

「自由」と「制約」を行ったり来たり、

完璧じゃなくても、自分にとって"ちょうど良い"程度を

繰り返し探って近づけていくのが

人生なのではないでしょうか。

結婚とか恋愛もそうなのかもしれませんが。

 

 

 

 最後にもう一回スヌーピーを引用すると、

「時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか

 不思議に思うわ」と言われたスヌーピーは、こう考えます。

 

(配られたカードで勝負するっきゃないのさ…)

(それがどういう意味であれ)

 

 

一見何でも出来そうなバランス型の人でさえ、

突出するものがなくて悩むこともある位で、

個性は全て制約とも言える。

人間である以上、制約の無い人なんて居ない。

 

 

先日受けたプロジェクトマネジメントの研修では、

こんな話を聞いた。

 

ー プロジェクトの失敗の時に

「人が足りなかったから出来なかった」

「予算が充分じゃなかったから出来なかった」

というのは、良くある言い訳で

それは実際そうなのかもしれないけれど

 

経営をしている以上、

人も金も時間も無限にある会社なんてある訳なくて、

それらは思考停止ワードだ。

もし失敗したとしたって、

「限られた人をうまく使えなかったから」という発想で

振り返ることが大事で。

 

そういう言い訳を潰す為にも、

背景から目的と目標を定めた後に

今回の制約条件を確認しておきなさい、と。

 

 

ありえないことだけれど

もし使える人も金も時間も無限にあったとしたって、

自分に何でも出来る能力があったとしたって、

それってバグ技みたいなもんで。

 

そんなんで勝つのなんて当たり前で。

そんなゲームは全く詰まらない。

 

 

どんなに手持ちのカードが貧弱だったとしたって

今あるカードでどう勝負して、

どうやって勝ちに行くのか。

 

それを考えるのってすごく創造的な行為だし、

無い無いって嘆くよりも

そっちの方がずっと、面白いじゃないですか。

 

 

 

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