「人格」と「やり方」の切り分け | ドラクエ好きに悪い人はいない

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ドラクエから人生を哲学するブログ
ネタバレには全く配慮していませんのでご注意ください!

 

 

 

勧善懲悪じゃない、敵側にも敵側の事情があるっていう

RPGって結構あるけれど。

私の中でそういう系の元祖はドラクエ4で。

 

 

ラスボスであるピサロは当初人間の形状をしていて、

ロザリーというエルフの恋人が居て。

彼女が人間に虐待されていたのを救い、

世界で唯一彼女にだけは心を開き

それはそれは大切にしていたのだけれど。

 

ピサロを利用して世界を支配したかった魔族の1人が

人間を仕向けてロザリーを殺させて。

その場面をピサロに発見させることで、

人間全体への復讐に奮い立たせていく。


進化の秘宝で半ば薬漬けみたいになって、

もう理性を失ったピサロが

*「うぐおおお……! 

      わたしには なにも おもいだせぬ……。

    しかし なにを やるべきかは わかっている。

    があああ……! おまえたち にんげんどもを

    ねだやしにしてくれるわっ!」と

ラストバトルに入っていくのは

何とも言えない悲しさがあるのですが

 

 

ピサロ自体は決して悪い奴とは言い切れないし、

ピサロなりの事情もある。

だけど騙されたとはいえ己の心の弱さが一因で、

「世界を滅ぼす」という取り返しのつかない実害を出す程に

闇に陥ってしまったのなら、

それはもう倒すしかない……という悲哀が

切なくもあり好きでもあるので。

リメイク版でクリア後にピサロもロザリーも復活するのは、

ご都合主義みたいで否定派ではあるんですが。

 

 

 

「人間としては決して悪い人じゃないんだけど……」って

会社で働く様になってから、あちこちで良く聞くセリフだけれど。

 

私自身も何度かそれを言われてしまったことはあって。

 

 

営業1年目の頃、私はお客様を展示会を案内しようとして、

前日に来た場所なのにまた道に迷って、

訳分かんない寂れた場所に連れていってしまい。

その時に、お客様が笑いながら言った。

 

「個人的には岡田さんのことはとても素敵だと思いますけれど、

 営業としてはそれじゃダメだと思いますよ」

 

 

これは昔の話だし半分笑い話ではあるけれど。

最近久々に、もうちょっと笑えない感じで

切り捨てられる…って言ったら言い方は悪いけれど

「岡田さんのことは人間としては好きだけれど、

 ○○の部分としては駄目、」という様な趣旨のことを

仕事やら、仕事以外やらで立て続けに言われてしまって。

 

どっちも結構悲しくて、数日間は

ドラクエ30周年記念の日本酒『そして伝説へ』を飲みながら

家で1人で泣いていたのだけれど。

(※大して飲めないくせに)

 

ただ、仕事の方の時に上司が言ってくれた言葉が、

すごく有り難くて。

「起きてしまったこと、指摘されたことは

 認識する必要がある。

 だけどやることをやってなくて起きたことでは無いし、

 余りこれに引きずられないで欲しい。

 これで俺の中で岡ちゃんの仕事の評価が下がった訳ではないから、」と。

 

 

 

私は昔、怒られることがもの凄く苦手で。

でも期限に遅れるとか抜け漏れが多いとか

怒られても仕方ないことばかり起こしていたから、

当然よく怒られてて。

 

怒られる度に、ああ自分は何て駄目な人間なのだろうと、

自分なんてゴミみたいな人間だと、

いやゴミは別にあっても困らないけれど私は居るとマイナスを生む訳で

私なんぞゴミ様以下です生まれてきてすみません位に思っていたのだけれど

 

 

大袈裟に言っちゃえば

人から認められたくて認められたくて仕方なくて

でも誰からも認められる気がしない、

何もかもが苦しいし自分のこの先に未来なんて何もない…

みたいな絶望感に襲われるあの瞬間。

 

今でもたまにはあるといえばあるけれども、

年齢や経験を重ねるにつれて

格段にそれに襲われる時間は減って来て。

 

少しずつ成長して余裕が出来てきて

人から怒られること自体も減って来たし。

怒られたとしたって、以前より大分冷静に受け止めて

じゃあ次にどうすればいいのかを、

切り替えて具体的に考えられる様になってきた。

 

 

数ヶ月前、後輩に注意しなきゃいけないことがあって、

色々と指摘してたらみるみるうちに落ち込まれてしまって、

うーーーんどうしよう、と思いながら

 

「誰だって最初から全部出来る人なんて居ないし、

 出来ないことで自分を責める必要は全く無いけれど、

 出来ないことを認識する必要はあるよ」なんて言いながら、

昔の自分に言っているみたいだなあ、なんて思った。

 

 

20代の頃、ずっと怒られることが苦手だったり

なかなか改善しなかったのって

 

 

「自分の人格」と「自分のやり方(行動)」の否定を、

ごっちゃにしてたからだよなあ、と。

 

 

自己の人格を否定して、自己嫌悪に陥ることは簡単だけれど、

それって単なる思考停止であって。

次に同じことがあっても、また自己嫌悪に陥るだけで終わる。

落ち込むだけで生産性が無い。

 

逆に、自分の人格を肯定したいばっかりに

「やり方」に対する意見までも

自分は悪く無い!と受け流すのでも良くならない。

 

感情として苦しくても、

それはそれとして切り替えて、

理性でちゃんと「事実」として受け止めて

何が悪かったのかを、次に同じことを起こさない為にはどうすればいいのかを

冷静に考えなきゃいけない。

 

 

例えば冒頭のお客様と一緒に道に迷ってしまう話だったら、

絶望的に方向音痴っていうのは

治し難いどうしようも無い部分ではあるのだけれど。

そのこと自体に落ち込むよりも

それはもうそういうものとして自覚して、

もう少し早く来て何度でもルートを確認するとか、

 

期限に遅れちゃう・忘れちゃうんだったら

スケジューラー入れたりアラームかけたりして

途中途中で自分にリマインドかけたり

周りにも「○日までにこれをやります」って宣言しておいて

監視して貰ったり逃げられない状況にするとか。

細かい工夫で、いくらでもやり方はある訳といえばある訳で。

 

 

一方で、今になって思い起こせば

決して自分だけが悪かった訳では無くて。

 

前職で、もうどうしたらいいのか訳分からなくて

自分の人格否定ばっかりしちゃってたのって

私が未熟だったっていうのもあるけれど。

 

今思えば当時の上司の指導自体も、

「人格」と「やり方」が切り分けられていなかったなと思っていて。

 

 

何か失敗すると、ミスの大小に関わらず

「お前には本当にいつもがっかりさせられる!」とか

「反射神経が死んでんじゃねえの?」とか

全部感情で人格を否定する言い方をしてくるから、

結局具体的に何が悪かったのか、どうすれば良かったのかが

全然分からなくて。

何のポイントで激昂されるのかも全然分かんないから

仕事というより、常に上司の顔色を見ながら怯える様になって。

 

今までその上司の下になった人が何人も心を病んでいて、

いわゆる「パワハラ」と周りから呼ばれる様なものだった。

主任が冗談で「うちの課は課長対策課だから」って良く言ってた。

 

 

転職してから出会った上司で

ものすごくドライだけど、

ものすごく頭の回転が早い上司が居て。

 

私の得意・不得意に対して、

一切の感情を交えずに単なる事実として捉えて

「ここが苦手なら、こういう風にやった方がいいと思う」

「これが得意なら、こっちでこうカバーすれば?」とか

取るべき具体的な行動を冷静に教えてくれて。

 

それまでずっと不得意な部分を

ひたすら怒鳴られていた私にとっては、

それにとても救われて。

 

今までどうすればいいのか分からなくなってしまってた

気持ち悪い塊が、ようやく頭の中で整理されて

「こういう時はこうすればいいのか」というやり方を

パターンを学ぶことが出来て、

今までよりもすごく成長出来た。

 

 

誰かを指導する時は

指導をする側も、

その指導を受け取る側も、

 

どちらも、「人格」と「やり方」を、

意識して明確に切り分けるべきなのだと思う。

 

 

指導する側も、

「やり方は間違っているからこうするべきだけれど、

 決してあなたが嫌いな訳では無いし人格を否定している訳では無い」ということを

根気よく丁寧に伝えていかなければならないし

(特に若い人に対しては)

 

指導を受け取る側も、

自分自身が出来ていないことは逃げずに自覚する必要があって。

上司は決して自分が憎くて言っている訳では無いし、

それに気付かせる為に言ってくれているのであって。

自分や指摘してくれた他者を否定せず、落ち込まずに聞き流さずに

やり方を改善していこうとする姿勢を持たなければならない。

 

適正な自己認識が無ければ、自分の現在地が分からなければ

そこから修正も出来ない訳で。

自己評価は高過ぎても低過ぎても、成長を妨げる。

難しい匙加減だけど、適正に捉えることをまずは意識しなきゃいけない。

 

 

ちょっと前にSNSで良くシェアされていた、

『グーグルが突き止めた!

 社員の「生産性」を高める唯一の方法はこうだ』という記事があって。

http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/48137

 

要約すると、社員の生産性を極限まで高めるには

お互いに本来の自分をさらけ出して、心遣いや理解力を育み

自分はここで受け入れられているんだ、と思える

「心理的安全性」を構築することが

一番だって話なのだけれど。

 

 

何故「心理的安全性」のある組織が生産性が高いのかは

この人が居るから頑張ろうって+αで頑張れるとか、

怯えないからミスが減るとか、

それこそ色んな要因があると思うのだけれど。

 

「自分の人格は否定されていない」という大前提があるから

そっちに神経を遣う必要がなくて。

純粋に建設的に「やり方」を考えることに集中出来て。

どうした方が改善出来るのかをお互いに安心して言い合えるし、

言われても受け止められる、というのが

大きな要因の1つとしてあると思う。

 

私は恐らく人よりもやや

「心理的安全性」を感じにくい性質っぽいので。

そこは自覚して、自分から自分の気持ちを伝えたりして

もっと安全性を感じられる様な環境をうまく作りにいったり、

そもそも自分がマイナスに受け取り過ぎなんじゃないかと疑ったり、

意識して自己管理しなければならないのだと思う。

でないと人ともうまくいかない。

 

 

何か失敗したり悲しいことがあった時に

自分の弱さに飲み込まれて、

自分や他者を否定していくのは簡単だけれど。

 

本当に誰かに優しくなるには、

結果を出すには、

強く賢くならなければならなくて。

 

感情的には悲しかったりムカついたりしたって

それはそれ、としっかり切り替えて踏みとどまる強さを持って、

冷静に頭でどうすれば良いのかを考える、賢さを持って。

 

賢いというのは、別に学力的なことでは無くて

考えて工夫し続ける、という姿勢だと思う。

 

 

ピサロがどんなに人格的には悪い人間では無かったとしたって、

自分の弱さに負けて利用されて

「人間が悪いから人間を滅ぼす」という

賢くない判断をくだしてしまった……という「やり方」は、

やっぱり否定しなければならないし、倒さなければならない。

 

ストーリーとしては、倒されて終わるFC版の方が

味わいがあって好みではあるのだけれど。

現実だったら、人格が悪い人では無いのであれば

その「やり方」を正した後は、リメイク版みたいに

同じ仲間として一緒に戦う様べきなのだろうな、と。

 

「人間としては好き」というのは、救いであって。

根っからの悪い人も居なくはないけど、そんなに多くは見ないし

ほとんどの人が「決して悪い人ではない」のだから。

その点は双方繰り返し認識し、

伝えていく必要があるのだと思います。

 

 

京都に住んでいるので、よく神社とか寺とかを回るのですが。

私は「こうなります様に、」とか、

他力本願はしないのが信条で。

お賽銭を入れた後は、決意表明というか

いつも自分の行動に対して願掛けするのだけれど。

 

ここ数ヶ月はずっと、

何があっても、卑屈にならない強さを持てます様にと

ひたすら密かに祈ってます。

長い間ずっと、卑屈の誘惑に負けて生きていた人間なので。

 

 

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