過去の効用 | ドラクエ好きに悪い人はいない

ドラクエ好きに悪い人はいない

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記憶のない人に心理療法はできない?
―Togettherまとめ

http://togetter.com/li/775779


「私とは何か、のひとつのスマートな答えは、
記憶、なわけですが、スマートなだけでなく、
まさにほんとそのとおりかなと思いますね。」

「記憶がない人には心理療法できないでしょうね」

 


ドラクエ5で一番感動した場面って
かなり多数の人が挙げると思うんですけど、
妖精の国で過去に戻って、幼い頃の自分に会って
本物と偽物のゴールドオーブをすり替えるシーンで。

 

 

 

幼い頃「坊や、どんなにツラいことがあっても 負けちゃダメだよ。」って

言葉をかけてくれた青年が
実は未来の自分だったんだって繋がって。
逆に過去の幼い自分から、
「うん。どんなにツラいことがあっても僕は負けないよ。」って

返されるあの場面。

 

この時間の間に、父親のパパスは自分を庇って自分の目の前で殺されて。

長年を奴隷として過ごして逃げて、

だけど逃がしてくれた人は亡くなって。

結婚して子供が出来て、やっと幸せになったと思ったら

石化されたまま数年が過ぎて……など

本当に色んなことがある訳ですが。

 

 

このシーン、私は

過去を「変える」ための場面じゃなくて、

過去をただ「見る」ための場面だと思っていて。

 

 

 

ゴールドオーブをすり替える…っていう行為は、

未来を変えると言えばそうなんですけれど、

あの「過去に行く」1場面を作るためにある1設定でしかないというか、

別に全然、削ろうと思えば削れるところで。

 

 

なんというか、バックトゥザフューチャーとかクロノトリガーみたいに

あくまでそれが本筋のストーリーでないというか。

いわゆるタイムスリップものの様に

「過去に戻ってダイレクトに未来を変える」という話じゃない。

 

 

パパスと会って話すことも出来るけれど、

ラインハット(殺される場所)に行くなと言っても

一笑に付されるだけで、大筋の過去は変えられない。

懐かしい父親に一瞬会えて、話が出来るだけ。

 

ただただ、霧の中でホルンを吹いて

懐かしいサンタローズ村で、懐かしい人たちに会う。だけ。

 

 

それだけだけど、だからこそかもしれないけれど

それまでにあった色んなことがわーーっと思い返されて

めちゃくちゃ泣ける。

 

 

8のアスカンタのパヴァン王のシーンも全く同じで。
愛していた王妃が亡くなって、王が2年間ふさぎ込んでいて

停滞してしまっている国を立て直すために願いの丘にいくんですが。

 

願いの叶え方が、王妃を生き返させるんじゃなくて

過去に王妃とした会話の幻を、見せるだけなんです。

 

 

だけどそれによって、

そうだ王妃はこんなことを言ってくれていたのだと思い出して、

落ち込んでいたら君と出会えたことの意味がないと、

王は立ち直っていく。

 

 

私、20歳の時から11年間続けているブログがあって、

それは不特定多数に公開してるものではなくて、友達数人しか知らない奴で。

 

元々は、何か辛いこと悲しいことがあって

でも誰にもうまく話せなくて、
気持ちの出口が無くてどうしようもない時に

心を落ち着ける為の発散として書いていた。

 

要は手書きの日記を管理しやすい・PCで書きやすい様に

ブログ形式にしてるだけのもので。

 

 

で、最近1万3000円かけて3冊に製本化したのですが

(mixi日記も会わせると4冊)

私はそれを読むのがめちゃくちゃ好きで。

読み始めると夜が明けていることもある……という

割と気持ち悪い趣味を密かに持っていて。

 

 

 

私の母親も昔、日記を書いていたらしいけれど
「その頃の悲しい気持ちが蘇ってきて良くないから、
 ある時全部捨ててしまったわ」って言っていた。

 

確かに私のブログも読み返すと、

辛いよとか苦しいよとか、色々書いてあって

あーーそんなことあったなあ、なんて

書いてさえいなければきっと忘れられてたのに……っていうことも

かなりあるんですけれど

 

 

だけど私は、それを読んで嫌な気持ちにならない。

 

逆にすごく、励まされるんです。

 

 

最初の方の日記は暗いことしか書いてなくて、

20歳なのに完全なる中二病でほんとクソみたいで直視出来ないんですけど。

客観的に読み手として読んでいると、

考え方がどんどん成長していっているのが分かるし

 

ああ、そういえばこの人はこんな言葉を私に言っていた、

そうかそれが今の私のここに影響しているのだ、とか

誰かの言葉が数年後にブーメランみたいに返って来て

ハッとなることもあるし

 

 

なんていうんだろう。

それこそドラクエ5のゴールドオーブのシーンみたいに、

タイムスリップして、当時の自分をただ見てる、

そんな気持ちになるんです。

 

読んだ後に顔を上げると、今の自分があの頃の未来にいて

京都に住んでて○○社に勤めてて31歳なんだ、ってことが

チカチカするというか、すごく不思議な気分になる。

 

 

 

 

私、もしかしたらまだ

致命的に辛いことが無いってだけなのかもしれないのですけど、

もし過失で誰かを殺してしまったりしたら、

同じことは言えないのかもしれないですけど。

 

「もし過去に戻れるとしたら、どこをやり直す?」って言われても

やり直したい、って思う場面が一つも無くて。

 

 

もっと受験勉強を頑張ればもっと良い大学に行けたかもしれないけれど、

そうしたらその後出会った人には出会えなくなる訳で。

もしもタイムスリップして過去を変えた後に

前の人生で友達だったけど、

今の人生で知り合いじゃない人に道ですれ違ったら、

私は懐かしいのに相手は私を知らなくて

きっと悲しくて仕方なくなるし

 

どうせ転職するのなら最初の会社を変えればいいのかもしれないけれど、

最初の会社の経験があるからこそ今の会社を選んだり採用されたりしてる訳で、

今の会社にも入っていなかったかもしれない。

 

長年片思いしていた人にもう少し勇気を出せていれば

失恋しなかったかもしれないけれど、

そうしたらもしかしたら何かが少しずつ違っていって、

今の幸せそうな彼の家族は無かったかもしれないし、

その後で好きになった人が好きじゃなかったかもしれない。

 

 

どこか1つがずれただけで、

今の自分が無かったかもしれない、と思うと

すごく怖くて。

 

 

 

 

もちろん途中途中、後悔することはあるのですけれど

ずーーーっと今も引きずって、後悔していることがない。

出来事の大きさやその時の自分の若さで、後悔の時間の長短はあるけれど

最終的にはこれで良かったんだって、消化出来てしまう。

 

 

B・シュリンクの『朗読者』という小説の最後の方に

下記の一説があるのですが。

 

「傷ついているとき、かつての傷心の思い出が再びよみがえってくることがある。 
自責の念にかられているときにはかつての罪悪感が、 
あこがれやなつかしさに浸るときにはかつての憧憬や郷愁が。 
ぼくたちの人生は何層にも重なっていて、 
以前経験したことが、成し終えられ片が付いたものとしてではなく、 
現在進行中の生き生きしたものとして後の体験の中に見いだされることもある。 
ぼくにはそのことが充分理解できる。 
にもかかわらず、ときにはそれが耐え難く思えるのだ。 
ぼくはやっぱり、自由になるために物語を書いたのかもしれない。 
自由にはけっして手が届かないとしても。」

 

 

22歳の当時は同じ気持ちでブログを書いていたので、

ものすごく共感して、

ものすごく苦しくなったのですけれど

 

 

今は半分そうだと思うし、半分違うと思う。

 

 

「トラウマ」という言葉がある様に、

過去が悪いもの・悲しいものとして扱われる瞬間に

立ち会うことは良くあるけれど。

 

 

だけどその生き方じゃ
年齢を重ねれば重ねるほど、経験が増える分
トラウマばかりが増えていくことになる訳で。

それじゃあ、生きれば生きるほど
怖いものが増えていって
逆に、何も出来なくなってしまう。

 

 

私は「転んでもタダじゃ起きない」が

ずっと昔から変わらない座右の銘で。

 

過去を、単に思い出したくないものとして捉えるか、

今の自分を作ってくれたものとして捉えるかで、
ものすごく、その先の人生が大きく変わってくると思っていて。

 

自分のブログを読み返していると

昔は「辛い苦しい」だけ書いて終わっているんですけど、

徐々に「辛い苦しい」の後に「でもきっとこういうことだからこうしよう」とか

学びとか、希望で終わる様になっていってて。

その癖は、確実に自分を良くしていってくれたと思う。

 

 

経済・経営学の用語で

「経路依存性」という言葉があるけれど。

 

制度や仕組みが過去の経験や歴史的な偶然により

形成されることで。

例えばキーボードの配列とか、特に意味はないけれど

「昔からそうだったから」だけで拘束されてしまってる、等

ネガティブな文脈で使われることもあるけれど。

 

『ストーリーとしての競争戦略』(楠木建)の中では

例えばセブンイレブンの「仮説検証型発注※」は、

やり方自体は会社にも真似出来るものだけれど。

そこに至るまでに長い時間と紆余曲折を経て、

セブンイレブンのビジネス経験・経路を踏まえて練り上げられたものであり、

表面的に模倣してもすぐには同様の効果が得られない。

それがセブンイレブンの競争優位になっている、といった意味で

「経路依存性」が使われている。

 

※過去データから発注量を自動的にはじき出すのではなく、

 店舗側の発注担当者が過去データを見ながら、

 天気・地域性・周囲のイベント情報などから仮説を立てて発注量を決定、

 というPDCAサイクルを回していく。

 毎週1000人以上の担当者が本部に召集され、

 成功事例のフィードバックなどお互いに情報交換。

 

要は、その企業の仕組みや強みって

その企業の様々な過去や歴史から複雑に作られているもので、

その歴史を辿っていない企業が簡単に取り入れられるものではない…

ということだけれど。

 

 

会社だって、人だって、

 

過去こそが、その人を形作るものであり

その人ならではの、他に代わりなんて利きようもない

強みなんじゃないでしょうか。

 

 

いくら子供のやることが

親からみたら「絶対に間違ってる」って思ったって

いくら言葉で言ったって、伝わらない時は伝わらない。

やってみて経験しないと、自分自身の「過去」がないと、

子供は本当に納得できない。

 

経験というのは本当に尊いもので、

そこからでしか成長出来なくて。

 

 

もしかしたら5の主人公も

過去に戻った時、本当にもっと本気を出せば

パパスをラインハットに行くことを止められたのかもしれない。

 

だけど主人公は、敢えて

それをしなかったのではないか…とも思うのです。

 

 

“「今こういうことされてこんなに辛い。傷を見て」
っていうのが子どもの作品で、
「ぼくはこういうふうに治しましたよ」って、
治った傷口を見せて言うのが大人の作品だって。”

 

なんて話が、糸井重里と羽海野チカの対談で出てきますけれど。

 

昔は過去や言葉に酔って

ただ辛い苦しいっていう衝動だけで、

日記を書きなぐっていたりしたのですが。

 

もういい大人なんだから

自分を不幸せにしていくために、過去も言葉も使うんじゃなくて。

言葉で誰かも、自分も、幸せにしていきたいよ。

 

 

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