宮崎正弘の国際ニュース・早読み <<中国、ロシア最大手の石油企業の大株主へ (2017年09月1 | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


    ロシア人や支那竹人の思考はどう見ても日本人とは相容れないな。

    7日の日露首脳会談も成果が有ったのやら無かったのやら?    世耕経産大臣がフォーローとも言えないフォーローをしてたっけ。


宮崎正弘メルマ
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)9月10日(日曜日)弐
       通巻第54287号  
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 中国、ロシア最大手の石油企業の大株主へ
  中国華信能源(CEFC)、ロフネフツの14・2%を1兆円で
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 不思議なディールである。
 中国の「民間企業」(事実上は共産党の先兵)である「中国華信能源」(葉簡明CEO)は、夏頃から噂のあったロシア最大の資源企業「ロフネフツ」の株式14・2%を取得し、ロシア政府、BP(19・75%)に次いで第三位の株主となる。
 この株式はカタール政府ファンドとスイスの資源企業グランコアの持ち分を買い取るかたちで、買収資金は93億ドルといわれる。

 なにが不思議かと言えば、中国は5000万ドルを超える海外企業の買収を事実上、禁止している。このため王健林率いる万達集団などは、予定していたハリウッド映画や北欧の映画館チェーン買収ができず頓挫している。海航集団、安邦保険なども海外買収案件の悉くが暗誦に乗り上げている中、この例外的な、しかも巨額の買収がなぜ可能なのか。

 習近平の外交戦略の目玉「一帯一路」の具体的構想に寄与できるうえ、資源企業への出資は、中国の「国家戦略」だからである。
 既報のように中国はサウジのアラムコの大株主をめざしており、その取引条件は人民元建て取引。アメリカのドル基軸体制を迂回路で挑戦する仕儀でもあり、ワシントンは警戒している。石油先物取引を人民元建てとする取引所も近く上海に開設する。中国は世界最大の原油輸入国である。

 さてロフネフツである。
 ロシアの最大の資源企業であり、世界一の石油とガスの埋蔵量を誇るとされるが、ソ連時代からの資源企業と言えばガスプロムとルークオイルであり、このロフネフツなる新興企業は、いかなる経過で誕生し、かつ巨大化したのか。

 ロフネフツはプーチンの利権いがいの何者でもない。
 クレムリンの権力者が、たらいまわしに社長を務めるガスプロム同様に、このロフネフツも、プーチン政権直営企業と見て良いだろう。


 ▲設立の動機も、企業活動の中味も怪しいことばかりだ。。。。。。。

 ソ連崩壊のどさくさに、多くの国有企業がクーポン、バウチャー方式で売りに出され、マフィアと組んだ新興勢力が、旧社員等からバウチャーを買い集め、合法的に旧国営企業を乗っ取った。

 1990年、ミハイル・ドルコフスキーという先見力に富んだ新興成金はメナテップ銀行という怪しげな銀行を経営していた。この銀行はクレムリン高官らの海外秘密口座を運営し、権力と近かったために急成長した。

 ホドルコフスキーはユダヤ人、モスクワ生まれ。その彼が1998年に「ユコス」を設立し、買収につぐ買収で、またたくまに有数の資源企業となった。
 ふんだんな資金を元に、ホドルコフスキーはプーチン批判を始め、プーチンの政敵や敵対的政党に多額を寄付し、テレビ局も買収してさかんにプーチンを攻撃、しかも大統領選挙への出馬をほのめかすなど、プーチンにとって明らかな邪魔となった。

 脱税など冤罪をでっち上げ(ホドルコフスキーはエクソンモービルにユコス株の40%を売却し、多国籍企業への脱皮を狙っていた)、プーチンはホドルコフスキーを逮捕し、あまつさえ、彼の経営したユコスを解体し、巧妙な手口でロフネフツが乗っ取った。
 つまり政敵の資源企業が、プーチン系の大企業への生まれ変わったのだ。

 2013年、プーチンはホドルコフスキーに恩赦を与え、ドイツへ出国させた。
背後にはドイツ政府の働きかけがあったと言われ、家族とともにホドルコフスキーは、その後、スイスへ移住した。

2015年からは政治活動も開始した。ロンドンなどへ出かけて「プーチンは裸の王様」などと舌鋒鋭く、ロシア指導部を批判しているが、所詮は犬の遠吠え、ほぼ影響力を失ったと見て良いだろう。
 そしてロフネフツの大株主に中国が加わるのである。

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   樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1624】      
――「獨乙・・・將來・・・無限の勢力を大陸に敷けるものと謂ふべきなり」(山川14)
  山川早水『巴蜀』(成文堂 明治42年)

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ここで山川に戻るが、山川は四川の最西端に位置する貿易地の打箭爈に興味を示す。同地での貿易は「陸路直接に印度との間に行はれ、商品は茶を以て其大宗を爲す」。四川銀の外に「印度貨幣」が通用している。住民は漢族と「喇嘛蠻子」と称するラマ教信徒の少数民族だった。興味深いのが、「此處までは、本邦人も少なからす其踪跡を留め」、山川が確認しているだけでも前後10人ほどとのこと。そのうちの1人である木田鍈治は明治39年6月に、「商業視察」を目的に同地を訪れている。

  当時、同地には「英國宣?師夫婦、那威人一名、佛國宣?師二名、米國宣?師二名」が在住していたという。英人夫婦は当初は西蔵潜入を目的に、「印度より陸路四川に入りしが、未だ其志を得ずして、打箭爈に滯在し、已に三年を經過せる趣なり」とのことだ。

  こう見てくると、明治末年、イギリス、フランス、アメリカの3国は、既に四川の最西端の地に影響力扶植の手を打っていたことになる。じつは四川の最西端はインド、チベットに最も近い地政学上の要衝でもあったわけだ。そう、昔も今も。ところで木田らの目的は、はたして「商業目的」だけだったのか。同時に、彼らの旅費は誰が負担したのだろうか。まさか、彼らが自腹を切ったとも思えないのだが。

  当時の四川における3大事業といえば、「?育擴張、兵備擴張、及び漢口成都間に敷設せらるべき川漢鐵道」。そのうちの最難関が川漢鉄道建設であり、「工事の困難は勿論、經費の鉅額、測り易からざる」がゆえに、「今後五年や十年の短時日にては、恐らくは成功を期し難からん」とするが、「その初一念を貫かんとする支那人の意氣込、萬里の長城を築成したる祖先の遺血を傳ふる」点を記すことを、山川は忘れてはいない。なお、鉄道経営に関するノーハウに関しては「明治三十九年の春、新たに鐵道學堂を設立し、本邦より工額士橘、原、百瀬の三氏を聘し、其?習とせり」。「川人の目的は、此學堂にて養成したる學生を以て、諸般の經營に任ずるに在るものヽ如し」。100余名の学生が学んだとのことだが、なにせ「普通學の素養なき爲」に専門課程を教えるまでには至っていない。かりに日本の鉄道技術が四川に定着し、それをテコに四川全域に日本の影響力を保持し続けていたと考えるなら、四川の地政学上の位置からして、その後の日本の中国政策は現実とは違った経緯を辿ったことだろうに。

  さらに山川は精力的に歩いた成都とその周辺の名勝旧跡に関する記述を残しているが、詳細な旅行案内に近く、敢えて割愛する。

 「明治三十九年六月十四日 成都を去り、歸東の途に上る」。いよいよ帰国の旅となる。
 翌15日には?習として地方に派遣されている「千葉縣人瀧口定次郎氏夫妻」や「茨城縣人後藤美之氏」を訪ねる。「故郷への事傳てもやあらん」というわけだ。瀧口夫妻や後藤のその後を知りたいところだ。

 「二十日 午前十時、重慶府に達す」。四川唯一の開港場だが、上海に較べれば極めて小規模であり、「明治三十九年末の帝國領事館の報告に據れば、外国人は日本人(24人)、イギリス人(48人)、フランス人(22人)、アメリカ人(27人)、ドイツ人(7人)、その他(2人)の総計130人。

  「重慶の本邦事業としては」商業以外に教育事業が認められるが、「支那には西洋人の經營せる學校は各地に在れども、本邦人の創設せる者は、極めて希に、此點に於ても、彼れ西洋人に一歩を讓り居りける」。
ビジネスに関するなら「西洋商館としては、數ふるに足るものにあらざるに似たり」。だが「竊に彼等の云爲する所を察するに、各個人の發展を謀るよりは、先ず根柢に於て、勢力を扶植するを急とし」ているというのである。
《QED》 
  ▽□◎ひ▽□◎い□▽◎ず□◇◎み▽□◎  
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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘OPINIONS 読者之声
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(読者の声1) 先日のメルマガで宮崎先生が人民解放軍における習近平による反対派幹部粛清をスターリンの赤軍粛清になぞらえて論じておられました。
実際、1930年代に行われたスターリンの赤軍大粛清はトハチェフスキー元帥以下高級将校の三分の二が犠牲者になったといわれます。
お陰で赤軍はガタガタになってしまい、1939年から40年のフィンランドとの戦争では、ソ連は勝ったもののフィンランド軍の損害6万に対して赤軍は40万以上の大損害を出しました。
翌年のドイツによるバルバロッサ作戦では赤軍は緒戦で大打撃を受け、モスクワもレニングラードもドイツ軍によって陥落一歩手前まで押しまくられました。
これを耐え忍んだのが、スターリンによる大粛清をかろうじて生き延び、トハチェフスキーの軍事理論の弟子であったジューコフでした。
ノモンハンで精鋭関東軍を相手に善戦健闘したジューコフは、圧倒的な兵力と物量で敵の数倍の犠牲は最初から折込ずみの戦法で冬将軍の助けもあってモスクワとレニングラードを守り抜き、1943年にはスターリングラード決戦で独第6軍を包囲して降伏に追い込みました。
あとはクルスク大戦車戦からベルリン攻略戦まで一直線でした。

朝鮮戦争では彭徳懐率いる中国人民義勇軍、その実、人民解放軍は圧倒的な火力を有する米軍に対して人海戦術をもって膨大な犠牲にもかかわらず(その大部分は元の満洲国軍や国民党軍からの寝返り組だったといわれますが)、米軍の弾丸が尽きるまでの飽和攻撃を繰り返すことによって何とか引き分けに持ち込みました。
後方に前線から退却する部隊を撃ちまくる督戦隊を配置し、犠牲をいとわず人海戦術で攻撃を続行する戦法は、ロシア革命期にクロンシュタット要塞攻防戦でトロツキーとトハチェフスキーが確立し、ジューコフが継承し、後にはベトナム戦争でも用いられた赤軍伝統の戦闘法です。
たとえ習近平が江沢民派を人民解放軍からパージして、軍内部の腐敗がすすむとしても、だから人民解放軍は張子の虎だ、鎧袖一触だと馬鹿にするのは禁物だと思います。
 むしろ名目上は9個師団に6個旅団を有するわが陸自は、実数わずか15万に過ぎず、そのかなりの部分が管理部門要員で実際の正面兵力が少なく、来年には陸上総隊司令部が設けられるとやたらと陸将や将補、幕僚だらけの頭でっかちの軍隊となってしまいます。 
徴兵制もない自衛隊に対して中国が伝統の人海戦術で尖閣に飽和攻撃をしかけてきたら果たして守りきれるのでしょうか。
今こそ国防のあり方を考えなおすべきときです。
(武蔵国杉並住人)


(宮崎正弘のコメント)ジューコフ、忌まわしき名前。ロシア人にとって英雄。
ウランバートルにはチンギスハーン巨大な銅像とまではいかないけれど、レーニン像に匹敵するような、ジューコフ記念館があります。
昨年、ベラルーシへ行った折、新設されたばかりの「戦争記念館」を見学すると、ジューコフ将軍のトルゾーが飾ってあり、かれはベラルーシでも英雄扱いされていました。スターリンはジューコフの名声と人気に嫉妬していたけれど、彼の根強い戦争英雄の輝かしい戦歴を前に、失脚には追い込めなかったのでしょう。
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    今日の「知道中国」は樋泉先生は日本人は不甲斐ないと憤っている様に見えるなあ。

    明治35年から1年余、小川琢治氏他数名が支那大陸の地質調査に出掛けてるんだがなあ。湯川秀樹博士の父君は地質調査所に勤務する官員。後に京都帝大の教授。『旅人』副題が「ある物理学者の回想」(角川ソフィア文庫)