宮崎正弘の国際ニュース・早読み <book review 前田雅之『保田輿重郎  近代・古典・日 | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


    シーボルトに惹かれて書籍の価格を見たら、とても年金生活者の範疇を超えてる。寿命やら何やら考えると、読んでも読みきれ無いな。後遺症で長時間の集中力に欠ける身では、ただの無駄遣いに終わりそうで諦めるしかない。

    どんな事が書いてあるのかを知らたい気持ちだけはある。図書館に通う気力も薄れてる。

    マルクスがシーボルトを知り、馬鹿な労働価値観を持たなければ、左翼思想など生まれなかったのでは、とここ数年思い付いた。誰か教えて欲しい。

    ここ数週間で欧州の言語が日本の方言くらいしか差異が無いことを知った。ドイツ人のシーボルトが秋田と山形くらいの違いのオランダ語を話すくらい訳ない事なのだ!

    津軽弁と薩摩弁ほどの違いがあっても謡つまり謡曲の様にうたうと通じたのだよ、江戸時代は。それじゃなけりゃ喧嘩ばかりだっただろう、日本は。但し、表記は漢字を用いたのが日本らしいじゃないか。欧州は何故か文字を変えて表記する。単なる馬鹿民族の集団でしか無いのだ。

    支那はその範疇を超えるのだ。漢字表記出来るのは、北京語、広東語ほか数個らしい。未開土人の雑種が現代チャイニーズなのだ。中華民族は既に滅び、漢民族なんて主張は天に唾するだけなのだ。


宮崎正弘メルマ
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)8月13日(日曜日)
        通巻第5390号 
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宮崎克則『シーボルト「NIPPON」の書誌学研究』(花乱社)

前田雅之『保田輿重郎  近代・古典・日本』(勉誠出版) 

樋泉克夫のコラム 

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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 長崎出島のオランダ商館付属医師として日本にやってきたシーボルト 
  帰国後、二十年もの歳月をかけて書いた日本紹介本が現代に蘇った

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宮崎克則『シーボルト「NIPPON」の書誌学研究』(花乱社)
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稀有な一冊である。評者(宮崎)がこの本に惹かれたのは単に幕末史の側面としてではなく、もうすこし世界史的観点からだった。
英国の歴史学者チャールズ・マックファーレンが、日本に来たこともないのに『日本 1852』(渡邊惣樹訳、草思社文庫)を出した。
これは当時欧州で出回っていたあらゆる日本関係の史料を集め、関係者を訪ね、フランスやドイツ、オランダなどに眠っていた文献もあつめて日本を論じたものだ。
マルコポーロの法螺話とは異なって、ほぼ正確に日本の全貌をあらわしていた。出島にいたのはオランド人ばかりではなく、オランダ人と偽証する人も混ざっていて、彼らからも聴き集め、じつは出航前のペリーが読んでいた。ペリーは長い航海中に、熟読していたのだ。そのペリーが日本に開国を迫ったことは小学生でも知っているが、ミカドと幕府の二重権力構造も把握していたうえ、江戸湾への海図も持っていた。日本人との交渉の遣り方も知っていた。

つまりシーボルトがもたらした日本の情報が、ペリーの遠征に大いに役に立ったのである。
シーボルトは当時禁止されていた日本地図を持ち出したのだ。かわりに彼はロシアの克明な地図を置いていった。
シーボルトが日本から追放されてからいったい何をしていたかと言えば、20年の歳月をかけて、この『NIPPON』を執筆し、自費出版していた。シリーズで順次発行され、初版は僅か300部、最後は60部だった。
本書の扉に配置されている当時の日本地図がおどろくほど正鵠に、日本の地形、地勢、港湾、その距離を描き出していることは衝撃である。
シーポルトは主として博物調査だったから、幕末の江戸の社会風俗、文化や産業、そして身分のよる服装の相違など、図版が367点も収録されており、斯界に衝撃を与えた。ドイツ語版、フランス語、そしてロシア語版も刊行された。
かつて評者は長崎を散策中に、偶然、シーボルト記念館をみつけ、見学したことがある。たしかに『NIPPON』の一部が展示されていたけれども、記念館ですら全部を揃えていない。

原本は製本されないで分冊形式だったため、完全な復刻は不可能だが、著者の宮崎克則氏は、これを九州大学医学部の図書館分館で発見したのである。大正15年に3000円で購入という記録があった。
シーボルトが日本に赴任したのは出島の付属医師としてで、僅か27歳で、年収三千万円だったという。出島だけでは飽きたらず、シーボルトは市内で医療をほどこし、また西洋医学を教えた。日本には従来なかった治療法を紹介し、さらには市内に塾を開くことも許されるほどだった。
いま、シーボルトが果たした歴史的な意議が、再評価される。
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 「伝説の文士」保田輿重郎の若き日々と作品を時系列に解題

   日本武尊、木曾義仲、そして後鳥羽院へと思想変遷の系譜

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前田雅之『保田輿重郎  近代・古典・日本』(勉誠出版)

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 『表現者』(富岡幸一郎編集長)に連載中、何回か読んだが、なにしろ連載は六年にも及んだので、いずれ一冊に纏まったらちゃんと読み直そうと考えていた。したがって読み飛ばしたチャプターがいくつかある。
 単行本となって、居ずまいを正し最初から読み直した。前田氏は独特の辛口で批評を展開する国文学者。その切り口は独自的だが、氏独特の世界観、文学観に基づく。本書は思索の書であり、哲学探求としての葛藤の軌跡である。
 つまり情緒的な保田礼讃ではなく、かと言って冷淡でもなく、保田との距離を保ちつつも、冷徹に客観的に保田の文章を通して、古典の視座を守りながら前田氏は「日本文化論」として書きつづっているのである。
 保田輿重郎は「日本浪漫派の巨人」というより、或る年代層にとっては「伝説の文士」。左翼からは悪魔的文士という奇怪な評価もなされ、それでいて誰もが真実を知ろうとはしなかった。
 戦前、軍国主義を煽り、青年を戦地へ追いやる軍の宣伝の片棒を担いだなどと杉浦明平ら左翼が出鱈目を書いたが、事実は真逆で、保田は軍に睨まれ、四十過ぎてから召集され、旧満州で終戦、引き上げは佐世保だった。
皇国史観と保田は無縁だった。同様に誤解された作家は中河與一だった。然し保田も中河も弁明も駁論も書かず、沈黙した。
 爾来、保田は郷里桜井に埋くもった。戦後久しき不気味な沈黙と静謐。保田が正当に評価され始めたのは、没後四年してから講談社から刊行された全45巻という全集がでてからである。それまでにも川村二郎、桶谷秀昭氏らが保田輿重郎論を書いていたが、世間的には評価されなかった。

 本論に入る前に個人的なことを記す。
 昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫事件が起きた。
評者(宮崎)はただちに追悼会を企劃し、凜列な寒さの夜、池袋の豊島公会堂で開催した折、保田は同士とともに京都から駆けつけた。和服で杖をつかれていた。楽屋には林房雄、中河與一らがいた。会場に入りきれないおよそ一万人は公会堂前の公園で待機し、マイクで追悼の言葉を喋る林房雄、川内康範、藤島泰輔氏らの話を聞いた。遅れて黛敏郎氏も駆けつけてくれた。
楽屋で二度ほど追悼の挨拶を保田に頼んだが、固辞された。中河も壇上には上らず場内で最後まで追悼の挨拶をする人々の声に耳を傾けていた。
このときが評者にとって保田との初対面だった。
「嗚呼、この人が「伝説の文士」なのか」と思った。こまかな描写は省くが(詳細は拙著『三島由紀夫以後』(並木書房)、以後、大阪につづいて、翌年に奈良でも三島追悼会を行うこととなり、林房雄とともに奈良へ行った。翌日、保田は林を飛鳥に案内し、その夜、ふたりに対談をお願いした。
京都太秦のご自宅を訪ねたときは道に迷った。一時間遅れの評者の到着を保田はじっと待っていて、自慢の山菜料理でもてなしてくれたのだった。この席での会話で思い出すのはひとつ。保田夫人が「三島さん、一回しか保田の勉強会に参加したことはないと書いてはるけど、毎週こられてましたよ」と言われたことだった。
事後、林の発案で日本浪漫派の再刊が決まり、同人に林、保田にくわえて中谷孝雄、浅野晃、檀一雄が名を連ねた。季刊誌とばかり思っていたら『浪漫』は月刊となり、編集部に評者も途中から加わることとなった。が、編集会議に保田が上京することはなかった。
「わが家系は長生き」と言って、九十歳までは大丈夫と言っていたが、昭和五十六年に冥界へ旅立たれた。
密葬は大津の義仲寺、本格葬儀は桜井だった。名古屋で後輩と待ち合わせして桜井へ向かった。葬儀には浅野晃、中河與一らが東京から駆けつけた。
いま保田論を前にして、上記のことを先に思い出すのだった。


▲保田文学の三要素とは

さて本論である。
保田研究者の間に常識化している保田の基礎は『マルクス主義、国学、ドイツロマン派の三要因』(橋川文三)と言われているように保田は高校時代に左翼学生運動の加担していた。
著者の前田雅之教授はこう言う。
「左翼的雰囲気が支配的だった時代に旧制高校に入学し、そうした時代の空気を吸って過ごした」(中略)「保田も紛れもない時代の子だった」ゆえ、「昭和初期の全共闘世代」と譬喩する。
その和服を好むライフスタイルも、前田は紀州の変人、南方熊楠に似ているとし、ともすれば中上健次とも『熊野で結ばれていた』ゆえ、中上が「濃密な親密感溢れる文章」を書いて保田を評価したとする
 保田は若き日に同人誌『コギト』を主宰した。毎号、三本、四本と文章を書き、ヘルダーリンを論じ、ナポレオンという英雄の悲劇を論じ、ともかくドイツ哲学、文学に没頭した時期があった。
 保田のヘルダーリン論も、ゲーテも、保田独自の、おおよそ独断的解釈であり、その後、昭和九年に紆余曲折を経て保田は『日本浪漫派』を宣言するにいたる。
 小林秀雄がベルグソンを論じつつ、外国かぶれから日本に本格回帰したとき、全集からベルグソンを外した。保田も、以後、積極的にヘルダーリンを論ずることはなかった。
 替って保田が挑んだのはヤマトタケルである。
 「一年前の『セントヘレナ』において、弱い敵にあっけなく敗れていく『英雄の運命』を高らかに論じた保田であったが、同年の『日本浪漫派』の立ち上げも絡みながら英雄論を日本古典の場に移してはじめて論じたものが『戴冠詩人の御一人者』であったと言ってよい。即ち、戦争・英雄・詩人・古典という、戦前期の保田輿重郎をめぐる本質的問題がここから始まる」(178p)
 戴冠詩人という命名から日本武尊を連想できにくいが、それが保田の保田たる所以かも知れない。これは森鴎外の『戴冠詩人』にヒントを得た。
 保田は「この薄命の貴人の生涯の美しさにむしろ感傷に似た憧れを感じてきた少年も眼を思った」として、「ヘルダーリン、シュレーゲル、グンドルフ、ハイネ、ナポレオンを経て、固まりつつあった『英雄と詩人』論の日本における典型を日本武尊に見出した」(180p)とするのだ。


 ▲木曾義仲と後鳥羽院の位置づけ

 ならば木曾義仲は、どういう位置づけになるのか。
 「保田は(『平家物語』の)作者一つの家を手づるにして、一つの世界の最後までを描こうとしたのである」と言いながら、他方で、「義経が世界をもたなかった如く木曽にも亦世界はなかった」と述べ、ために「懐かしく戯画化された原因」だろうと前田教授は読む。
さらに、その少し前では、「九郎判官と木曽冠者は、平家没落と鎌倉殿の建設を完成するために必然は橋であった」とも指摘して」いるのである。
 かくして『保田が独自に描く日本文藝の伝統』なるものは、「日本武尊―家持ー後鳥羽院―芭蕉というラインこそが日本文藝の伝統」となり、これは「荒唐無稽な妄説」であるとした向きが多いものの、前田教授は、次のように続ける。
 「これまで保田が扱ってきた対象がほぼもれなく収まり、ここにきて見事に秩序化あるいは体系化されている」(282p)
 保田自身、そうした体系が無理筋であることにも気がついていた。
 また後鳥羽院に関して、保田自身がこう書いている。

「後鳥羽院の意議は、古い上代から流れてきた主潮として万葉集のなかへ溶け込んだ歌と、万葉の末路の家持のサロンを中心に発生し、彼の周囲に集った十数人の奈良朝の美女によって育まれた相聞歌の調べが、どんな形で堂上に入り、一方地下の方へのびていったかを考えるとき、さらにそれが王朝となってどんな変化をしつつ、数百年を流れたかを思うとき、その末路の画期者として亦総合者としての意味もわかる筈である」

 そして承久の乱を「偉大な敗北」をした保田は次の文章を残した。

「承久の乱の決意は、日本の国と民との理念の自信にみちた自覚的発動であった。そうして事は失敗に終わったけれど、その敗北は、人類が理想の名において光栄とすべき最も偉大な敗北の一つであった。日本の文芸と芸能は、これを契機として、一つの絶大な信念、美と祈りの実態表現にまで知ったのである」

評者自身、この箇所に惹かれて、隠岐の島へ行ったことがある。
それもいまから三十年前のこと、大阪から釣り人の多い飛行機で隠岐の島につき、荒涼たる台地、草むす高台にこけむした遺跡があった。それが後鳥羽院の陵と伝えられている陵墓らしきものだが、火葬塚とあるので、疑問符がつく。天皇陵が火葬される筈がないからである。


 ▲やはり三島由紀夫との比較になってしまうが。。。。。。。。

 さて最後に本書でところどころに配されている三島由紀夫と保田の比較だが、前田教授は、三島も保田も初期の作品からおわりまで、バリエーションはあるが、「人間観、世界観」が変化していないということは両者に共通と指摘している。
 評者は二年前の「三島を語る」番組において次の発言をしている。

 「(日本の歴史上に)『正気』が蘇る事件というのは、100年、200年単位で日本の歴史の中でしばしば起きるんですよ。和気清麻呂、菅原道真、北条時宗、楠木正成、明智光秀、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛と来るんだけれど、松本徹先生が『天土(あまつち)を揺り動かすのは文学である』とよくおっしゃっているが、今挙げた人物たちはほとんど文学者なんですね。和気清麻呂は1200年経って再発見されて神社ができた。西郷隆盛は早かった。菅原道真公は、島津斉彬が霧島の温泉で配流されていたという場所を見つけて神社を建てた。楠木正成だって水戸光圀公が発見した。三島さんの偉業というのは本人も言うとおり、100年、200年経たないとわからないかもしれない。その時は三島由紀夫神社を日本人が作るだろうと思っています」
http://blog.livedoor.jp/japanlover/archives/54563237.html

 つまり言いたいことはこうである。
 保田は「偉大なる敗北」と譬喩しつつ「無理筋」(前田)の系統を建てているが、共通は日本武尊だけで、大塩も西郷もでてこない。
 他方、アイバン・モリスは「高貴なる敗北」といって、前記の英雄等を描いた。小生もどちらかと言えば、保田の説いた英雄列伝より、後者「高貴なる敗北」のほうを重視するのである。
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1612】             
――「獨乙・・・將來・・・無限の勢力を大陸に敷けるものと謂ふべきなり」(山川2)
   山川早水『巴蜀』(成文堂 明治42年)

   △
 宜昌に在留する唯一の日本企業である大阪公司支店の中川副主任に案内されて名勝古跡を歩き、東郊の長江に望む崖上に立つ天然塔を訪ねた。塔に上る。その高さに慄然とするが、「村童等の窓より脱して」屋根の上で飛び跳ねて遊ぶ。その姿を見て「支那人の冒險に於けるや、殆んど警戒といふものな」いとし、それは「?育の有無には拘はらざるに似たり」する。さらに「其險を險とせざる、比比皆然りとなす、惡ろく言はヾ、與し難きの無謀なり、止に無謀のみならず、一種の殘忍性なれども、觀察如何によりては、又一種の有?とも稱すべし、若し之を善導して、戰闘等に應用せば、其効測る可けんや」と。

 彼らは生まれながらにして怖いもの知らず。無謀であり残忍であるだけに、とてもじゃないが共に手を組むなどということはできそうにない。だが、ものは考えようだ。彼らを「善導」することができるなら、あるいは「戰爭等に應用」できるかもしれない、というのだ。俗にいうバカとハサミは使いよう、である。だが、その後の日中の歴史を振り返ってみると、日本は彼らと提携も出来なかったし、「善導」も、ましてや「戰爭等に應用」することもできなかった事実は事実として認めておきたい。要するに甘かった。

 山川は「彼等が幾んど渾球到處に跋扈し、迫害を憚らず、風土を懼れず、汲汲焉唯た利を羅するに務め、所謂?にして出で實にして還るの概あるもの、亦此特性の發現の證左と謂ふべけれ」と記し、「其險を險とせざる」の実例として華僑を挙げた。「?にして出で實にして還る」とは、裸一貫で飛び出し(「白手起家」)ながらも、「迫害を憚らず、風土を懼れず、汲汲焉唯た利を羅するに務」めた結果、やがて故郷に錦を飾る(「衣錦還郷」)というわけだ。先ずは誰もが成功するわけではない。いや、大多数が成功することなく異土に朽ち果てる。にもかかわらず、故郷から海外へと次から次へと鎖を繫げたように飛び出す。たしかに華僑とは「其險を險とせざる」がゆえに生まれた現象ということになる。

 市街の「西洋雜貨店」に並ぶ商品は、「獨佛品其大部分を占め、英米之に次ぐ、價格も其或種類のものは、遥かに本邦よりも低廉なり、本邦品は福神漬巻紙、洋傘置時計の數色に過ぎず」。これでは西洋製品に対して勝負にならない。山川は忸怩たる思いに駆られるのだが、本屋を覗いて「新譯書の多きには一驚」すると同時に喜ぶ。なんと「其十の九までが、本邦諸科學書に屬」するからだ。これらの書籍は大抵が東京で学ぶ留学生が翻訳し、上海辺りで出版したものだ。

 宜昌のような地方都市の書店でも「本邦諸科學書」からの翻訳書籍が売られていたとは。雑貨店の商品ではドイツ、フランス、イギリス、アメリカの後塵を拝する日本だったが、たとえ「濫譯誤譯」であったとしても科学技術関連書籍では西洋を圧倒していたわけだ。かくて山川は「安んぞ心に快からざるを得ん」と。当時、先進科学知識・技術が日本経由で持ち込まれていたことが判る。

 某日、山川は同行友人の陳瑄の友人が校長を務める小学校を訪問した。校長は大いに喜んで校内を案内する。小学校とは思われないほどに設備は整っていたうえに、誰もが孔子に対する尊敬の念を表す。だが、そこは「萬事形式を貴ふ支那人のこと」である。「之を以て支那?育か眞に孔子の道に遵ひ居るとは謂ふ可らず」であり、「其實は表面上の?禮に過ぎざるなり」。その証拠に、校内の案内がひとまず終わるや「改めて客廳に請ず、早や準備なりたると見えやがて卓上は杯盤を以て塞がれぬ」といった有様である。「見ず知らずの外人に對し、僅かの關係にて、直ちに杯酒の?を結ばんとする、飽くまでも交際に長ぜるにあらずや」と。

 虚礼で交際に長ず。これに日本人はコロッと騙されてしまうから・・・困る。
《QED》
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 ▼読者の声 ▼どくしゃのこえ ■READERS‘ OPINIONS ●読者之声
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(読者の声1)この一年ほど貴誌の愛読者ですが、ほかのメディアには出ない国際情勢の裏情報がわかって大変参考になるので、それなりに良いとして、国内政治に殆どコメントがありませんね。
たとえば櫻井よしこさんは野田聖子氏を「首相になるなんて政治哲学もない人に資格はない」とか「小池知事は誠実さに欠ける。小沢一郎氏を連想する」とか、じつに適確なコメントをされていて、貴誌にもそういう国内政治のコメントをしてもらいたいと思います。
  (NJ生、京都)


(宮崎正弘のコメント)小誌はあくまで「国際ニュース」ですので、国内の動きをフォローすることはあまりないですね。というより国内の政治をみていて論評に値しますか?



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(編集部から) 小誌5389号(8月8日)「読者の声1」の一部が文字化けでした。
 以下に再録します。
 「李嘉誠が中国の資産を売却して、欧米シフトしたのは余り日本のメディアが報道しない中、宮崎様のご指摘で当時知るところでしたが、彼が欧米にシフトしても、日本に来ないのは何故でしょうか。彼は恐らく日本の将来に対しても懐疑的なのではないでしょうか。私は日本の現在の政策に徹底的に欠けているのは、グランドデザインとしての、未来対策だと思います。間近の問題としての景気対策と、将来に希望を抱かせる未来へのグランドデザインが相まってこそ、人々は、希望を抱き、子作りに励み、消費も増えるのではないでしょうか。人口が減り、衰退するのが見通されている国に希望や期待を抱くでしょうか。

一定の職種で自然と女性が中心となる職業、例えば共働き家庭に必要性があるホームヘルパーの受け入れを認めるとか(既に介護分野では進行しているようですが)、単純労働者ということで、お手伝いさんなんかは対象外のようですが、ご存知の通り、香港やシンガポールなどでは、フィリピンやインドネシアから来ているアマさんが重宝されています。アマさんの場合は、特に社会問題になっているとも思えませんから、わが国で導入しても、いまヨーロッパで起こっているような問題にはならないし、結婚できないでいる、中年男子にとっても女性が増えれば、自然と結婚できるチャンスが増えるのではないでしょうか。又今のように雀の涙ほどの子供手当てではなく、第二子には200万円、第三子には300万円の結婚祝い金を支給するとかすれば、子供を生む意欲もわくのではないでしょうか。実際に経団連の中で、このアイデアを実現しようとしているグループもいるようで、大和証券等が既に実施していると聞いています。お役人的考えでは、そんな制度を導入すると、200万円ほしさに子供を生んで殺すような輩が出てくる、そうすると責任問題になるという事で、そんな発想はとんでもないという事でしょうが、その費用は所得税の対象から外し、企業の費用として認めるということにすれば、採用する企業が増えるのではないでしょうか。もちろん消費にもよい影響があると思います。
 さらに、人手不足が叫ばれている現在、公務員の民間企業への転進を促進するために、退職割増金を支給するなどの優遇措置を実施すれば、余っている(お役人は絶対余っているとは認めないでしょうが)公務員を削減すれば、財政赤字の削減につながると思います。財政赤字が叫ばれているのに、何故公務員削減が議論されないのか非常に不思議です。日本は公共体のサービス過多だと思います。
 もっと知恵を絞って日本人はやはり賢い、と外国から思わせないと、日本の存在感がますます低下するばかりだと思います。今の右寄りの人たちの議論を聞いていると、日本は素晴らしい国だ、人々は親切だし、犯罪は少ない、善意に満ち溢れている、われわれは素晴らしい国なのだから、日本独自の道を行けばよい、と信じているような気がします。それでは明治維新のときはどうだったのでしょうか。日本は劇的な変身を遂げたではありませんか。今は一見変身を強いられるような劇的な出来事はないように見えますが、実際にはインターネットの発達、経済・金融の国際化、移動の自由化等々、劇的な変化が進行しており、好むと好まざるにかかわらず、国際化の波に乗らざるを得ません。その時に、日本の国益、権益を守るためにはタフな交渉力と賢さが必要だと思います。日本語がおろそかになるから、小学校から英語を教えるのは良くない、などといっている状況ではないと思います。芯は強く、しかし柔軟に対処する事が絶対的に求められていると思います」(以上)。 
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    今日の「地道中国」もズバリ支那人は土人の集まりだと示唆している様に僕には思えるのだが。

    天然自然を渉猟跋扈は動物だろう。それだけ自然に近い存在だったのだと思えないわな。何しろ漢学者の一人だったろうから。漢文の中の支那と現実の支那の差異をどう自分の中で納められるかの葛藤だけは言外に・・・。



    妄想は拡がる。