宮崎正弘の国際ニュース・早読み <軍創立90周年で軍事パレードを挙行した習近平「主席」だが (2 | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


    内蒙古で軍事パレード?    単純に習近平が暗殺を恐れただけでは?    「チキンハート」のキンペーちゃんの肝っ玉の小ささの現れでは無いのかなぁ。


宮崎正弘メルマ
http://melma.com/backnumber_45206_6563591/
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)7月31日(月曜日)弐
        通算第5377号 
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 軍創立90周年で軍事パレードを挙行した習近平「主席」だが
  なぜ遠隔地「内蒙古自治区」の辺疆でしか出来なかったのか?
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 7月30日、中国は軍創立90周年とかの軍事パレードを内蒙古自治区の朱日和訓練基地で挙行し、陸軍12000名、戦車600台、空軍機100機が参加した。最新鋭のステルス型ジャット戦争機「殲20」や空中空輸機も登場した。

 朱日和基地は1957年、中国が南モンゴルを侵略後、主として戦車の訓練基地として開発し、当時のソ連との軍事対決に備えた。
 しかし寒冷地の台地に位置するため半年は使えず、とくに冬場はマイナス43度を記録するほどの場所であり、97年にようやくハイテク兵器の実験場として活用を再開し、2003年には公開した。

 それまで朱日和基地は存在さえ秘密となっており、軍人の多くも場所さえ知らなかった。
 いまは下記グーグルサイトで詳細が判明している。
http://earthjp.net/mercury/1508120001.html

 習近平は迷彩服に身を包み、「首長」ではなく「主席」と呼ばせてご満悦、最新鋭のミサイルなどを並べて、その「威力」をしめしたうえ、「中国は世界一流の軍隊」と自画自賛した。

 1927年8月1日に意味を持たせたいらしい。
共産党創立史なるものが、そもそも出鱈目、辻褄合わせに過ぎないが、党を正当化するための改竄が多く、たとえば共産党第一回大会の展示は上海にあるが、革命後つくられた毛沢東神話に基づく。

 人民解放軍のご先祖を、八一起義に求めるのも後知恵であり、江西省南昌でおきたゲリラの武装蜂起は失敗している。
それから90年たったからパレードをおこなうというのも、歴史が古いのです、と内外に誇示し、その支配の正統性を訴えたいのであろう。


▲軍事パレードをなぜ、内蒙古自治区の曠野で行ったのか。

 さて。今回の軍事パレードを北京を避けて、なぜ、内蒙古自治区の曠野で行ったのか。
 誰にも見られたくなかったからか?
 北京天安門広場前での閲兵が恒例行事だったが、北京以外でパレードがなされたのは、じつに三十六年ぶりであり、しかも外国メディアは呼ばず、写真は新華社の下げ渡しだった。

内蒙古での訓練理由は表面的に考えれば朱日和訓練基地は1000平方キロという宏大な敷地であり、ほかに大規模なパレードをやる場所がないからである。

 つぎに反中国派の大統領が誕生したモンゴルへの政治ショーとしての見せつけも含まれ、同時に内蒙古の地下に潜伏する南モンゴル独立運動の封じ込め、さらにはモスクワへの軍事力誇示であろう。

 しかし国際情勢を勘案すれば北朝鮮国境、あるいは吉林省や遼寧省でパレードを行ったほうが、政治的宣伝としても適切であり、米国に対しても効果的であるのに、東北三省を避け、ひたすら内蒙古高原でのパレードを演出して、習近平は軍を掌握した象徴的行事と位置づけることに懸命となった。

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 ▼読者の声 ▼どくしゃのこえ ■READERS‘ OPINIONS ●読者之声
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(読者の声1)安倍政権の起死回生策として早期解散説が散見されますが、これは非常に難しい判断になると思います。
なぜなら例えば今秋の臨時国会に解散するとして、自民党は一体どれくらい取れるでしょうか?私は最も良くて260〜70。下手すれば自民単独では過半数いかない可能性があると思っています。
 実は昨年10月半ば、安倍総理と話した際、総理は「普通なら270も取れば勝利だが、今のマスコミは必ず“負けた”と書く」と仰ってました。たとえ話のようですが、総理は当選1、2回生の質が悪く、20〜30議席くらいはすぐ減る」と言ってましたから、昨年10月の時点で、次の衆院選はそのくらい減ると見ていたと思います。
 その後の展開は恐らく総理の予想をはるかに上回っていることは皆さんもご承知の通りです。
こんな状況で乾坤一擲の勝負に出ると言っても、どれくらい負けるか分からない勝負に出ることはできません。
民進党の体たらくを見て、今だという人もいますが、野党統一候補や都民ファーストが国政に進出する可能性を考えたら、現状で自民党が“勝利”する可能性はほぼないと言っていいのではないでしょうか?
 もちろん勝負は水ものですから、やってみなければ分かりませんが、自民党の減り方によっては政権は維持出来ても、憲法改正に必要な3分の2を維持できな可能性が大きいことは十分考慮しなければなりません。
総理周辺は本来なら、憲法改正の国民投票を来年12月とし、衆院選も任期満了選挙にすればダブル選になると考えていたようです。しかし憲法改正は総理が当初考えていたスケジュールでいくことは大変難しくなりました。
 今後は経済、外交政策を淡々と進め、実績を積む以外に支持率回復の道はないと思います。景気をもう少し良くして、国民に実感してもらう必要があります。
こういう時は奇をてらったりすると、逆に政権の命取りになります。ちなみに「消費税5%説」は私も1年程度の時限立法として提案しています。ただ財務省は死に物狂いで反対してくるでしょうから、実現性は低いと思います。
(加藤清隆)=



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(読者の声2)貴誌前号にでた、加藤康男氏の『靖国の馬』の書評ですが、昭和16年に封切られた映画『馬』。監督は山本嘉次郎ですが、「あれはクロさん(黒澤明チーフ助監督)の映画よ」と、主演高峰秀子はいっています。
 ラストシーン、カメラが路傍から仰角に見上げているなかを、陸軍に買い上げられた馬たちのはてしなく長大な列がとおりすぎていきます。もの言わぬ馬たちが国民の悲劇/時代の悲壮感を、みごとに描きます。傑作です。
「戦火の馬」2012年 で、スピルバーグ監督が冒頭に同じ馬市を描いたのは、黒澤監督へのオマージュでしょう。ユーチューブで見られるはず。
(石川県、三猫匹)



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(読者の声3)貴誌書評『靖国の馬』で思いおこすことがありました。
 私が子供の頃、今から65年前、親戚の家はどこの家も馬を飼っていて、先ず玄関を開けると馬の顔が。
子供でしたから、何故家の中に、玄関入って直ぐに馬が居るのだろうと、不思議でしたが、書評を読んで、『天皇の御分身』なるほど、宮崎先生が、馬の世話を書いておられて、親戚は、一つ屋根の下に馬と暮して、排泄物はどうしたのかしら?臭くなかったのかしら?
牛小屋は、親戚のどの家も外にあったなぁ〜。
 馬と牛の扱いの違いは?
日本人の生活様式の違いを書評から痛感しています
      (深澤文子)



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(読者の声4)7月29日の「通州事件80周年 記憶と慰霊の国民集会」は、靖国神社の慰霊祭に150人、有楽町新国際ビルでの国民集会に300人という多数の参加者のもと、大きな盛り上がりをみせました。
非業の死を遂げた犠牲者の皆様の御霊を慰めることに少しでも役立てば、本当にうれしく存じます。参加・協力をいただいた皆様に心より感謝致します。
この報告ではまず、事務局長の宮崎正弘氏がメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成29年(2017)7月30日(日曜日)通算第5375号に掲載した概要を転載(編集部註。A=省略、小誌前号を参照)し、次に少し裏話も含めて、この集会に至る出来事の流れを書いてみたいと思います。

【B 国民集会準備の経過と開催の意義】
 事件80周年のこの日、どうしてこのような国民集会を開くことができたのか。この開催に至るまでの出来事の因果関係を辿ると、いろいろなことが思い出され、重要なことが見えてくる。終了後の懇親会の席で、ゲストの加納満智子様と奈良保男様、そして通州基金の役員の松林利一氏と、たまたま近くの席にすわった。きかれるままに話しているうち、いろいろなことが思い出された。それで、ここにその一端を書いてみようと思う。

 まず、第一に、どうして私が通州事件に着目したかという事情である。
 それについて言うと、すべては紫色の一冊の本との出合いから始まったと言ってよい。 いま、正確な日付けを特定することはできないが、美し国の会議室で開催された、私が担当する講座の折り、入り口で、元つくる会の事務局におられたI氏から勧められたのが、その本だった。『天皇さまが泣いてござった』という不思議なタイトルがついており、著者は「しらべ かんが」という、これも何やら神秘的な名前の方であった。私家版だったが、342ページもある立派な本で、1800円の定価がついていた。
 この本は佐賀県の基山町にある因通寺というお寺の住職・調寛雅氏が、連続講話をされた内容を、語り口のままに掲載したものである。そのテーマは、日本人は大東亜戦争時、いかに不当で残虐な殺され方をしたか、という「日本人の被害の歴史」だった。そして、そのお話の中に、通州事件の現場目撃者である佐々木テンさんの証言を書き取った記録が入っていたのである。
 私は一読して仰天した。通州事件は断片的には知っていたが、事件の凶行が行われる現場をリアルタイムで見ていた日本人がいたとは驚きであった。しかも、そこで語られた内容は、とても口にすることもできないようなものだった。
 私はとにかく、一度基山町の因通寺を訪問しようと思った。実現したのは、2年前の12月15日。それから私は何とかこの証言を復刊して世に出そうと熱望した。それが実現したのが、昨年の7月29日である。その本、ブックレットで自由社から出版した『通州事件 目撃者の証言』は、1万部以上売れている。
 この本の中に、青竜刀で惨殺された老婆が絶命する間際の声を佐々木テンさんが聞き取ったエピソードが出てくる。今回の集会の冒頭でビデオが上映されたが、その中で、プロの女性が読む場面があり、この老婆の声が再現された。「くやしい。仇をとって欲しい」と老婆は言い、息子(多分)の名前を呼び、最後に何と南無阿弥陀仏と念仏を唱えたのだ。
 その念仏が耳から離れず、日本に帰国したテンさんは、お寺に通うようになった。そして、大分の説教所で調師と巡りあうのである。このお坊さんなら、自分を変人扱いせずに受け止めてくれるに違いないと思って、半世紀にわたって秘してきた身の上話をする決断をしたのであった。因果関係を図示すればこうなる。

 断末魔の老婆の念仏→テンさんがお寺に熱心に通う→調師と出会う→調師が著書に書く →私がその著書に接する→ブックレットとして証言の全文を出版する

このように書いてみると、青竜刀で斬り殺された老婆の無念の思いがテンさんを動かし、それが調師に伝えられ、私がそれを仲介して今の時点で読めるようにした、ということになる。もとをたぐれば、老婆の無念の思いがそれに続く人々を動かし、皆さんの手に渡ったと言える。因果関係とは出来事の系列を示すものだが、そこを貫いているのは、人の強い「思い」なのである。
 但し、この因果系列の中には、調師→私 という向きだけでなく、 私→調師 という逆向きのベクトルも存在することを付け加えておこう。というのは、調師の原稿は書かれてから10年近く出版社が見つからないままお蔵入りしていたのだが、平成9年(1997年)の11月に、自費出版の形で発行された。どうしてこのような形での出版を決断したかというと、そこには、教科書問題、歴史問題が世上論じられるようになった変化が影響していると推定されるのである。実際、同書には、私の名前を出して書いて下さっている箇所もある。だから、お目にかかる機会のなかった調師とは、この件では相互に影響し合っていることになる。平成9年は、まさにつくる会が創立された年である。つくる会がいかに社会の雰囲気を変える一石になったか、このことでも看て取ることができる。
 このような、人と人との出会いの話を申し上げたら、奈良氏と加納氏は、「縁ですね」とおっしゃった。「縁」のほうが日本的であり、「因果関係」よりもしっくりくるかもしれない。
  (藤岡信勝)
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1607回】     
  ――「支那の官吏は賄賂を取る・・・金なくば訴訟するな」――(廣島8)
   廣島高等師範學校『滿韓修學旅行記念録』(非賣品 明治40年)

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 じつは「支那は(中略)商業上に於ても口上及帳簿の一筆は非常の効力ありて擔保証文等は殆ど之を要せず。全く大人信用を以て法律的價値あるものとなせり。然るに我國の商人等が此等支那人の間に信用を失ひつゝあるは将來の爲に歎ずるべきなり」というのも、将来の「邦商」への警句だろう。

  満州における漢満の関係について、かつて武力・財力を兼ね備えていた満州旗人だったが、「今は旗人の武力も亦衰へたれば」、名義上は役職に就いてはいるものの、「實力更に之に伴はず所謂?官を有して遊怠にふける所の民と成り終れり」。これに対し漢人は官民双方で満州を押さえている。「之を要するに滿は漸く漢を壓ふること能はず之れとともに兩民族雜居近接することゝなり兩者の關係も亦從て一變するに至らむ」ということ。

  とどのつまり「(満州)旗人は大概地主にして無職なり商は之を營むといへども其數少し」。これに対し漢人は「主として商業上の勢力を獨占す爲に實力は漢に歸し旗は勢日々に減ずる傾あるなり」と。満州とはいうものの、政治・経済両面において漢人に押さえられていた。すでに満州は満のものではなく、ほぼ漢に制圧されていたのであった。

  「地理?史部生徒記事」の後に「數物化學部生徒記事」「博物學部生徒記事」「豫科生徒記事」が置かれ、教授たちによる「滿洲史談」「滿洲の?育」「昌國紀行」、さらに「通過目録」「韓國經支隊生徒記事」などが続くが、特に「?授 文學士 春山作樹」の「滿洲の?育」を取り上げておきたい。

 春山は「滿洲は人種競爭の舞臺なり」と書き出し、人種競争は過去も現在も、そして将来においてもそうであろう。人種競争は「清國の開發誘導を以て任とする我國民が實力を以て自ら解決すべき問題なり」。だから満州で活動している「日露滿漢」の「人種的勢力」、わけても「滿漢」の勢力に意を注ぐ必要がある。じつは彼らは「外日露に對しては一致和合して之に當ると雖も内にありては軋轢止むことなし」である。つまり満族と漢族とは外敵である日本とロシアに対しては一致協力して対抗するものの、互いが互いを認めてはいない。後に満州国建国に際し掲げられた五族共和の構想は、やはり日本人的情緒に基づく理想に過ぎたということだろうか。

 「民族發展の基礎」「富國強兵」「易風易俗」は教育にあり、それゆえ「滿洲の?育が滿洲将來の運命」を左右するとの考えに基づき、春山は「露人の?育事業」に着目する。

 ロシアの満州経営は「其計劃遠大にして、注意周密」であることは「旅順の築城、大連の築港」もさることながら、やはり「?育事業に於て認むる」べきだ。東洋への飛躍という「彼得大帝以來の宿望を滿さんとし」、その準備として大連に高等商業学校を設立し、種々の特典を与え全土から英才を招き、「滿洲を經營する者を滿洲に於て?養するは策の最も得たるもの」だ。それというのも学生は「學校の内外に於ける日常生活の間に其地の言語、風俗、人情及經濟的の事情に習熟」できるからだ。実地教育の利益は「?室内文字の講習に勝ること萬々」であり、これこそが「最有効なる直接?授なり」。

 「露人の計劃は戰敗の爲に頓挫したるが、彼等の用意周到なりしは之によりて察するを得べし」と綴る一方で、日本では東亜同文会が「書院を東京及上海に設け」、日本の学生を上海で、「支那學生は之を東京に迎ふるは是が爲なり」とする。日本もロシアに負けずソフトパワーを駆使したことになる。また「露人は戰爭前滿洲各地に學校を設け、清人に露語を?授し、一方には盛に?白を散じて彼等を懐柔せんと努めたるが如し」。アメとムチで人心収攬を図ったゆえに、「清人にして露語に通ずる者隨處に多きを發見すべし」。

 日露戦争は、「滿漢」の両勢力をめぐるソフトパワーの戦でもあったようだ。
《QED》
  ▽□◎ひ▽□◎い□▽◎ず□◇◎み▽□◎  
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    軍馬とは直接関係ないが。

    父の実家は明治44年に帯広の郊外に宮城県白石から移住した開拓農家。五歳の折、従兄(17歳上≒腹違いの兄と同年)の結婚式で雄蝶を勤めた。数キロ離れた所に父の末弟の家。本家との間は馬で行き来指定た。農耕馬はゴツい、只々ゴツイ。今から思うと、バンエイ競馬の馬と同種だったかな??

    岩手の曲がり屋をガッコで習ったのは小学校に上がってから。そんな家じゃ無かったけど、オレ知ってらあ!

    この和式祝言の片割れ(雌蝶)が5歳ほど上の従姉。のちに「中川」の土建屋に嫁に行ったのだが、ヒョットしてあの中川と縁戚と思ったのは正一氏が自殺した後だったのは、単なる阿呆・馬鹿だったなあ。




    「五族共和」スローガン。

    目標を掲げ、努力し尽くす。それが日本民族だった。樋泉先生、何か勘違いじゃないのではと思った。世の中は移民させなきゃならない程の人口増。「満蒙開拓団」は中南米よりマシってなもんだったろうと思うんだが。 

    だからこその関東軍の駐屯に繋がったのではないか。邦人保護を掲げたのかは知らないが・・・。

    最近メキシコの一つの州で日本人駐在員が増え、犯罪率が低下しつつ有るとか。優れた民族とは言わないが、ヒスパニックが単なる劣等民族でしかない事を証明しているそうだ。自分たちの無様さを認識していない事には何だかなぁ。


    満州帝国が如何なる組織で国家運営していたかを知らないし、知る気もない。90年の昔の満州も現在のメキシコもそう変わりないじゃないのかなあ。そう思えないのなら、樋泉先生「知道中国」のごとく展開はどうなるん。