国父と尊敬されている孫文の正体    6月1日(水) - 中韓を知りすぎた男 | Hideoutのブログ

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 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


 シナほど胡散臭い国は無いのですね。その代表の一人が孫文なんです。漢民族なんて遠い昔に滅亡してしまったのに、猪八戒を思わせる習近平が「中華の夢」なんて抜かすのは、単なる馬鹿。一国を率いる人物で彼ほど教養の無い人間も珍しい。彼は小学校も満足に卒業していないと、数日前に知ってしまった。道理で阿呆な事ばかり抜かしているのだ。


中韓を知りすぎた男
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2016/06/01 08:15


台湾で蔡英文主席が大14代総統に就任し、その際「国父・孫文」の肖像を前に就任を宣誓しました。と記述されていますが、なぜ台湾でも中国でも孫文を国父として尊敬されているのか、不思議です。


はっきり言います。孫文は権力欲の塊であり,なをかつ天下の詐欺師です。台湾人も中国人たちも、あたかも聖人君子のごとく尊敬されている孫文の政治思想から彼の正体を探ってみました。


まずある本から孫文の生涯を列記します。


「清朝末期の1895年。孫文は人々を貧困から救うため、広州で蜂起するが失敗。その後、華僑や亡命先の日本で宮崎滔天、犬養毅らの支持を得て、1911年
辛亥革命で勝利を収める。中華民国発足の際には臨時大統領に就任するも、すぐに袁世凱に地位を奪われ、再び日本に亡命。 仲間の裏切りに遭いながら
も国民党を改組し、革命のさなかの1925年ガンで倒れる」 と書いてあります。


上記の紹介文で 「孫文は人々を貧困から救うため」 と紹介されていますが、本気でそのように思っていたのだろうか?孫文の政治思想を読めば彼の上から目線の傲慢さは、中国人を幸せにするとはとても思えない。


孫文の革命思想は「三民主義」と称される「民族主義、民権主義、民生主義です。孫文の主張を読めば儒教思想と西欧的な民主思想の折衷ですが本音は中国的価値観が透けてみえます。


彼は中国的本音を隠して諸外国からの支援を得るためにだけに、デモクラシーという概念と言葉を巧みに利用して革命家の衣を着ています。


彼の正体が見えた主張の一節に「天下を人民のものにするのは人民ではない、人民を皇帝にするのは人民ではない。それを実現するのは選ばれたエリートの使命である」と述べています。


そして「エリートが人民のための立派な国家を建設してそれを人民に進呈するのだ。立派な国家になるまで、国家の建設過程に人民は参加せず、ただ有能
なエリートに一任される」と主張しています。


つまり立派な国家になるまで、国家の建設過程に人民は参加させず、有能なエリートによって組織された「革命党」だけということになり、いわゆる権力
を握った者だけで国を支配して愚民な人民は口を出すなということです。


しかしいったん権力を握れば彼らは決して人民に国家を移譲するなど有り得ない。これはまさしく現在中国を支配している共産党一党独裁国家そのものです。


それではなぜ人民は政治に参加してはならないのか、それは中国人民は無能だからと孫文はハッキリ本音を言っています。


孫文はこの本心を隠すために言葉を巧みに操っています。「人民は能力によって三分割される。新たなものを創造出来る有能なエリートが「先知先覚」、その教えを十分に理解できるのが「後知後覚」、ただいわれるままに動く無能な大衆が「不知不覚」と区別しています。


彼は演説で常に「権力は人民にある」といいながら、実際には人民から権力を完全に剥奪する思考です。


孫文は演説に集まった多くの人々に対して、自分は無能な「不知不覚」だとは誰も思わせない、自分は孫文の教えを理解できる「後知後覚」だと思わせるような巧みな演説をしています。


しかし孫文の本心は自分以外は全て無能な「不知不覚」だと思っています。瀕死の中国を救うのは中国広しといえども、われ以外誰がおるのか、「予は人民の先覚者なり」という傲慢さは歴代皇帝と何ら変わりません。


中国の最大の悲劇は、権力者にとって人民とは全て愚民で支配者の命令に背くものは生きていく資格がないと思っていることです。未熟な存在はいつも民であると思っている中国で、支配者こそが未熟であると思わないところが中国最大の悲劇です。


孫文の巧みなへ理屈論を読んでいますと彼の本心は結局近代的な皇帝になりたかったのではないかと思われます。近代的という言葉と皇帝は矛盾しますが、つまり天下を取るために「革命」という看板を掲げて中国のオーナーになりたかった。


彼は13歳でハワイに渡りキリスト教系の学校に入り、そこで西洋文明や西洋の思想にふれ、帰国後医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、日清戦争の終結後に広州で武装蜂起を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。


後に1年半にも及ぶ世界遊説を行い、明治38年に日本に着き、革命の根拠地にしました。彼は革命資金を集めるためにハワイのマウイ島生まれにしてアメリカ国籍を収得しています。


世界遊説先での彼の主張は「300年中国を支配し続けた腐敗堕落した清の王朝がある限り、中国近代化や発展はない。元々の民族である漢民族が立ち上がり清朝を倒すため革命を起こさなければならない」と演説しています。


つまり「長い間、中国は満州民族である清の植民地されている。腐敗した満州民族を追い出すために中国漢民族を支援して欲しい」ということです。


もし中国の歴史を知っているなら 「何を寝言を言うか」 と一笑されるところですが、ほとんどの人々は信じてしまった。特に多くの善意の日本人は彼の「革命」という言葉に酔って支援をしました。


彼の主張している漢民族は後漢末期の戦乱によりほぼ絶滅し、北方から侵入してきた遊牧民族に取って代わられています。日本人が大好きな三国志時代の戦乱で人口が極端に減り、後漢を滅ぼした魏王朝は大量の兵士を北方より集めて「蜀」を滅ぼしています。そして司馬炎が「魏」を内部から乗っ取り「晋」を建国して「呉」を滅ぼしています。


日本に縁の深い「随」や「唐」はこうして侵入してきた遊牧民が作ったいわば異民族の中国です。その後も中国は人種も国土の大きさも、さまざま変化しています。そしてついにはモンゴル人の帝国が南宋までも併合して中国全土を統一しました。孫文が主張するような純粋な漢民族などどこにもいない。


孫文はハワイと香港に革命団体・興中会をつくり1895年、1900年と二度にわたり、武装蜂起を企てたが、いずれも失敗します。そして1911年10月辛亥革命が起こります。しかし孫文は当時アメリカにいました。


革命を起こした人たちの間で内紛が起こり、政府はどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかでもめていました。当時から革命家として世界的に有名な孫文が12月に上海に帰着すると革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立しました。


孫文は演説家であり、煽動家です。話す際には興奮して身振り手振りが大きくなり、熱狂的な拍手喝采をうけました。また会場には彼の部下が数人いて彼が会場に入ると、入場者全体を立ち上がらせて、孫先生と絶叫させるように演出していました。


辛亥革命は古代より続いた君主政治を終わらせ、アジアでも初の共和制国家を樹立し、中国歴史には画期的な革命と世界的に評価されています。その名誉を孫文は独り占めをしたのです。


孫文は大総統就任演説で 「新国家体制は漢満蒙回蔵諸国で構成する」 と言い出しました。

つまり満洲もモンゴルもウイグル、チベットも台湾もみんな俺たちのものだと言ったのです。この厚かましさと強欲ぶりは歴代皇帝となんら変わりません。

孫文の後の蒋介石、さらに毛沢東までこのインチキ話を受け継いでいます。彼は革命生活40年のうち、3分の一は日本で暮らしています。その間彼は植民地支配を脱する漢族の純粋な独立運動だといって、無邪気な日本の善意にたかり、多くの人たちから借金してそれを踏み倒しても恥じず、また日本女
性との間に子供をもうけたりもしていました。

今や孫文は中国でも台湾でも「国父」と言って尊敬され、海峡両岸で民族の英雄として高い評価を与えられています。

しかし本当に孫文は中国・台湾から「国父」と崇められるほどの値打ちのある人物なのか?本当に孫文は中国を変えたのだろうか?多くの疑問が残ります。
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 法螺吹き、詐欺師の孫文なんですね。

 神戸に記念館が有るらしいが、行く気も無いから、どうでもいいか。



 シナ≒大朝鮮とネットの中では揶揄する。宗主国とその配下だから、似るのも当り前なんですね。