この筆者は祖国を捨てるのだろうか? それとも・・・?
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42621?display=b
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2015/02/19
日本では2014年の世相を表す漢字として「税」が選ばれた。もしも中国で2014年の世相を表す漢字を選ぶとすれば、おそらく「腐」になるだろう。
中国では2014年の1年間で、大臣・副大臣級の共産党幹部が60人も摘発された。中国の若者たちはネット上で「腐敗していない共産党幹部がいるだろうか」と書き込んでいる。「腐敗幹部による腐敗幹部の摘発に何の意味があるのか」という辛辣な書き込みもあった。しかし、そうはいっても、腐敗幹部を摘発しないよりは摘発したほうがいいだろう。
共産党中央委員会政治局前常務委員の周永康氏が腐敗、姦通、機密漏えいなどの罪に問われ逮捕されてから、ネット上では習近平国家主席を支持する書き込みが増えている。だが習近平氏の反腐敗キャンペーンには大きな落とし穴がある。それは、腐敗して罪を犯した幹部を摘発しているが、その幹部がなぜ腐敗したかという総括がない点だ。共産党幹部が今後腐敗しなくなるような制度作りはなされていないのである。
習近平政権がこの2年にわたって繰り広げてきた反腐敗キャンペーンは、日本の年末の大掃除のような“恒例行事”であり、効果は一時的と見る向きがある。また、反腐敗キャンペーンは権力闘争の一環に過ぎず、習近平氏が政敵を倒すために展開しているだけだという見方もある。これらの見方はいずれも一理ある。
■ 小平路線を終わらせる習近平政権
ここで改めて習近平政権誕生の意味を検証してみよう。筆者は、1つの時代の終焉を象徴するものと捉えている。
すなわち、 小平の時代が習近平政権の誕生で終わったのである。 小平路線は35年にわたって奇跡的な経済高成長を成し遂げたが、行き詰まっているのも明白である。経済こそ成長したが、環境汚染が深刻化し、所得格差も極端に拡大してしまった。政治改革がまったく着手されなかったため、共産党幹部の腐敗も空前絶後と言われるほど深刻化している。
習近平国家主席にとって、 小平路線を継承する選択肢はもはやない。習近平政権の誕生は中国では新たな時代が始まったことを意味するものと言えるかもしれない。つまり、成長一辺倒よりも公平、公正、平等を追求する時代になるということだ。
習近平氏の改革で新年早々から予想外の展開を見せているのは、国有企業経営者の年収の上限を制限する通達が出されたことである。国有企業経営者の年収は従業員平均の8倍以内に抑えなければならない、その上、すべて公開する、というものだ。決して100点満点の改革ではないが、一歩前進といったところである。
むろん、研究者の間では習近平氏がきちんと改革を遂行できるかについて疑問視する声が少なくない。一部の研究者は習近平氏のカリスマ性の弱さを問題視している。別の研究グループは国家主席への権力集中を懸念している。
こうした研究はまったく無意味とは言わないが、いかなる政治家も、改革して何も得られないのであれば改革を遂げようとはしない。必要性があり、成果が期待できるから改革に挑むのである。
35年前、 小平も改革しなくて済むならば改革を断行しなかっただろう。ただ、当時、毛沢東時代末期、中国経済は破綻寸前にまで陥っていた。実権を握った 小平は改革を進めなければ、中国が崩壊する恐れがあった。
この文脈で言えば、習近平国家主席にとっても改革を先送りする選択肢はもはやない。問題はいかに改革を進めるかである。ここで問われているのは習近平氏の描く国家像である。
■民族主義、毛沢東主義、資本主義を束ねられるか
専制政治の特徴は、民主主義の合議制で物事が決まるのではなく、政治指導者の権威がものを言うことである。胡錦濤政権の10年間、胡主席の権威は予想以上に弱体化してしまった。その結果、ほとんどの改革が先送りされた。
その負の遺産を引き継いだ習近平国家主席は同じ轍を踏まないように、毛沢東主義に回帰し、反腐敗キャンペーンを展開するなかで自らの権威を急速に強化しようとしている。毛沢東主義は強権政治が特徴である。
習近平氏は毛沢東時代の経済運営の失敗を実際に体験したので、統制経済の実施はあり得ない。2年前にも習近平氏は市場メカニズムの機能を強化するための改革を推進すると強調した。経済的には資本主義のやり方を受け入れ、それを一段と強化する考えのようだ。
さらに、中国社会において充満している民衆の不満と怒りをガス抜きしなければ、社会はますます不安定化する。では、どのようにして中国社会の不満をガス抜きしていくのだろうか。
即効性のあるやり方はナショナリズムを煽る民族主義である。このやり方は綱渡りのような危険な賭けだが、それ以外の良い処置法は見つかっていない。
これまでの2年間を振り返ると、習近平国家主席は就任当初から「中国の夢」を国民に唱え、中華民族の復興を提唱してきた。これはまさに民族主義の鼓吹(こすい)である。そして、2014年、習近平氏の一存で国内の有名な左派芸能人たちが集められ「文芸座談会」が開かれた。その座談会で習近平氏は、「かつての毛沢東を見習って、いかなる文芸活動も社会主義に貢献しなければならない」という談話を発表した。その座談会に参加した画家の1人は即興で漢詩を作成した。その漢詩のなかで習近平氏を皇帝に例えた。これこそ毛沢東主義の復活である。
一方で経済運営を見ると、上海の自由貿易実験区で行われた改革のように規制緩和を進め、民営企業の市場参入のハードルを引き下げると言われている。これによって、胡錦濤政権のときに進んだ「国進民退」(国有企業が前進し、民営企業が後退する)に歯止めがかけられると期待されている。
しかし、これらの民族主義、毛沢東主義、資本主義という、まったく異なる方向へ向かっているベクトルを、習近平国家主席は同じ方向へ向かわせることができるのだろうか。
習近平政権の誕生で中国社会の流れは確かに 小平の時代に終止符を打った。しかし新たな時代の方向性はまだ不透明なままである。
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筆者プロフィール
柯 隆 Ka Ryu
富士通総研 経済研究所主席研究員。中国南京市生まれ。1986年南京金陵科技大学卒業。92年愛知大学法経学部卒業、94年名古屋大学大学院経済学研究科修士課程修了。長銀総合研究所を経て富士通総研経済研究所の主任
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日本に来て、住み着く支那人の精神構造が良く分からない? 文宗州みたいな変な支那陣もいるからなぁ。最も石平氏のように日本民族と日本の先進性を認めて、帰化する人もいる。又国籍ロンダリングする卑劣な人間達もいる。何とも不思議なと言うか、利己的な人間達ではないだろうか?
支那の歴史をチョットかじった人達は専制政治で無かった時代が有っただろうかと思うのだが?
又「民族主義、毛沢東主義、資本主義」を持ち出すほどの事では無いと思うが。所詮「虎(共産党)の威を借る狐(習近平)」では? 単に専制政治を握り続ける為にアレコレ画策しているだけでは?
歴史に鑑みるに、権力を握った支那人(個人、集団に関わらず)が民衆の権利なり、幸せを考えた施策を取った事が有っただろうか?
カリスマ性? あとの時代が位置付けただけでは? 小平だって狐ではなかったか? 雑多な人種の混じり合った支那人の限界は見えていると僕は思いますが、貴方はどう思いますか?
民族というカテゴリーにさえ当て嵌まらないのではと、最近思い始めています。搾取し、権力を握った者だけが繁栄するなんてのが続く支那人達に民族という言葉すら、虚しいことでは?
文中にも有るが、環境汚染、民衆の不満その他諸々が高まった時代を、繰り返して来たのが、支那の歴史ではないか。
言語単位なのか、古くから続く単位なのかは分からないが、民衆の総意が纏め易くはないだろうか?
環境汚染を輸出する国は終りにして欲しいものです!