蘇る、琉球王国の真の姿 - 親子チョコ(親子で、ちょこっと。。。) | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


  沖縄に関心を持ちませんか? 抜粋してますので、詳細はサイトで!


親子チョコさんのサイト
http://oyakochoco.blog.fc2.com/blog-entry-673.html
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抜粋です

琉球王国時代の悪弊について、このように書かれています。

『 琉球王国とはどのような社会であったのか。琉球社会における最も特徴的な制度が地割制(じわりせい)である。

…地割制とは、農民の土地私有を禁止し、集落単位で課税する制度である。農民は…各集落間の往来を禁止され、集落内で目立つ行動をとる者は村八分にされ、野垂れ死にに追いやられた。…要するに、地割制とは、毛沢東やポル・ポトが試みて無惨に失敗した原始共産主義そのものであった。

 明治政府は…この地割制を廃止するが、その後も集落内には死罪を含む掟や、多集落居住者との結婚時には両集落青年団への罰金を支払うという掟が残り、このような悪弊は終戦まで続いた。

 このため、結婚も集落内、とりわけ近親婚が慣習化していたのだ。その結果、戦後に至っても遺伝子異常による奇形や精神異常が多発していた… 』

これらの悪弊は、米軍が収容所に、住民をごちゃまぜにした結果、漸く解消されました。

また、このような記述もあります。

『 「沖縄学の祖」といわれる民俗学者・伊波普猷(いはふゆう)は、その著「古琉球」において、沖縄人の最大の欠点は事大主義にあるとして、恩を忘れ易いとまで表現している…なお伊波は「廃藩置県は沖縄住民にとっては奴隷制からの解放であった」とさえ語っている…』

そして、あのペリーも、このように記録を残しています。

『 (かつての琉球王国における)地割制下の農民の疲弊ははなはだしく、1853年(嘉永6)、琉球に来航した米国・ペリー提督…は、その惨状に胸を痛め、詳細な記録を残している… ペリーは

 「メキシコの労働者を省けば、これほどまでに不幸な生活をしている人民を世界に見たことがない」
 「琉球住民を専制的法律の圧迫から救いたい」
 
 と、琉球農民の惨状に同情し、それが王国自体の統治制度に由来することを指摘している。
 
 ペリーは琉球の階級社会をこう表現する。

 「最下級の人民(農民)はまったくの奴隷であって、公民権もなくまた個人的自由もない。そして貴族や学者のどんな命令にも従わなければならない。それゆえに貴族階級は全く怠惰である。」 』

『 徴税役人の腐敗についてもペリー(提督)はこう述べている。

 「農地は政府(王府)が所有し、しかもその監督人は…収穫の大部分を横領してしまう。…真の耕作者は収穫の10分の2しか手に入らず、残りの10分の6は地主すなわち政府に納め入れ、残りのうち10分の2は監督人が収穫物取り立ての賃金としてもらい受けることになっている。…従って農民の働く奮発心も起こらず、ただ鞭をみて仕方なく労働する、という調子であった。

 そして、王国内には探偵政治が横行し、スパイが至る所を監視していた。」

…「貴族階級について改革すべき点を下級の者に話しても、外観にも共鳴の色が現れなかった」

…王府は王国内の不穏な動きには即座に弾圧を加えるからだ。』

このように民が苦しめられた暗黒の時代、それが「琉球王国時代」なのです。

そして、日本国の一部となり、その後、不本意であったにせよ、

米軍統治時代を経て、やっと基礎が出来上がったのが沖縄県です。
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  僕も琉球王朝は何だったのか、全く知りませんでした。前知事仲井真氏が支那系統の方だと知ったのも、先の知事選挙直前でした。調べる気もありませんでしたから。

  支那の歴代王朝に朝貢していたのは支那系の王朝だったからなのですね。

  支那人の支配形態は半奴隷でしか有り得なかったのですね。大陸でも20世紀まで半奴隷だったのも、当然のことだったのか。

  台湾も日本統治が始まる迄は、似た様な、又はそれ以下の状態だったのも納得です。

  左翼が入り込んだ沖縄を何とかをしなければ、いけないのかもしれません!