こんばんは。

 

いつもは 「です ます調」で記載するが今回は別件とする

 

配信するアルバムタイトルは『Don't Worry Good Sleeping』

この曲は私が生まれて 初めて作詞・作曲した曲である。

 

固定観念を持たれたくない理由から生年月日を公式非公開

にしているので、私の本当の年齢は分かりにくいかもだが

ご了解いただきたい。

 

新アルバムのジャケット表紙

 

 

楽曲収録タイトル名

 

1.Red Wing(Xros ver) 

2.(Don't Worry Good Sleeping〜途切れそうな melody〜 (Xros ver))

3.MARY(in studio246 Live)

4 X

5.かけがえのない歌

6.SPEED JANUKEY(Xros ver)

7. END OF LIFE(Xros ver)

8.夢の終焉

9.世界の終わりが来ても…

10.Tactits

11.甘いCANDY

12.Lost Memories

13.口唇

14.instinct

15.take you any way you want

16.Don't Worry Good Sleeping(sea ver)

 

アーティスト写真

 

音楽や音楽活動の経歴や芸能へ進もうと考えていた事を

今まで一度も語って来なかった。

 

そこで今回は連載企画としていつもより長尺になるが

公に明記することにする。

 

私が生まれて初めてロックに目覚めたのは

 

B’zが1990年発売の5thシングル『太陽のKomachi Angel

ですぐブレイクする以前の3rd『BREAK THROUGH(1990年)』

を友達から借りて聴いて、稲葉さんの声と松本さんの超技巧な

ギターサウンドに衝撃を受けてからである。

 

 

 

 

そこから、独学でエアロスミスのスティーブン・タイラーの声に

憧れ、高音のシャウトなど練習した。ガンズ・アンド・ローゼス

のアクセルのシャウトにも憧れた。

 

今でも親交のある3rdアルバム「Be-BⅢ」で

元ガンズ・アンド・ローゼスの「トレーシー・ガンズ」ともレコーディング

したファンであるBe-B(和泉容)氏のCDもよく聴いた。(Be-B氏とのことは、著書『願いはかニャう!』に

記載しているのでご興味のある方は是非読んでみてほしい)

 

 

 

 

 

 

 

 

B'z、99年の『Brotherhood』(1999年)、

ELEVEN』(2000年)、『GREEN』(2002年)は

特にB'Zがヘヴィハードロックな曲作りに傾倒した

黄金期であり、実際に3本のライブに参戦した。最高だった。

 

 

その後、あらゆるジャンルの洋楽、邦楽を聞きこみながら

看護師として働きながら、音楽活動を行っていた。

 

 

 

時間列は乱れるが、2008年のxJapan再結成

 

東京ドーム連続三日間のライブにも参戦。

 

 

 

 

丁度、当時 1999年頃 大きな失恋を経験したこともあり

『自分自身を変革したい!!』と強く思うようになった頃であった

 

看護師にはなったが、その頃には「看護で一生食って行こう!」

手に職あるから…就職は困らないみたいな気持ちは消えていた…。

だからといって仕事は手を抜いたりしなかったし

患者さんと家族に寄り添うことをいつも心がけていた。

これは夜勤でもらった家族からの伝言。亡くなられてしまったけれど…

 

『沢山の患者の生死を看取り、人生はあっという間に過ぎてしまう

 

ぼーっとしてる時間なんてない』と本気で思った。

 

 

明日死ぬかもしれないのだから…

 

こんな切り詰めた尖りまくった神経だった。

 

ロックで商業的にも認められ、音楽で食べていく…。

 

本気でメンバーと話し合って仕事が終わった後も午前様まで

ミーティングなどザラだった。

 

 

看護の道は断ち切ったのだから、『背水の陣』である。

 

当時はインターネットもあまり普及してなく

どちらかというと、通信マニアや専門オタが好んで愛用

する時代

 

当然、音楽はCDをレンタルしてMD、カセットにダビングして聴く

或いは、好きなアーティストのCDは購入する時代背景にあった。

 

90年代ほどの爆発力はないにしろ、CDも充分に売れていた時代

 

もちろん、『サブスク、ユーチューブ』などは存在しない。

 

ここでバンドの話を軽く

 

私が所属したロックバンドは『Xros』といい、名付けたのは

ギターのメンバーIANである。

 

今回のアルバムの最後に、(Xros ver)と明記されたものは

レコード会社に送るデモテープ用に制作していた音源である。

 

ここまで記載すると、本格的に音楽の道に進もうとしていたことが

分かると思う。

 

そう私は100曲歌のストックがあったのだ。

 

きっとうまくいく この何の保証も根拠の塊も

ないのに若気の至りゆえか、愚かにもそう感じていた。

 

もう遥か昔一一一一そう時間にすれば……

 

20数年前、確かに感じてた

あの頃、8trickのCDMTRで
100曲作ってた。

その前に、MDの4トラMTRバンド音源
を製作してた。

 

20数年前の4トラのMDである。

 

現在の様にコンピューターDTMで

声の変化、微調整、音程の補正や、差し替えなど誤魔化しがきかない

マニュピレーション出来ないかなり古い機材である。

(簡潔にすると、今のボーカルはいくらでも音程など修復、撮り直し、差し替え可能)

 

出来ることには限りがあった。

それでも本気でデモテープを製作した。

しかし、運命とはいつも皮肉で奇妙なものである

 

私が「パニック障害」になってしまったのだ…

ライブ、Studio、乗り物が乗れなくなって、バンド自然消滅……。
という結末をたどり、音源も世に出ることはなくなった。



今度、配信される音源の数曲は
バンドでデモテープ作ってた時の曲が4曲入ってる。

今回は本当にロックであるし、初ロックアルバムと

いえる。(とはいえ、録音したのは20数年前であるが……)

 

またMDプレイヤーから接続して変換機を使用して

パソコンにデーターを取り込んだので、音源が完全にステレオ

ではなくモノラル音源である。

 

音質が悪いのは仕方ない。

 

今 又 レコードやカセットテープがリバイバル

しており、モノラル音源の温かみというものも感じられるかもしれないが…。


以前に2020年、2021年、2022年とアルバムを3枚出したのは、
メンタル病んで、引きこもって
20数年前に、作った曲たち。

 

100曲制作した20数年前の楽曲である。

病んでいたので、癒しの様な曲や歌詞が暗いもの

も多いのはそのためである。

 


今回のアルバムもメジャーコードで

制作した楽曲は二曲ほどで、あとはほぼ

マイナーコードである。

 

ちなみに私の楽曲制作、歌詞制作などは

総て独学であり、どこかで習ったというものはない。

 

歌唱法も師匠についたという記憶はない。

高音を出すには声帯を絞るという負担をかける

その為、のどや体調管理には気を付けた。


歌詞も稚拙だけど
若いなりの勢いや荒らさが
ある。

『初期衝動』みたいなもの。

ガレージバンドって最高だ。

愛用のギターは、大好きな
ニルヴァーナのカート・コバーンが愛用してた

FenderのMUSTANGジャズマスター。通称ジャガー

カートのソロって
正直、あまり綺麗じゃない

計算されてない……。

不協和音みたいな……。

 


でも、私は好きなんだ。

 

 

グランジの中でもノイジーだ。

 

 


バンドが無くなってからは、1人で音楽活動を

続けた、とはいえスタジオにも入れないので

自宅で宅録している

 

その為に、バンドヴァージョンと比べて

もらうとわかると思うが、近所迷惑の為

高音を出して歌っていない。高い楽曲はファルセット

で多用することとなった。

 

vocalだから、仕方なく

ソロやバッキングを

弾いてるけどメロディアスなのはない。

 

聴けば、このバッキンクや

リフ、ソロは、引きこもって

1人でrecordingしたな

って、すぐ認識できるはずだ

 

 

そんな時に送った音源が目に留まり

某レコード会社から連絡をもらったが…(今のようにサブスクもネットも

なかった時代だったからなのかもしれないが…)

 

その時は自分の中では、音楽では無くなっていたのだ……。

 

自身がパニック障害になって、

心理療法や催眠で完治した経験から

 

心理学や催眠といった分野で人を癒していきたいという

気持ちになった。つまり『カウンセラーの道、物書き』を考え出した。

 

 

自慢の様に聞こえるとそんなつもりは

ないのだが、某事務所の話は丁重にお断りしたという経緯がある。

 

だから芸能界という道を目指していたというのは本当である。

 

歌でダメなら、声優にも興味があった。

そのすべてを捨てるほど、カウンセラーに魅かれた。

 

そして、音源はこの世に出す予定は一切なかったし、

人に聞かせるつもりも、そんな話を友人にしたこともなかった。

(友人はバンドで歌っていたことは知っていたが、辞めたことは知らない)

 

 

自分一人の心の奥に留めていた。

 

だが、ここで運命はまた 『奇妙ないたずら』を私にするのである。

 

もう音楽なんてしないし、音源なんて出さない

そう決意していた。



2014年8月3日のある出逢いまでは……。

この続きはまた今度にしようと思う。

 

 

 

②なぜ弥永英晃は音源を世に配信したのか?

 

 

に続く