日本の歴史の中で記録上残る最古の対外戦争。

本当は神功皇后の朝鮮征伐とかあるんだけど

その物証が乏しいので。

なぜ「白村江の戦い」が起こり、

なにが終わった後に起きたのかまとめます。

ちなみにはくすきのえと読みますが、

小学生には無理なのではくそんこうという

教科書表記も増えました。

ならサカノウエノタムラマロとかなおさんかい!


  朝鮮半島国家との関係

もともと日本は神功皇后(応神天皇の母)

事績からわかるとおり、

朝鮮半島を通して先進国中国から

技術輸入しないといけない時代でした。

簡単にいうと

原材料輸出して加工物を手に入れます。

のちの技術立国とは一体…。

でも

日本の貿易史の大半は原材料輸出であることは

頭に入れておいてください。


現在でも冬の日本海は

世界三大危険海域と呼ばれるほど、

大荒れになるため、

島伝いに北九州から小舟で朝鮮半島に渡り、

陸路は高句麗などの遊牧騎馬民族がいるので

危険だから中国の船で朝鮮半島から渡る

というのが安全ルートでした。

※梁の職貢図。唐風の百済、新羅

倭国使は大きく服装が異なる。

特に着物じゃないってとこ。


この辺りの話は

応神天皇代に王仁(わに)博士が渡ってきたこと

また北宋の時代、

倭の五王「征東将軍、鎮東将軍」という

位を与えたことからも伺い知れます。

この東とは朝鮮半島を含みます。

対高句麗対策です。


中国六朝(南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)の

第三王朝である宋帝国の正史『宋書

(513年ごろ完成)には、

宋代(420-479)を通じて

倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、

宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが

記されている。

宋に続くの正史『南斉書』(537年)

の正史『梁書』(619年)、

南朝四代:宋、斉、梁、陳の

正史『南史』(659年)においても、

宋代の倭王の遣使について触れられている。

また宋に先立つの正史『晋書』(648年)にも

五王の先駆とも考えられる記事がある(後述)。

一方、日本側の史料である『古事記』と

『日本書紀』は宋への遣使の事実を記していないが、

『日本書紀』は倭の五王に比定される

歴代大王(天皇)のうち

応神天皇仁徳天皇雄略天皇の時代に

」との間で遣使の往来があったとする(後述)[注 2]

そんなわけで

朝鮮半島は先進文化と技術を得る、

交易上重要な拠点でした。


  朝鮮三国時代、白村江前夜

一般には新羅、百済、高句麗の時代ですが

前々から揉めやすかったようで、

北の高句麗が南進したり、

新羅百済間でも何回も戦争してたようです。


この辺は史書の記述が怪しいのです。

三国遺事は後年の作なので伝聞が多い。

むしろ公開土王碑、新羅碑のほうが

史料的価値が高いです。

この時代の半島最強国家は

21世紀の輝ける太陽、今世紀最強の

北朝鮮、平壌を首都とする高句麗です。

※後の高麗と区別するために

高句麗としていますが、

日本書紀には高麗(こま)と書いてあり、

これがコリョ、Koreaの語源です。


この国は騎馬民族なので強いのは

当たり前といえば当たり前。

モンゴリアンチョップに敵はない。



いずれにせよ、中国は歴史的に

遊牧騎馬民族倒したくて仕方がないのです。

中国を再統一した隋と唐は

高句麗に何度も攻め込みます。

隋が滅びたのはこの遠征の失敗でした。


一方で百済はもっとも倭国と仲が良かったのです。

七枝刀まで送ってくれました。


一度は317年高句麗の首都、

平壌陥落まで一晩でやってくれました。

ちなみに百済には

倭人官僚がいたこともわかっています。

しかしのちに高句麗

漢城(ハンソン、今のソウル)

陥落されてしまいます。

こうして百済くだらなくなりました。

倭国と同盟強化のためが妻を倭国に送ります。

まんまこれ参勤交代

この途上で生まれたのが武寧王です。

501年武寧王が即位し、

倭国との同盟を強化しました。

継体天皇6年(512年)に

倭国は朝鮮半島南部の沿岸部

百済に譲渡しています。

のち551年百済

漢城(ソウル)奪還に成功します。

このときうたわれた歌が

そして輝く

ウルトラ漢城(ソウル)!です(嘘)

ところが翌年、高句麗

漢城を攻め落としたあと

もぬけの殻になったので新羅がぶんどりました。

この結果、百済新羅の仲は最悪になります。

こうして漢城奪還のために

高句麗百済対新羅同盟関係を結んでいました。


この朝鮮三国時代の国家関係は

とてもわかりにくいです。

だいたい日本で言う戦国時代だと思ってください。

要するに武田上杉は敵対してたけど、

信長包囲網では仲良くしてた、そんな感じ。

あんまり深入りすると世界史になるので、

寸止めでがんばってます。


さて、高句麗百済による新羅侵攻

別の方向で歴史を動かします。

高句麗が邪魔なが参戦します。

そして高句麗・倭国の同盟国、百済が滅亡します。

そこで百済を復興する名目で

倭国から派兵されたのが

白村江の戦い、となります。


  663年 白村江の戦い



この戦いの詳細はわかりませんが、

唐・新羅連合軍倭国・百済高句麗連合軍

ボロ負けします。

こうして倭国は

中国大陸へのルートを失ったわけです


  唐の北九州支配


(1) 筑紫都督府

 白村江での敗北はあくまでも

韓半島での戦に負けただけであるとの

考え方が主流になっている。

しかし新羅を属国扱いして

百済を支配していた唐が、

敗戦国の倭国に対して

何の要求もしないことはあり得ない。

筆者は短期間ではあるが

倭国が唐の羈縻支配を

受けていたのであると考える。

その最大の根拠は

日本書紀の天智6年(667 年)の

次の記述である。3 月の近江遷都の後である。

≪天智 6 年11月9日≫

日本の歴史に詳しい方ならわかるでしょうが、

日本に都督府などという制度はありません。

つまりこれは筑紫が唐の支配下に入っていた

ことを示します。


つまり

日本は占領されていたという説が存在します。


  ​白村江のあと

この敗戦は相当な痛手であったようで、

こうして敗戦国としての戦後処理、

遣唐使は冊封体制にくみこまれ、

飛鳥から大津近江京へと遷都します。

この理由としては唐から攻撃されにくい、

琵琶湖沿岸に逃げたとする説があります。

滋賀が首都になるワンチャンがあったのです。



また、各地に朝鮮山城が建設されました。

のちに筑紫都督府は太宰府となります。

山は死にますか?川は死にますか?という

当時の歌で有名な防人

中国から北九州を守るために徴兵されたのです。

さらに国号を日本と定め、
に対抗するため中央集権体制を強めます。

これが645年の乙巳(おっし)の変
始まる大化の改新
つまり701年の大宝律令の完成です。