本当は飛鳥時代に入るところ、

文字数の壁に到達したので、

すこし間の時期。

てかそれでもおわらない。


  ヤマト王権の成立から朝廷へ

ヤマト王権が

いつ頃成立したのかはよくわからない。

さらにいつ頃大和朝廷になったかもわからない。


現在ではこの期間を指すことが多い。

まだ日本は

連合王国(イギリスみたいなもん)で

倭の五王による連合制だった。


古代史学者の山尾幸久は、

「ヤマト王権」について、

4,5世紀の近畿中枢地に成立した

王の権力組織を指し、

古事記』『日本書紀』の天皇系譜では

ほぼ崇神から雄略までに

相当すると見られている」と

説明している[10]


大和朝廷(やまとちょうてい)という

用語は、次の3つの意味を持つ。

1:律令国家成立以前に奈良盆地を本拠とした

有力な政治勢力およびその政治組織。

2:大和時代古墳時代)の政府・政権。

「ヤマト王権」。

3:飛鳥時代または古墳時代後半の

天子天皇)を中心とする

官僚制をともなった中央集権的な政府・政権。

この用語は、

戦前においては1.の意味で用いられてきたが、

戦後は単に「大和時代または古墳時代の政権」

2.)の意味で用いられるようになった。

しかし、「朝廷」の語の検討や、古墳

とくに前方後円墳考古学的研究の進展により、

近年では、

3.のような限定的な意味で用いられることが

増えている。



今回は3の説に従って、

古墳時代後期の対外関係について。


  渡来人と応神天皇


実在した考古学的な証拠はないが、

応神天皇は無視できない。

ちなみに息子が日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

継体天皇の11代前の話。


即位14年、

弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して

窮状を上奏し援軍を求めた。

弓月君は百二十県の民を率いての

帰化を希望していたが

新羅の妨害によって叶わず、

その民は加羅に留まっていた。

そこで葛城襲津彦を派遣したが

三年経っても弓月君の民を連れて

帰還することはなかった。


日本書紀』で応神天皇14年(283)に

百済より百二十県の人を率いて

帰化したと記される弓月君[3]を

秦氏の祖とする[4]。

平安時代初期の815年に編纂された

新撰姓氏録』によれば

「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の

記載があるが[5]、


その真実性には疑問が呈せられており[6]、

その出自は明らかではなく、

これは秦氏自らが、権威を高めるために、

王朝の名を借りたというのが定説になっている[7][8][9][10]。

「弓月」の朝鮮語の音訓と

訓読み(クンダル)が

「百済」の和訓である「くだら」と

ほぼ同音であることから

百済の系統とする説などがある[11]。

葛城襲津彦の支援によって日本へ渡ると、

葛城氏の本拠地である葛城に住んだ[12]。

大和国のみならず、

山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、

紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、


河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、

摂津国豊嶋郡、

針間国(現在の兵庫県)、

阿波国伊予国など各地に土着し、

土木養蚕機織などの技術を

発揮して栄えた。

丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)では

湿地帯の開拓などを行った。


当時の朝鮮半島は日本に比べて中国と繋がりが深い先進国だった。
海路で漢の楽浪郡、三国時代の帯方郡があり
遊牧騎馬民族を避けて安全に移動できたからだ。


この秦氏(はたし)から

機織り(はたおり)という語が

生まれたという説がある。

日本書紀ではヤマトタケルの嫁が吉備で教わる。

https://www.occh.or.jp/static/pdf/data/booklet/H18_hataori.pdf

こういう経緯なので、渡来人は先進的であった。

  漢字の伝来

このとき、日本史上で大きな出来事が起こる。

漢字の伝来だ。

朝鮮半島の王仁(わに)

日本に漢字をもたらしたとされる。

これは論語だった。

この応神(おうじん)天皇八幡神であり、

ちなみに神社本庁8万のうち、

4万社を占める、

日本最大の広域指定暴力団

源氏一族の祖先である。
那須与一平家物語
南無八幡大菩薩と言うのはこのため。
こうして飛鳥時代までに
日本は朝鮮半島とのゆかりを深めていく。
しかし次の時代、
のちに朝鮮半島との対立が始まる。

日本の歴史はあと何ページ?泣