台風25号は大雨のピークが過ぎた後も影響を拡大させた。

千葉県北部の 印旛沼いんばぬまと周辺の堤防が計3か所決壊し、成田市や栄町で約5平方キロ・メートル(推定)にわたって大規模な浸水が発生した。

千葉だけでなく、北関東など利根川の上流にも広範囲に雨が降ったのが一因とみられる


https://ja.wikipedia.org/wiki/印旛沼

天明年間(1781年 - 1789年)老中田沼意次の時の計画は工程の3分の2まで進捗したが、天明6年(1786年)7月の大洪水と、田沼の失脚により中断された。

江戸後期には、老中水野忠邦による天保の改革の一環として開削事業が企図された。

幕府財政基盤の再建を目標とした改革後半の天保14年(1843年)、勘定奉行の鳥居耀蔵を責任者として沼津藩、庄内藩、鳥取藩、秋月藩、上総貝淵藩の5藩に御手伝普請が命じられ、印旛沼から江戸湾に水路を開削する印旛沼堀割工事が開始した。この工事の背景には水害対策や新田開発や水運航路の開発など経済的な事情のほか、

外国の軍船に江戸湾口を封鎖された場合に、那珂湊-利根川-印旛沼-検見川-江戸という新しい水路の建設で江戸へ物資を供給するという、対外危機への意識の高まりもあった。

しかし、これも印旛沼の開発は各藩の多大な財政負担により進捗せず、天保の改革も上知令の頓挫による水野の罷免により中止され、印旛沼開発も弘化元年(1844年)6月に中止となり、江戸期における工事はいずれも成功しなかった。

ちなみに水野失脚のころ、沼では謎の怪獣事件が発生したと噂された[3]。