この記事は親子で共有してください。
父は母に。母は父に。
父は子に。子は父に。

続きね

  弥生時代

弥生時代をなぜ弥生時代というかご存じだろうか?

ぽく





ぼく




ぽく




ぽく




ちーん!

答 土器が見つかったのが文京区弥生だから。
弥生町遺跡(やよいちょういせき/やよいまちいせき)は、
一部が国の史跡に指定されている
(指定名称は「弥生二丁目遺跡」)。
東京都区内、本郷台東縁の台地の向ヶ岡(むかいがおか)に所在する。向ヶ岡台地には、縄文時代後・晩期の向ヶ岡貝塚(弥生町貝塚)と弥生時代後期の環濠集落の弥生町遺跡が重複して広がり、現在は台地南半に東京大学浅野キャンパスが所在する。
東大の建設中に見つかったのである。
東京都区内、本郷台東縁の台地の向ヶ岡(むかいがおか)に所在する。向ヶ岡台地には、縄文時代後・晩期の向ヶ岡貝塚(弥生町貝塚)と弥生時代後期の環濠集落の弥生町遺跡が重複して広がり、現在は台地南半に東京大学浅野キャンパスが所在する。
こうして日本に邑(ゆう)ができ始めた。
村と呼ばず邑としているのは村落=国家だったからだ
実際都内には大和邑(むら)という、
文京区に名門幼稚園がある。
都民富裕層なら知ってる。
小学受験の名門私立幼稚園だからだ。
このために引っ越す人がいる。
こうして関東地方には縄文式と弥生式が混在する。
ついで言っておくと
縄文時代にはすでに農耕は始まっていた。
1 陸稲(りくとう)栽培
2 堅果植物(クルミやクリ)の栽培→雑木林
である。
この辺が新発見されてきていて、
ヤマト王権制服説など今は言わない。
しかし南関東は海の底だ。それがわかる地名がある。
浦和である。内陸の埼玉県にがあった。
つまりここから南が海であった。

イイネの数を見るとグンマーなぞどうでもいい
とはっきりわかるのでちょっと面白い。
この頃はグンマーにしか人が住んでおらず、
弥生土器が見つかったのは山手台地なのだ。
これは神社の分布でわかる。

こうなっていた。

弥生時代に農耕がはじまると自然、
そこに邑(ムラ)と長(オサ)が生まれる。
長とは土木や農耕の指導者であり、
穀物の分配者であった。
このころ西日本と東日本で文化の違いが起こる。

銅剣、銅鐸の銅の文化圏である。

西日本中心に弥生文化が花開く。


  豪族居館


みなさんの時代には習ってないけど、

お子さんたちは必修シリーズ。

豪族居館と考えられる遺跡(いせき)は、

九州から関東地方まで広がっており、

三ツ寺遺跡(みつでらいせき)

(群馬県高崎市(ぐんまけんたかさきし))や

原之城遺跡(げんのじょういせき)

(群馬県伊勢崎市(いせさきし))が

発掘調査で見つかった代表的な遺跡です。

こうして、

堀をめぐらした

穀物倉庫や宝物庫として権力者の家ができた。


  東男に京女

江戸時代の歌舞伎の台詞なのだが、異説もある。

由来

「初舞台 あづま男に 京女」という歌舞伎にまつわる川柳から

類義語

京女に奈良男、越後女に上州男、京男に伊勢女など

と、奈良や京都も出てくるが上州が出てくる。

当然のことだが

どうするのか困ったばかりの

家康の先祖はグンマーである。


坂東武者が

武田騎馬隊の赤備(あかぞなえ)であり、

のちに井伊の赤備、真田も赤鎧だろ?

三河武士とは足利についていった坂東武者だ。

すなわちグンマーは最強の戦闘民族である。

※理由は難しくない。

山岳民族はうまれつき

高地トレーニングしてるから超強いだけ。

2010年の秋、インドで40人もの武装強盗にだった1人で立ち向かい、撃退した兵士のニュースが外信から入ってきました。

兵士が手にした武器はナイフ1本で、

まるでハリウッド映画のような出来事に

にわかには信じられませんでした。

しかしこの出来事は事実だったようで、複数の通信社が伝えていました。

今回は、

この映画のような事件を振り返ってみたいと思います。


そら、グンマー人がクマ殺すのなんか余裕。



なんでこんなに
チンタラグンマーの話をしてるかと言うと、

古代から中世にかけて、

歴史は畿内が中心なのだが

何度も何度も関東は何かが起こる。
その一例なだけだ。

こうして

たたら製鉄、騎馬術、堀で囲まれた家

山岳民族が揃った。

日本刀、騎馬術、城。そう、武士の誕生だ。


  平将門の乱

平安後期。坂上田村麻呂以降、

ヤマト朝廷の直轄地として関東はあった。

鹿島神宮、香取神宮などの武道の神がある。

さらにスサノオを祀る大宮氷川神社もある。

これが氷川の総本社。

氷川とは利根川信仰だ。

https://www.touken-world.jp/tips/8073/

将門は高望王流桓武平氏である。

必然的に関東で坂東武者は生まれた。

  乱の鎮圧

身内の争いでもあったので、

桓武平氏、清和源氏が将門を射った。

平将門の乱以降、

関東では貞盛流と平良文の子孫が大きな勢力をもっていた。

しかし 1028年長元元年)の平忠常の乱で、

源頼信が忠常を降伏させたことにより、

河内源氏が関東における武家の棟梁的存在となり、

千葉氏三浦氏などの平姓諸流は

源氏の家人として扱われるようになった。

この対策のために天皇の血縁だから

天皇に逆らわない清和源氏嫡流の河内源氏が、

将門の乱を鎮めるために住んだのが、

新田本庄足利本庄である。


やがて関東は鎌倉時代を迎えることになる。
都から関東に来ることを都落ちという。
伊勢物語は失意によって
上総(南千葉)に流された在原業平の物語であり、
この上野国府を守るために桓武平氏と清和源氏に
土地を与えて関東に置いたことが、
関東独立政権である鎌倉幕府の成立につながっていく。
余談であるが我が家の菩提寺の建立は
1182年である。
新田氏は河内清和源氏であった。
そう、鎌倉時代前夜である。