すべてはグンマーから始まった。
古代
日本人は縄文から弥生時代から住み始めた
というのが学会の定説だった。
しかし、歴史は誰かが変える。
相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、相澤 忠洋、
1926年(大正15年)6月21日 - 1989年(平成元年)5月22日)
納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、
1949年(昭和24年)に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)
黒曜石で作られた打製石器を発見し、
それまで否定されてきた日本列島の旧石器時代の存在を証明した。
このおっさんは大学に行ってすらいない、
単なるおっさんである。
ただ、考古学が好きなただのおっさんだった。
相沢は岩宿の切り通しの崖面から採取した石器や石片を
携行して考古学者を訪ねては
赤土からも石器が出土する事実を説明して回ったが、
まともに取り合う学者はいなかった。
この説明のために相沢は桐生から
東京までの長距離を自転車で行き来した[2]。
ごめん、嘘。125kmもあるじゃねえか。
まあ山岳民族グンマーなら普通か。
私も毎朝60分で高校通ってたしな
空手部で部活やりながら。
なんでグンマーに人が住んでたの?
ぽく
ぽく
ぽく
ぽく
ちーん!
答 関東地方は海の底だった。
詳しくはこれなので、グンマーは海のそばにあった。
グンマーには海があった
グンマーには
海があった!
大事なので3回いいました。
お前はまだグンマーを知らない。
それゆえこうなる。
この巨大な国力をグンマーは持っていたので、
鎧を着た人骨が古墳から見つかっている。
火山灰や火災流に埋まっていたので上級グンマーではない。
でね?これ新羅式の鎧なのだよ。
群馬地域は、
5世紀から6世紀にかけての新羅と百済の遺物が多く出土する所だ。
かなり以前から百済系の土器とガラス、新羅系の金銅冠と靴、
馬具、伽耶系の耳飾りなどが発見されてきた。
朝鮮半島系の遺物が発見される背景については、
この地域の頭目だった上毛(かみつけ)一族が
4世紀から7世紀まで数回朝鮮半島に出兵したという
日本書紀の記録を重視し、
この時に新羅人を捕虜として捕らえてきたという主張があった。
だが、発掘調査が進むにつれて、
朝鮮半島の住民が捕虜として捕らえられてきたのではなく、
逆に上毛一族が先進文明を得るために努力し、
朝鮮半島系の移住民が群馬地域に積極的に
移住、定着、活動した事実が明らかになった。
群馬という地名からも分かるように、
馬を育てる馬牧場で有名なここに馬が入ってきた背景には、
朝鮮半島系住民たちの活躍があったことも明らかになった。
これで謎が解ける。
製鉄と騎馬技術はどこから来たか、だ。
つまり、新羅→関東→東北→釜石。
餅鉄(べいてつ、もちてつ)という。
日本の製鉄法をたたら製鉄と呼ぶ。
モノノケ姫に出てくるやつだ。
https://www.touken-world.jp/tips/10863/
古代におけるたたら製鉄は、6世紀以降には全国的に行なわれていたことが確認できます。
もっとも、地域によって炉の形に差異があり、
関東地方において「竪型炉」(たてがたろ)が
用いられていたのに対し、
中国地方では「箱型炉」(はこがたろ)が
用いられていました。
つまり、西と東で製鉄の伝搬経路がちがう。
ここ、なんてとこだ、と思う?
群馬県館林市多々良(たたら)沼。
オカリナ奏者、宗次郎は練習していた。
そう、原風景を感じないかい?
「あれ?これ地理だよな?」そうだよ。
でも、関東地方を語るには古代から語らないといけないのだ。
文献に乏しく、
坂上田村麻呂まで認知されてない東北や
先縄文時代までの温暖期に人がいたが、
14世紀にアイヌが来るまで
ほとんど無人の地域とは違って、
関東は遺物がゴロゴロ出てくる。
ちなみに当時のグンマーは
毛野国(けぬくに)と言う。
これが二つに分かれてカミツケヌが上野。
シモツケヌが下野。
だからJR「両毛線」がある。
これが「秒速5センチメートル」で
少年が雪の中で止められた路線。
吉良上野介はグンマーの名家で、
「家康が清和源氏だよ」と保証したので、
征夷大将軍になれた。
この吉良家には逆らえないことが、
のちに復讐劇になる。
ここまでで何が揃った?
製鉄、騎馬術、堀をめぐらした家。
気づいて。
こうして日本刀、騎馬武者、城が生まれる。
我々が誇るサムライブルー。
ニンジャブンカ!
中編に続くッ!
北関東(というかグンマーだけ)で
終わってしまった。
ああ?グンマーの話でいいんだよ!
ヤマトの次に国力高いのが、
グンマー毛野国だったんだから。
まだだ。まだ、終わらんよ
©️お受験のお医者さん