無所属少年時代 #73 作文発表会の思い出 | 鈴木篠千のゲームと釣りと少年時代の話。

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レトロゲーム攻略、釣りと少年時代の思い出の話です。

毎日では無いですが、PM10~11:00に1~3本の記事をアップする予定。

ルール
①高額ソフトはやらない
②攻略本などは見ない。
③地元(浜松)で釣る。
④少年時代(無所属)の話。
(詳細はプロフィールで)

https://toyokeizai.net/articles/-/640807?display=b


チャンス大城さんの話


“イジメ”の話を書いたので、その流れの話。


というか、このチャンス大城さんの話上矢印上矢印上矢印は面白い。


単に“イジメ”から脱出した話ではなく(結果的にそうなるのだろうが…)、イジメが“気にならなくなった”話なのだ。


大城さんは執拗なイジメを食らっていたが(高校生の頃はもっと酷かった?)、好きなお笑いのネタを作ることで“気にしなく”なった、つまり「そんな事(イジメ)、もうどうでも良いや」と思えるようになったのだろう。


人は困難に会えば、それを乗り越えようとする。

それは、素晴らしいし、そういう“力”は身につけるべきだと思う。

だけども、それ(イジメ)は、自身を取り巻く“一つの状況”でしかない、とも思う。

それを“笑い😄”で乗り越えた話に思えた。


俺はイジメと聞くと、思い出す歌🎵がある。


『弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く♪』(ブルーハーツ/トレイントレイン)


それがイジメの側面の一つだと思う。攻撃する側(イジメる側 )もまた“どこか弱さがある”のだろう。(“カガリ”の話とか…)


弱い奴らには、彼らの“競争”があるのではないか?

弱い者同士の“小さな競争”だ。


俺もまさにそうだ。


そう思うと、学校、職場、組織で行われているイジメやパワハラは全て“小さな競争”だ。


それって、本気で取り組む必要あるのか?


放っておいて、大城さんのように“気にならなく”なれば、良くないか?


別の事に夢中になるものがあれば、それ(イジメ)を気にしなくなるのではないか。


自分の好きな事、好きなもの、得意な事、出来る事。


それさえ邪魔されなければ(…たまに邪魔してくるバカがいるなが )、“気にしなく”なる。


だからイジメられたりしたら、(…今、そんな事に関わっている場合じゃないんだよ)と気持ちになれて、乗り越えたり、気付くのかな。




作文発表会にて


あれは丁度、小学3年生の時だ。


参観会があり、先生は俺達に作文を書かされた。そしてそれを発表する。

題目は「家族」だったと思う(あやふや)  

作文発表会だ。

俺は、親父の話を書いた記憶がある。

で、これがウケた😄😄😄


ドッカンドンッカンと大ウケした😆😆😆

(…という記憶が俺にはある)


俺の書いた話(親父の事)で、教室が揺れた


先生も、みんなも、参観会に来ていたクラスメートの母親らも、大笑いだった(…と思う)


俺はそれを物凄く“快感”に感じた。


普段は“無所属”でクラスに“居場所”の無い俺だったが、こんな事(作文)で“他人を動かせる”のだ、と思った。


いつもと違う俺になれた感じがした。



…気のせいだかもしれないが。


俺の特技?


だから、俺は文章を書くことを得意にしようとしたのではなく、『(勉強やスポーツ以外で)目立つ方法論がある』と分かったのだ。


俺は、何の特徴もない少年だった。

これが俺の特技なのか?


勉強は好きじゃないし、スポーツも得意ではない。お笑いセンスも無い。文章を書くことも、その時(作文発表会)には“ウケだ”が、そんなに得意でも無い。


図書館(自営)に“逃げて”いたので、本を読んでいたのが、少し役立っただけだろう。




だが、そんな俺も“上手くいけば”、人をこんなに“笑わせる”方法がある。

それに気付いた。



その後、俺は“二匹目のドジョウ”を狙い、次の参観会(作文発表会)にも同じように“ウケようと”書いて、そこそこ“スベった記憶がある。悲しい悲しい悲しい


それは確か、『ミニカーの話』を書いたと思う。

全くウケなかったガーンガーンガーン

その記憶もある。


何でそんな事を書いたの、俺?

そりゃスベるだろ、俺?

またウケると思ったのか、俺?



人は変われるのか?

何度か書いるのかもしれないが、俺は『人間には“元値”がある』と思っている。


優しい人、厳しい人、ケチな人、気前の良い人…。


それはその人から出てきている“外観”でしかないのではない。

人間には幼い頃から培った習性、思考、物事の捉え方、癖があり、それは変わらないのではないか?


他人に厳しい人は、優しいそうに見えて、本当には厳しい。

ケチな人間は、豪快にお金を使いながら、最後は節約したりする。


外観を変えても、“元来の思考”“終着”するのではないか?


だから、人は変わらない、変われない。


“元から”の思考や捉え方からはなかなか抜け出せない、と俺は思う。


そんな人間(元値が出た奴等)をこれまでたくさん見てきた。

わがままな人間は、結局は最後にはわがままで、自分の意思を押し通す。

他人を小馬鹿にしている人間は、結局は他人を見下すし、“見放す”。


そういうものである。

俺もそうだ。

それは“元値”から来ている。そこから“かけ算”するように人は大きくなるのだから、結局は元値が出る。


俺の元値はどうだろう。


この作文発表会で得た“感覚”が、その“元値”ではないか?


それは、『他人からの“評価”は簡単に変わる』である。人間関係に難のある俺はどこかで、『どんなに関係性が変わったり、決まったように見えても、“僅かな事”で変わる』だ。


人間は変わらない、変えられない。

“元値”通りの生き方しかできない。


だが、関係性は変わる。簡単に変えられる。


嫌な奴も、立場が変われば意外と良い奴になる。

仲の良い友人も、関係が変わったら揉めたりする。


クラスで“イケてない”、“下層”、“無所属”の俺だったが、作文一つでクラスを揺らすほど笑えさせる事がある😄😄😄


文章一つで関係は変わる。


それを俺は感じた。


嫌な奴や偉そうな奴も関係なくなる。




このチャンス大城さんのように『どうでも良くなる』のだ。

何かに夢中になるのは、良いことかも?

煩わしい人間関係から解放され、環境が変わるかもしれない。


その感覚が今も俺にあり、俺はこうして文章書いているのかもしれない。


“元値”は変えられないが、“環境”や“状況”が変わっても、変えられるのでは?


そして、“夢中”になれば、自分の“環境”が気にならなくなる、のではないか?


俺は、今もそう思っている。あの作文発表買いの日から。