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チャンス大城さんの話
“イジメ”の話を書いたので、その流れの話。
というか、このチャンス大城さんの話は面白い。
単に“イジメ”から脱出した話ではなく(結果的にそうなるのだろうが…)、イジメが“気にならなくなった”話なのだ。
大城さんは執拗なイジメを食らっていたが(高校生の頃はもっと酷かった?)、好きなお笑いのネタを作ることで“気にしなく”なった、つまり「そんな事(イジメ)、もうどうでも良いや」と思えるようになったのだろう。
人は困難に会えば、それを乗り越えようとする。
それは、素晴らしいし、そういう“力”は身につけるべきだと思う。
だけども、それ(イジメ)は、自身を取り巻く“一つの状況”でしかない、とも思う。
それを“笑い😄”で乗り越えた話に思えた。
俺はイジメと聞くと、思い出す歌🎵がある。
『弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く♪』(ブルーハーツ/トレイントレイン)
それがイジメの側面の一つだと思う。攻撃する側(イジメる側 )もまた“どこか弱さがある”のだろう。(“カガリ”の話とか…)
弱い奴らには、彼らの“競争”があるのではないか?
弱い者同士の“小さな競争”だ。
俺もまさにそうだ。
そう思うと、学校、職場、組織で行われているイジメやパワハラは全て“小さな競争”だ。
それって、本気で取り組む必要あるのか?
放っておいて、大城さんのように“気にならなく”なれば、良くないか?
別の事に夢中になるものがあれば、それ(イジメ)を気にしなくなるのではないか。
自分の好きな事、好きなもの、得意な事、出来る事。
それさえ邪魔されなければ(…たまに邪魔してくるバカがいるなが )、“気にしなく”なる。
だからイジメられたりしたら、(…今、そんな事に関わっている場合じゃないんだよ)と気持ちになれて、乗り越えたり、気付くのかな。
作文発表会にて
あれは丁度、小学3年生の時だ。
参観会があり、先生は俺達に作文を書かされた。そしてそれを発表する。
題目は「家族」だったと思う(あやふや)
作文発表会だ。
俺は、親父の話を書いた記憶がある。
で、これがウケた😄😄😄
ドッカンドンッカンと大ウケした😆😆😆
(…という記憶が俺にはある)
俺の書いた話(親父の事)で、教室が揺れた
先生も、みんなも、参観会に来ていたクラスメートの母親らも、大笑いだった(…と思う)
俺はそれを物凄く“快感”に感じた。
普段は“無所属”でクラスに“居場所”の無い俺だったが、こんな事(作文)で“他人を動かせる”のだ、と思った。
いつもと違う俺になれた感じがした。
…気のせいだかもしれないが。
俺の特技?
だから、俺は文章を書くことを得意にしようとしたのではなく、『(勉強やスポーツ以外で)目立つ方法論がある』と分かったのだ。
俺は、何の特徴もない少年だった。
これが俺の特技なのか?
勉強は好きじゃないし、スポーツも得意ではない。お笑いセンスも無い。文章を書くことも、その時(作文発表会)には“ウケだ”が、そんなに得意でも無い。
図書館(自営)に“逃げて”いたので、本を読んでいたのが、少し役立っただけだろう。
だが、そんな俺も“上手くいけば”、人をこんなに“笑わせる”方法がある。
それに気付いた。
その後、俺は“二匹目のドジョウ”を狙い、次の参観会(作文発表会)にも同じように“ウケようと”書いて、そこそこ“スベった記憶がある。
それは確か、『ミニカーの話』を書いたと思う。
全くウケなかった
その記憶もある。
何でそんな事を書いたの、俺?
そりゃスベるだろ、俺?
またウケると思ったのか、俺?
人は変われるのか?
何度か書いるのかもしれないが、俺は『人間には“元値”がある』と思っている。
優しい人、厳しい人、ケチな人、気前の良い人…。
それはその人から出てきている“外観”でしかないのではない。
人間には幼い頃から培った習性、思考、物事の捉え方、癖があり、それは変わらないのではないか?
他人に厳しい人は、優しいそうに見えて、本当には厳しい。
ケチな人間は、豪快にお金を使いながら、最後は節約したりする。
外観を変えても、“元来の思考”に“終着”するのではないか?
だから、人は変わらない、変われない。
“元から”の思考や捉え方からはなかなか抜け出せない、と俺は思う。
そんな人間(元値が出た奴等)をこれまでたくさん見てきた。
わがままな人間は、結局は最後にはわがままで、自分の意思を押し通す。
他人を小馬鹿にしている人間は、結局は他人を見下すし、“見放す”。
そういうものである。
俺もそうだ。
それは“元値”から来ている。そこから“かけ算”するように人は大きくなるのだから、結局は元値が出る。
俺の元値はどうだろう。
この作文発表会で得た“感覚”が、その“元値”ではないか?
それは、『他人からの“評価”は簡単に変わる』である。人間関係に難のある俺はどこかで、『どんなに関係性が変わったり、決まったように見えても、“僅かな事”で変わる』だ。
人間は変わらない、変えられない。
“元値”通りの生き方しかできない。
だが、関係性は変わる。簡単に変えられる。
嫌な奴も、立場が変われば意外と良い奴になる。
仲の良い友人も、関係が変わったら揉めたりする。
クラスで“イケてない”、“下層”、“無所属”の俺だったが、作文一つでクラスを揺らすほど笑えさせる事がある😄😄😄
文章一つで関係は変わる。
それを俺は感じた。
嫌な奴や偉そうな奴も関係なくなる。
このチャンス大城さんのように『どうでも良くなる』のだ。
何かに夢中になるのは、良いことかも?
煩わしい人間関係から解放され、環境が変わるかもしれない。
その感覚が今も俺にあり、俺はこうして文章書いているのかもしれない。
“元値”は変えられないが、“環境”や“状況”が変わっても、変えられるのでは?
そして、“夢中”になれば、自分の“環境”が気にならなくなる、のではないか?
俺は、今もそう思っている。あの作文発表買いの日から。