…続き。
謎の駄菓子屋
『ビックリマン』が流行っていた頃、俺は近所の駄菓子屋、スーパーなどを巡るのを日課にしていた。
丁度、“無所属”になったばかりの時期だ。(小3の1学期)
もうその頃はビックリマンのブームは過渡期を過ぎ、減退期に入っていたと思う。
学校の南にあるスーパーに行ったが、ビックリマンはなかった。
すると、“一緒に来ていた友人”👥が「近くに別の駄菓子屋があるから行こう」と誘った。
普段は自宅近くでしか遊んでいなかった俺は、(…そんな駄菓子屋、あるんだ?)と思い、ついていくと、そのスーパーから道を渡り、路地に入った途中に看板も無い、灰色の小さな建物があった。
そこが駄菓子屋だった。
それは物凄く形容しにくい“建物”だった。
民家、住宅とは言えないように見えた。
しかし、スーパーや食料品店とも規模が小さい。
中は暗く、クッキーや飴、袋菓子が置いてあり、コーヒー豆や乾物があった記憶がある。
全体的に暗かったイメージが今でもある。
おばあさんが1人いて、店番していた。
駄菓子屋というより、流行らない雑貨屋(?)という感じか。
当時(昭和の終わり=1989年頃)は、『スーパー』と言いながら、昔ながら食料品店が“スーパー化”したような店がいくもあり、ここもそれっぽい感じだったが、かなら小さかった。
そこにお目当てのビックリマンは無かった(当然)
だが、その後俺は何度かここを利用した。
そこは俺の家から、“ミッチー”や“てる”の自宅に向かう中間地点にあったからだ。
俺の印象では小3~4までは開いていたが、小5から閉まっている日が多くなり、小6の頃には、完全に閉店。シャッターなどはなかったが、すりガラスのドアが開かなくなっていた。
この店の話をすると、何人かの友人は「そんな店、あったか?」という。
しかし、この店はあったし、今もある。
場所は“ピエール”(#19)の自宅の近くだ。
俺はミッチーの家に向かう途中に、ここで雨宿りした記憶が確かにある。
だが、最初に連れて行ってもらった人間がはっきりしない。サダヒトか?
駅前のゲーセン
同じく、よく分からない店の話をもう1つ。
ファミコンがまだ我が家に来る前(小3GW以前)、俺は、“ともさん”(仮名)などの家でやらせてもらっていた。
「…ゲーム、したいなぁ」と言うと、“ミッチー”(あだ名)が「…じゃ、ゲーセン、行くか?」と誘ってきた。
浜松の片田舎には、その頃(昭和末期)にはゲーセン(ゲームセンター)などなく、近所のユニー(懐)にあるゲームコーナーが精一杯という感じだった。
「そんなもん、どこにあるんだよ?」と言う俺を連れて、ミッチーは駅前の“民家”に誘った。
そこは外観は古びた家にしか見えなかった。
だが、木製の引き戸を開けると、驚いた。
そこにはタバコ🚬を咥えた学生(高校生?)がたむろして、ゲーム機に向かっていた。
みんな、いわゆる“不良”で、鋭い目付きでこちらを睨んだりしていた。「んだよ💢 早く閉めろよ…」という感じ。
近所の最寄り駅近くには高校があったが、そこは“不良高校”ではない。おそらく“遠征”に来ていた皆さんだろう。
俺はかなりビビりながら、薄暗い店(?)の中に進んだ。
異様な光景だ。
こうした不良は、喫茶店などで“ダベったり”するものだと思ったが、当時、この近所に喫茶店は一つしかなかった。わざわざあそこに不良の皆さんが赴く必要はない。(市役所の近くだしね)
一刻も早く退散したかったが、ミッチーに言った手前、それなりに遊ぶしかない。
だが、俺の財布には“財テク”(#9)の影響で10円玉しかなかった。
…ここからが不思議なのだが、このゲーセンのゲームは10円で遊べた記憶がある。
コイン投入口に『10円玉 ココ』と手書きのテープが貼られていた記憶がある。
ゲーセンのゲーム機はだいたい100円からと思っていたので、かなり驚いた。
俺は、『くにおクン』のゲームをやったが、ほとんど記憶にない。早くゲームオーバーになり、ここから出たかった。
その後、間もなくしてこのゲーセンは潰れた。
誰かが「不良の溜まり場」と連絡したのかもしれない。
俺は、このゲーセンの事や10円で遊べた事を覚えているが、ミッチーなどはかなり曖昧に記憶していて、「…10円だったか?」と言ったりしていた。
何だったんだろう?
ここはその後、喫茶店や食べ物屋、カラオケと業態がコロコロ変わり、今は居酒屋🍺だったかな?
カラオケ屋の時に1度だけ“ゆー太と”入った。
まだ思い出したので続く…