先日の退社時のこと、退屈と言われる内容の同僚との会話、なぜかタイ人同僚達は恥じるような…親から、教科書から、メディアから、そんな教えがあったのだろうか。
ところで九段で桜を見たことあるだろうか。その桜の花びら一つ一つが彼らの分身や化身に見えるのは、けして僕だけではないと思います。
僕には「…九段にいらっしゃい」と幼い娘に書き残した父親、成人式を迎える前の若者…飛び立っていった特別攻撃隊を思い出させます。そして、なでしこ隊の存在も合わせて。
命令と言う名の隊員への志願だったとも言われますが、今も残る映像で彼らを見る限り、彼らの表情は水杯を交わ時などは特に清々しく、悔しいくらいにかっこよく見えてしまいます。
その表情は彼らの本意の表れだったのだろうか・・・やはり死への覚悟だったのだろうか。本当は敗戦の覚悟もあったと聞きますが、僕には大義を全うする決意の顔にしか思えません。
僕は少々変なのか“死”をあまり悲観せず、ある種の“美”を感じてしまいます。たとえ志し半ばであっても、その時その瞬間までの人の生き様に美しさを感じられるからです。
毎年8月になれば近隣各国に配慮して参拝を控える…これを聞いて散っていった彼らはどう思うだろうか?まず彼らへの配慮を優先しない対応に申し訳ない気持ちです。
「外人を英語で言うと…だから外国人と言わないと」これと同じくらい馬鹿げていると思えます(何で英訳して考えるんだよ!)。
何でもかんでも否定する集団、組織、そして人間は相手にしません。過去、国内でも似た事態がありました。否定する以上は、その人間達に正論の用意があったのだろうか。
“国民の生活が第一”と聞いたのは記憶に古くなく、いざ自分達の舞台になり・・・否定ばかりする人間の集まりのありがちな展開になるのは当然でした。
今日も僕はこうして何不自由なく暮らせています。桜の花びらとなった彼らたちの決意が脈絡と世界の人々の心に片隅に今もある恩恵が少なからずあります。
そして犠を持った人々に、人は僕は義を尽くします。“おかげ様で日本は世界で最も幸せな国になれました”と何かの機会に伝えられればと思います。
長くなってしまいました、全く書き足りませんが・・・。よく知られる“アンパンの主題歌”、“さくら(独唱)”など、そんな事を何げに表現している音楽は身近に少なくありません。
現実は残酷です、そして事実は悲しいものですが、我々が語り継ぐことが少しでも彼らへの報いではないでしょうか。
けして僕はその行為の歴史を賞賛したり、美化や美談にする気はありません。ただ一個人が自らの大義のために壮絶に散った・・・
その事実を記憶に留め、そして学び、さらに彼らたちを偲ぶことは、日本人として自然で当たり前に思うだけです☆
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