親との同居――思いの違い

ここに住み始めて、五カ月が過ぎようとしている。

地方から東京へUターンし、四十年ぶりに実家へ戻ってきた。

埼玉にあった自分の戸建てを売却できたことで、実家へ帰ることができた。

高齢の両親はいまだ健在で、介護も必要としていない。

私と妻は実家を継ぐことで合意し、同居することになった。

しかし、建て替えたばかりの家は二世帯住宅ではなく、台所と浴室は共用である。

一階で両親が、二階で私たち夫婦が暮らしている。

リビングは一階にあり、いつも両親がそこで過ごしている。

 

朝食と昼食は両親が自分たちで作って食べるが、夕食は妻が作っている。

ところが、「脂っこい」「しょっぱい」など、味が合わないという不満が、たびたび私に向けられる。

妻なりに気をつけているようだが、工夫をしても高齢の両親の味覚には合わないらしい。

両親は薄味を好むので、ほとんど味をつけないくらいがよいのかもしれない。

 

妻への不満は、日に日に大きくなっていく。

一方、妻もストレスを抱え、悩んでいた。

同居すれば問題が起きることは予想していたが、これほど早く直面するとは思わなかった。

間に挟まれた私自身も、強いストレスを感じている。

両親は昭和初期の生まれで、戦争を体験している。

絵に描いたような昭和の頑固さが表情にもにじみ、考え方は今も昔も変わらない。

 

私は三人きょうだいの了解を得て実家に入り、祖父の代から続く墓を守るという約束のもと、長男として家を引き継ぐことになった。

しかし、妻はキリスト教徒で、実家は仏教である。

妻はお盆の墓参りには同行したものの、線香をあげず、そばで見ているだけだった。

「キリスト教徒だから、墓前で拝むことも線香をあげることもしない」と、韓国人である妻は頑なに拒んだ。

宗教が違っても、その場に応じて対応してほしいと思っていた私は、戸惑った。

 

私が韓国を訪れたときは、決まって妻の両親の墓参りをし、その国の習慣や儀礼に沿って参加している。

それだけに、妻の「嫌だ」というひと言には疑問が残った。

葬儀に参列するときは、宗派が違っても、その場の作法に合わせることが多い。

だからこそ、妻の考えをどう受け止めればよいのか、今も迷っている。

拒む妻に、私は何も言えなかった。

 

両親は、妻が三度の食事を用意し、自分たちの口に合うものを作ること、そして将来、体が動かなくなったときには介護をしてくれることを期待していたようだ。私もある程度は想定していたが、介護が必要になったときは、介護保険などを利用し、専門家に任せられる部分は任せたいと考えていた。

ところが、介護士の資格を持つ妻は、「あなたの両親なのだから、あなたがやればいい」と、突き放すように言う。

介護の仕事を経験してきた妻は、その過酷さを知っているからこそ、避けたいと思っているのかもしれない。

そしてついには、「もう限界だから韓国へ帰りたい」と口にするようになった。

 

両親の考えは、「この家に嫁いできた以上、この家に従え」というものだ。

悪く受け取れば、「服従しろ」と言っているようにも聞こえる。

妻は家にいたくないのか、毎日のように公共施設へ出かけて時間を過ごしている。

毎週日曜日には教会へ通うが、そのことも両親から偏見の目で見られている。

 

家にいないことへの不満も、ときどき私の耳に入る。妻もストレスで限界なのだろう。

妻の友人たちは、夫の両親との同居には口をそろえて反対しているそうで、

相談しても解決にはつながらない。間に立たされた私は、苦渋の選択を迫られている。

その選択とは、この家を出ることだ。私たちが出れば、いずれ妹夫婦がここへ入ることになるかもしれない。

 

両親は、夫婦で家を継ぎ、その後は子どもが継いでいくことを強く望んでいる。

だが、その望みをかなえることは難しそうだ。

おそらく妻は近いうちに家を出て、韓国へ帰るだろう。

その思いは、ますます強くなっている。

妻は、日本の仏教の墓に入ることなどまったく考えていない。

キリスト教徒として、キリスト教の墓に入ると断言している。

そうなれば、私の役目もなくなる。妻がいなければ、夫婦で家を継ぐという前提そのものが崩れてしまう。

食事や身体の世話を、私一人で担うことはできない。

 

高齢になり、毎日家で過ごしていると、自分の死期を意識し、その後も家や墓を守ってほしいと考えるようになるのだろう。

それは仕方のないことだと思う。

しかし、妻にどこへも行かず、一日中そばにいて面倒を見るよう求めるのは、無理な話なのかもしれない。

 

価値観の違いは、実際に同居してみて初めて、その深さがわかる。

私自身、ここで暮らし始めて、つくづく感じることがある。

ここは、もう自分の家ではない――という実感だ。

そして、高齢の両親を見て思う。私は、決して長生きしたいとは思わない。

必要以上に生きたいとは思わない。

高齢化社会というものが、今はとても恐ろしく感じられる。