自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~ -8ページ目

自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~

自分で決めて、自分で生きる。
自分を愛して、自分を生きる。

まだうまく言葉に出来ないのだけれど。

(書いているうちに、言葉になっていくかもしれない。)



受容性。

受け入れるということと、

従属性とでもいうのか、従うということ。


ものすごく微妙なところで、取り違えている女性が多すぎるのではないか?



出席番号は男女別で、男子の方が先だった世代だ。
誰もそれを不思議に思ったことなどない世代。


常に、女子は男子のあと。

刷り込まれている。
全く気がつかないほど、強烈に。



どうして、自分のスタイルを打ち出さないのか?

常に、自分より凄い権威(ほとんどの場合が男性)の意見を聞いて、

「ああ、わたしったら、全然わかってなかった」って...。


その価値観と、本来は違うところに「ある」のではないのか?

その価値観とは、違うところに行こうとしていたのに、
引き戻されている。



ものすごく微妙というのか、巧妙というのか。

どちらも気づいていないけれど、

根底に、「女子は男子のあと」の刷り込みがある?

女性は従うもの。
女性は劣ったもの。

無意識のレベルにまでなっていて、気がつかない刷り込み。



ああ、うまく言葉に出来ない。
何かものすごく大事なことが、そこにあるような予感がする。

でも、まだ言葉以前のところでも、はっきりとはわからない。



どうして、自分のキャリアを信用しないのか?

いつも「まだまだ」と思っている。


自分の経験から学んだことを、なぜ信じない?
なぜ、それを間違いだと思うのか?


「間違い」だというのは、古い価値観のうえに成り立っていることで、
新しい価値観では、全く「土俵が違う」ことなのに。

新しい世界に生きようとしているのに。


新しい価値観での正しさが、
古い価値観での誤りにされてしまう。

(あえて、「正しさ」という言葉を使った。
 他にそれを表す言葉がみつからない。
 悪い意味の「正しさ」ではなく、
 新しい世界での、新しい考え方。   )





主、であってはいけないのか?

常に、従でいようとするくせ。習い性。



教えてもらおうという姿勢。

学ぼうという姿勢ではなく。


この違いを、どう表現したらいいのだろうか?





先駆者であること。

初めて、であること。

1番目であること。


それを避ける。

避けていることさえ気がつかない。

だって、素直に「学んで」いるから。

「まだまだ」の存在である「私」は、
ずっと、誰かから学び続けなければならない。




オリジナル


オリジン



そうであってもいいんじゃないか。

もうそれを許していいんじゃないか。

そろそろ、それに気づいていいんじゃないか。



origin

みなもと

はじまり



便宜上、「女性性」という言葉を使っているけれど、
本当は、女性性・男性性なんて分けて考えてはいない。

統合、でもない。

そもそも分かれている感覚は自分の中には無いから。


そうだ。

無かった。


元々、私の中に「女性性」など無かった。

ただのオリジン



それしか無かった。



何も分かれたものなど無かった。




全く違った話をしているのだ。

何もかもが違う。



これをどう表現すればいいのか。

これをどう伝えればいいのか。


でも、私が伝えたいことは、これ、なのだ。
これ、を伝えたい。



私は自分のことを「ヒーラー」とは名乗っていない。

世間一般で「ヒーラー」としてイメージされるものではないと思っているから。

あえて、「世間一般」という言葉を使ってみたが。
(「世間一般」なんて、ホントは存在しない。)


ヒーリングをする人、という意味の「ヒーラー」ではない。


「ヒーリング」を「する」

は、私の中には無い感覚だから。



ヒーリングは、勝手に起こるもの。

私(ヒーラー)の意図も、クライアント(ヒーリー)の意図も超えたところで。

そこでは、"ヒーラー" "ヒーリー"という境は消える。



ただ、"在る" の領域に入ったとき、

それは勝手に起こる。



そうあるべき本来の状態に戻るだけ。

何か(エネルギーやらなんやら)を加えるものではなく、

ただ、本来の姿が現れてくるだけ。



だから、do(する)ではなく、be(在る)。




「では始めます」と「特別な何か」をしなくても、

必要な時に勝手に起きる。



お客さまがそれを「ヒーリング」と呼ぶだけ。

私がしているのではない。




だから私は、自分のことを「ヒーラー」とは思っていない。

広義の「ヒーラー」ではある、ありたい、とは思っている。








敷居の低いヒーラーになりたい。
特別な言葉を使わないで、スピリチュアルを伝えられる人になりたい。
スピリチュアルの「ス」の字も知らない人とも、きちんと会話できるヒーラーになりたい。


ずっと昔から、そう思っていた。
自分が「ヒーラー」になるなんて、夢物語にしか思えなかったころから。

今、あらためてそう思う。





ACIMは、イエスというストーリーを通して語られる奇蹟。

イエス・キリストという物語を使った奇蹟の表現。



私は、私の物語を通して奇蹟を表現する。

「磔刑」も「復活」も、私の物語では起きなかった。

だから私は、私らしい言葉で、

誰でもわかりやすい言葉で、

ACIMを表現したかったのだ。

私なりの、A Course In Miracles 奇蹟の道を。




ACIMを生きるとは、

誰もみなが、

自分のストーリーを通して奇蹟を表現すること

ではないだろうか。




学ぶために学ぶのではなく、

生きるために学ぶ。




「ヘレンに学べ」と、かつて言われたことが、

またあらためて、

深く新鮮に蘇った。




ACIMに出会えて、本当に良かった。



「わたしのセッション」について、どんなふうに説明したらわかってもらえるのか。

言葉にならない領域のことだからと、
「言葉に出来ない」という言葉に逃げていたのかもしれない。

そう気がついて、
ダイアローグの方のブログで、それにトライしてみている。



やってみて気がついた。

これはいったいなんなんだろうか?
(これじゃ、結局、「振り出しに戻る」だけど。)


「ハラに落とす」という表現を使っているけれど、
確かに、そういうことをやっているのだが。

そこにとどまるわけではない。

わかった人はわかるのだけれど
「ハラ」は「腹」ではない。

"そこ" でわかると、世界が"そこ" にあることがわかる。

全てが自分の内にあることがわかるし、
"それ" イコール自分ということもわかる。

内と外がひっくり返る。

内も外も無い、ということがわかる。



トラウマとかブロックとか言ってる場合じゃない(笑)
ということがわかる。

そういうレベルの話をしているんじゃないんだよね...



私はいったい何をやっているんだろう???

そう考えたら、一瞬、怖くなった。
この私が、そんな大それたことをして!



意識したら、もう出来なくなるような気がした。

「オマエ、そんなえらそうなことを言うなら、いますぐやってみせろ!」

そう言われたらどうしよう。
アタシ、出来ないよぉ。
そしたら、嘘つきだって言われちゃう。
なんだハッタリカヨ、って軽蔑される。

そんな、怖れが自分の中からモクモクとわいてきた。




なので、

考えるのをやめた。




そしたら、わかった。



私がやってるわけじゃないから、いいんだ。


それを、「起こしている」部分もかすかにはあるけれど、
でも、それは「そうさせられている」ようなニュアンスが強い。
(おそらく伝わっていないような気がするが、モノローグなのでまあいいとしよう。)


それは勝手に起きているだけ。

私が「する」のではなく、
ただ、「起きる」。

「やれ」と言われて出来るものでもなく、
ただ、その「場」が整ったときに、「起きる」。


私は、「場」を整えているだけ。
私という「場」も含めて。

私もまた、その「場」の中の一部にすぎない。


そしておそらく、
「そのタイミング」の人が、ちょうど私のところにやってくるのだろう。

本人も自覚せず。
私も自覚せず。


私は、そのタイミングをキャッチしてつかまえるだけ。
そこだけは、少しだけ意識的に。


そして、それは「起こる」。





「悟り」や「目覚め」に、(ある意味)執着する人の気持ちが正直よくわからない。


こんな簡単なことじゃ、ダメなのか?
こんな当たり前で、普通のことじゃダメなのか?

こんな普通の人間のやっていることじゃ、ありがたみがないのか(笑)。


などと思う私は、
おそらく「覚醒していない人」なのだろう。


それでも、全くかまわない。
(いや、かまっているのか、こうやって(笑)。)


でも、そんなことよりも、
「生きる」の方に私の興味はあるのだ。



私が、今までのあらゆることにしっくり来なかったのは、
癒しでも目覚めでもなんでもその他関連する諸々、
みんな、「そのやり方」を習得することにこだわっているからじゃないかと思う。

「そのやり方」を習得して、
「その状態になること」を目標やゴールにしているけれど、

「その状態で何をするのか」が、一番大事なことじゃないのか?
それが、本当の目的地じゃないのか?

ずーっとそう思ってたんだよ。
でもまず、「そのやり方」を覚えろ!って言われて。
そうやっていると、やり方の習得、が目的地になって、
わけのわからないことになってしまった。


癒しでも目覚めでもなんでもいいけど、
それが手に入ったとしたら、

それでどんなふうに生きるの?
それでどんなふうに生きていきたいの?

それを考えた方がいいと思うんだ。

だって、その後も人生は続いていくから。

「生きる」ことはずっと続く。
そう、死ぬまで続くんだよね。





「まぼろし」という言葉の意味も、
もう変わってしまったような気がする。

私は、よりリアルにこの世界を感じられる。


幻だといったんわかって、
あらためて見るこの世界は

イキイキといのちにあふれ、
美しい。


何もかもが、美しく、愛おしい。


かつて、醜いと定義していたものも、
汚いと定義していたものも、

それも全部、あるがままで美しい。


「美しい」というコトバでは美し過ぎてウソ臭いかもしれない?

なにもかも全部、しょうがない。
だって、そうなんだから。

汚くても仕方がない。
だって、それはそうなんだから。

と言えば、よりわかってもらえるだろうか...。



だから結局ここに戻る。

生きることを素晴らしいと思いたい。







今までの定義がひっくりかえってしまう(かもしれない)セッション。

そんなものが「私のセッション」なのだけれど。

自分だって、不思議でしょうがない。



「悟れます。」とか言いきっちゃったら、カッコいいのだろうけど(爆)。

何を「悟り」と呼ぶのか、私にはわからない。

「悟りたい」と思っている人がイメージしている「悟り」とは、全く違うものだよ、ということだけは言える。

「悟りたい」と思っている人がイメージしている「悟り」が、本当にあるものかどうか、それも私にはわからない。


そんなに「凄いもの」欲しがらなくても、
これで幸せに生きられるなら、それでいいじゃん、と思う。



そういう普通のしあわせ、を提供できるのが、私のセッションなのかもしれない。


普通が一番偉大だってことも、知ってるけどねー。

はっはっは~(^_-)-☆






肌の色や髪の色

眼の色と同じように

「考えること」は、

私の持って生まれたもの。


それをやめるとかやめないとか、

そういう話じゃないんだ。