自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~ -32ページ目

自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~

自分で決めて、自分で生きる。
自分を愛して、自分を生きる。

「自我」をいじめすぎじゃないの?という疑問があるとき湧いてきた。

自我の罠、とか
自我の抵抗、とか
自我の死、とかとか。

まるで「自我さん」という悪代官みたいな人相(?!)の悪い奴がいるみたい。

そんなに悪者扱いしなくたって
そんなにいじめなくたっていいんじゃないの?
だって、「自我」も元々は一緒、ここから出てきたまぼろしであることには変わりない。
もしかしたら、自我も本質も、元を正せば同じものなんじゃないのかなぁ。

そんなにいじめないで、仲良く、そっと一緒にいてもいいんじゃないの。


そんなことを感じていた。


ACIMのワークブックを香咲弥須子さん版でやり始め、今朝、その本の前半にあるエッセイ部分を読んでいた。

ACIMで使われているegoは、自分勝手な利己主義はやめてちゃんと人のことを考えなさい、という意味のegoではありません。自分勝手な人、利他主義の人、親切な人、気前の良い人、どんな人でも持っている個の意識、我の意識のことです。
(『わたしは何も知らない』著者:香咲弥須子)


引用したい部分はほとんど全部になってしまうので、冒頭部分だけ。
これに続く文章を読んで、クリアになった。

ACIMが自我の声、と言っているのは、私の中にいる「自我」という頭の固い恐怖でカチンコチンのものから発せられている思考、なんてことではなくて、「私という個」がいるという思考体系のことなんだね。
「私が」と思うことが、「自我」なんだ。
だから、「わたしは何も知らない」ということ。



言葉で説明できないことだけれど、言葉でもわかろう・説明しようと試みることで、さらに理解が進んですっきりしていく。

わたしがこうやって、「ああ、そうか、わかった!」と自分の発見のように感じることも、もうずっと前にたくさんの人が気付いている事で、今さらこうやって得意げに語るのはどうなんだ?といういかにもな(笑)思考が出てくる。
でもそれでも、それでいいと思う。
既にいろんな人がたどった道を私もたどっていく。
そしてまた誰かが続いていく。
そういう意味でも私はひとりではない。
たくさんの「同志」たちと同じ道を歩んでいるのだな、それぞれのペースで、と思う。
「時間」すら本当は存在しないのだから、先とか後とかいうこともおかしな話ではあるけれど、学びのためには時間という概念も必要だということ。(ほらまたこんなふうに理解が進んでいく!)


ACIMが教えてくれるのは、もうひとつの思考体系です。
自我の思考体系とは別の、もうひとつの宇宙がほら、ここにあるでしょう、と。



師匠(って呼んだら違うって言うだろうけど(^^ゞ)がさんざん、「ACIMは哲学なんです!思考体系なんです!」と言っていたことがやっとわかり始めてきました。
今までの「怖れ」は、「ひとり」だと思うところから出てきている。

我慢してそこにとどまってみると、イエスと聖霊とともにいる、ということが(逆に)わかった。
そのアイデアを受け入れなければ、ここにとどまることはむずかしい。
そのアイデアを受け入れると、怖れは消えていく。


昨日の夜、「私はからだではない。」と突然思い、その恐怖から逃げようとし、でも少しだけ我慢してそこにとどまろうとし、そんなことがわかった。


そして、クリスマスの朝。
きれいに晴れた空。
あらためて、ACIMのデイリーワークを始めた。
(Lesson1だけは、何回読んだだろうか!)


メールボックスを見ると、友達、いや、同志、からの素晴らしい報告のメールが届いていた。
このうえないクリスマスプレゼント!

人間は変われるんだなぁ、と思った。
「こんなに素晴らしく変われるんだ。」ではなくて、
本来はこんなに素晴らしい存在なのに、いつのまにか窮屈な存在に変わってしまうことが出来るんだなぁ、と思った。
そしてもちろん、それを正して本来の姿に還っていくことが出来る。
それこそが、この世界に生まれてきた意味だろう。


メリークリスマス。
今この瞬間、すべてのものに感謝しています。

クリスチャンじゃないけれど、アバウトに祝っちゃう日本に生まれて良かったな、と思う(笑)。

「今まで思い出した過去生で共通しているテーマって何?」と、今日、友達に聞かれた。

「神さまが嫌いなこと。恨んでいること。」





今はもう神さまと和解している。
ということは、今生に生まれて来た目的・課題は果たしたということ?!

...
じわじわとからだのなかに暖かい嬉しさが広がった。

神さまと和解し、そしてやっとイエスと聖霊をみた(理解した・感じた・認めた)。

ひとりではない。
ともにあるということ。
そして、最後の仕事をする覚悟。
認め、受け入れること。

素晴らしいギフト。
なんて素敵なクリスマスプレゼント。

同志たちがいつもそばにいて、見守り助けてくれていたことにも気がつかない傲慢な私だったのに。


わたしにつながる全てのもの。
どうもありがとう。

今までずっと、聖霊、と言われてもピンとこなかった。
ましてや、イエス、に至っては、「えーと、一応、実在の人物だよね。」くらいの遠い人で、意識に上ることも無かった。
神、の方が逆にわかりやすい、と思っていた。





この前のクラスのときに、突然、質問された。

たとえば、新しい星にキリストとして行けと言われたら行きますか?

行きます!行きます!面白そう!
だって、初めから全部、自分の好きなようにやっていいんでしょう?
イエスと同じようにやれっていうわけではないでしょう?
だったら、楽しそう~!

まちがえたら、失敗したら、怖くないですか?

だって、既にイエスがこんなに大きなまちがいをおかしているわけだし。
それに比べたら、たいしたことは無いでしょう!


こんな会話をひとしきりしたあと、テキストを読んだ。


突然
私は気がついた
イエスの愛に。

イエスがどれほどの愛であるのか、という理解がからだじゅうを満たした。
何が起こったのかはわからない。
今でもわからない。

イエスという存在。
イエスの愛。
イエスという愛。

ただ、唐突に、わかった。
ただ理解が、流れ込んできた。
そんなふうに表現することしか出来ない。

そして、自分の傲慢さを恥じた。
無知とはいえ、これほど大きな愛に対して、自分はなんという傲慢なふるまいをしてきたのだろうかと。


「新しい星にキリストとして行きますか?」と尋ねられたとき、私は、「私が、ひとりで、行く」と考えていたのだ。
もしも、新しい星にキリストとして行くとしたら、それは、イエスとともに行くのだ。
今までこの世界を癒し続けてきたイエスの想い。
それとともに我々はある。
イエスの想いに重ね、新しい世界を創っていかなければ意味が無い。
そうでなければ、世界を創ることなど出来やしない。
「私」には何も出来ない。
ただ、イエスに聖霊に神に、全てゆだねるだけ。


今この瞬間もイエスは誤りを正し続けている。

だから、今この瞬間も、イエスとともにある、ということがわかる。

そして、新しい世界、ではなく、いまこの世界で既に、誰もがイエスとともにこの世界のキリストとして生きている。
久しぶりにダウンして、今日は一日、パジャマで引きこもりの日にした。
そういえば、会社を辞めてからは、からだのダウンはしていなかったなぁ、と気がつく。
まあ、今日も「寝れば治る」と思ったので、ひたすら眠ってほぼ回復。


それにしても、「頑張りたい」習性はいつまでたっても抜けない。
頑張りたいのは、きっと「根がまじめ」なんだと思う、昭和の人間だもの。
それは好きでやっているので、ま、いいか、と思っている。

でも、頑張りたいの奥(先?)には、「我慢」がセットになってることに気がついた。
まだまだいろんなこと、「我慢」してる。
ネガティブな想いから出てくる「我慢」はもちろん。
ポジティブな想いからも、それを表現しない、それがあることを許さない・認めないという「我慢」もある。

違うようでいて、それはどっちも同じこと。

どっちも、自分を表現しないってことでいえば、同じこと。


本当は、我慢なんかしないで頑張りたい。
それをわくわく、って言うんだろう。
我慢して頑張っているのは、「わくわくしなくちゃいけない」っていううそっぱちの頑張り。




「我慢」を選んじゃうその奥に在るのは、「怖れ」だ。

光も闇も同じように怖い。


怖い

怖い

怖い


3回言ってみても消えないねぇ...
怖いものは怖い。

もうしばらく、これと仲良くしていたいのかなぁ。