「自我」をいじめすぎじゃないの?という疑問があるとき湧いてきた。
自我の罠、とか
自我の抵抗、とか
自我の死、とかとか。
まるで「自我さん」という悪代官みたいな人相(?!)の悪い奴がいるみたい。
そんなに悪者扱いしなくたって
そんなにいじめなくたっていいんじゃないの?
だって、「自我」も元々は一緒、ここから出てきたまぼろしであることには変わりない。
もしかしたら、自我も本質も、元を正せば同じものなんじゃないのかなぁ。
そんなにいじめないで、仲良く、そっと一緒にいてもいいんじゃないの。
そんなことを感じていた。
ACIMのワークブックを香咲弥須子さん版でやり始め、今朝、その本の前半にあるエッセイ部分を読んでいた。
ACIMで使われているegoは、自分勝手な利己主義はやめてちゃんと人のことを考えなさい、という意味のegoではありません。自分勝手な人、利他主義の人、親切な人、気前の良い人、どんな人でも持っている個の意識、我の意識のことです。
(『わたしは何も知らない』著者:香咲弥須子)
引用したい部分はほとんど全部になってしまうので、冒頭部分だけ。
これに続く文章を読んで、クリアになった。
ACIMが自我の声、と言っているのは、私の中にいる「自我」という頭の固い恐怖でカチンコチンのものから発せられている思考、なんてことではなくて、「私という個」がいるという思考体系のことなんだね。
「私が」と思うことが、「自我」なんだ。
だから、「わたしは何も知らない」ということ。
言葉で説明できないことだけれど、言葉でもわかろう・説明しようと試みることで、さらに理解が進んですっきりしていく。
わたしがこうやって、「ああ、そうか、わかった!」と自分の発見のように感じることも、もうずっと前にたくさんの人が気付いている事で、今さらこうやって得意げに語るのはどうなんだ?といういかにもな(笑)思考が出てくる。
でもそれでも、それでいいと思う。
既にいろんな人がたどった道を私もたどっていく。
そしてまた誰かが続いていく。
そういう意味でも私はひとりではない。
たくさんの「同志」たちと同じ道を歩んでいるのだな、それぞれのペースで、と思う。
「時間」すら本当は存在しないのだから、先とか後とかいうこともおかしな話ではあるけれど、学びのためには時間という概念も必要だということ。(ほらまたこんなふうに理解が進んでいく!)
ACIMが教えてくれるのは、もうひとつの思考体系です。
自我の思考体系とは別の、もうひとつの宇宙がほら、ここにあるでしょう、と。
師匠(って呼んだら違うって言うだろうけど(^^ゞ)がさんざん、「ACIMは哲学なんです!思考体系なんです!」と言っていたことがやっとわかり始めてきました。