ここのところ、また夢をぼちぼち見る。
今朝もすごいストーリーのある夢を見ていたのだが、時間が経過して詳しい内容はだいぶ忘れてしまった。
でも、何かとても面白い経験だったような気がするので、書いておくことにした。
とにかく何かの理由で、私はまったく自分の意志に沿わないことを強要されている。
誰か(もしくは何か)を人質に取られているとか、虐待されているような感じで、やりたくないことを無理やりやれと言われている。
その「やりたくないこと」は、人格が崩壊するような、人間の尊厳にかかわるような、それほどの苦痛を伴うことのような印象。
「やりたくないこと」をする目的地に向かって、川か用水路のような流れ沿いの道を歩いている。
でも、どうしても耐えきれなくなって、逃げられないことはわかっているのに、違う方向に走って逃げだす。
後ろから追手がくるのを感じながら必死で走ると、道の途中にひとりの女の子が立っている。
(彼女は実際の知り合いだけど、数年前に数回会った程度の知り合い。)
「気持ちはわかるけど、逃げても無駄だからやめた方がいいよ。」
彼女は敵側の人間だけれど、私に同情している。
でも、どうにも出来ない。何もしてあげられない。(ということをお互い知っている。)
彼女は力無く行く手を阻み、もみ合いになる。
が、彼女の体はまったく人間のような手ごたえが感じられず、あっけなく柵から川へと転落してしまう。
落ちる時に、コンクリートの壁に頭がぶつかる「ゴン!」という音がして、彼女を殺してしまったということがわかる。
故意ではないとはいえ、なんということをしてしまったんだろう。
正当防衛かもしれないけれど、取り返しのつかないことをしてしまった。
私はなんて罪深い人間なんだろう。
どんな理由であれ、どんな状況であれ、私の罪は罪。
それは消えない。元に戻すことは出来ない。
どうしてもやりたくないことから逃げるために、もっとひどいことをしてしまった。
自分を守るために、他人を犠牲にしてしまった。
もうどうしていいかわからない!
と、気が狂いそうな状況で目が覚めていった。
半覚醒の状態で、「罪」「罪悪感」というような感情が渦を巻いていた。
「許されない」
「罪」
「責任」
そんなイメージで頭がぐるぐるしながら、夢から覚めていく。
半分覚めた頭では、「これってどういう意味?」って考えている。
この「罪」っていったい何?
これは何を象徴しているの?
人間の尊厳にかかわるようなことって、どういうこと?
そもそもの「罪」?
罪責感???
ふと
『私は意味のない世界をみている』
という言葉が浮かんだ。
『なんの意味もない』
『無いものを見ている』
『私の勝手な思考が意味の無い世界を見せている』
そんな言葉が後から後から、湧いて出てきた。
これって、ACIMのワークブック?!
そう気がついたら、なんだか体中の力が抜けた。
ああ、
「意味の無い思いが、意味のない世界を見せている」
まさにそういうこと!
全部、夢なんだよね。
そういうこと!
勝手に創りだした夢の世界。
「罪」って何?って考え分析しようとする半分と、
「意味の無い世界」なんだね、と納得する半分。
それを行ったり来たりしながら、さらに眠り落ちた。
目がさめかけても眠くて眠くて、また眠る。
浅い眠りと深い眠りを繰り返し、頭の半分で何かを考えたりしながら、眠りに眠った。
単なる思い込みの激しさ、かもしれないけれど(笑)。
こんな夢を見ました。
「瑣末なことほど私にたずねなさい。」というのが、マイブームです(^^ゞ
「来年」と思っていたので、まだ先のことのような気がしていたのだけれど、気がつけばもう今週末!
名古屋です、名古屋です、まってろ!名古屋ドーム!!です。
(今日は大阪、もうすぐ始まる時刻!)
今週末のための服と靴、セレブのようにオーダーしといたので(^^ゞ、昨日はセールに参戦。
出かけようとコートを着たら、「それで行くのかい?」と。
ついついぼんやりと着替えて、今まで会社に行くときとかによく着ていた服を着ていた。
ざっくり言うと、これじゃ思いっきり「おばさん」じゃないか!!
ライブ参戦のための服を買いに行くなら、それなりの恰好ってもんがあるだろ、と(~_~;)
そうですよね、そうですよね、とせめてもうちょっとシュッとした服(笑)に着替え。
今までよく買っていたブランドは、なんかもう違う気がしたので、でも行ったら今までのくせで買っちゃいそうな気がしたので寄らずに、「どこなの?どこなの?」と思いながらデパート内をブラブラ。
普段は足を踏み入れないエリアに、セールのどさくさに紛れればいいっか~と思って行ってみたら、どストライクな服、発見!
今までまったく知らなかったブランド。
ブラブラしながら、「最近、服を買う感度が鈍ってるから、セールでもちゃんと接客してくれる店がいいなぁ。」とふと思ってたら、その通り、「お洋服大好き!」があふれるおねえさんが対応してくれた。
若い子向けのブランドなのかなと思ったら、そういうわけではないらしい。
私が着てもいいのかしら?可愛すぎないかなぁとちょっとためらっていたら、「コンセプトは母と娘なんです!」と(笑)。
しかも、肩幅あるせいか、袖丈の合うコートになかなか出会わないのだけれど、試着した瞬間、「あ~、手が出ない。ちょうどいい!」と、サイズがピッタリ。
しかも、お値段半額!
普段は絶対手が出ない服を半額で買うのがセールの醍醐味、女子の歓び♪
「楽しいお買い物をさせてくれてありがとう。」って、いろんなミラクルに感謝しました。
でも、なぜにコートだけ?
会場に入ったら、脱いじゃうんだけど(~_~;)
でも、ま、いいっか。
さて、明日は美容院♪
ひゃ~、すでにドキドキしてきた。
年に一度の「お祭り」だもんね~。
「来年」と思っていたので、まだ先のことのような気がしていたのだけれど、気がつけばもう今週末!
名古屋です、名古屋です、まってろ!名古屋ドーム!!です。
(今日は大阪、もうすぐ始まる時刻!)
今週末のための服と靴、セレブのようにオーダーしといたので(^^ゞ、昨日はセールに参戦。
出かけようとコートを着たら、「それで行くのかい?」と。
ついついぼんやりと着替えて、今まで会社に行くときとかによく着ていた服を着ていた。
ざっくり言うと、これじゃ思いっきり「おばさん」じゃないか!!
ライブ参戦のための服を買いに行くなら、それなりの恰好ってもんがあるだろ、と(~_~;)
そうですよね、そうですよね、とせめてもうちょっとシュッとした服(笑)に着替え。
今までよく買っていたブランドは、なんかもう違う気がしたので、でも行ったら今までのくせで買っちゃいそうな気がしたので寄らずに、「どこなの?どこなの?」と思いながらデパート内をブラブラ。
普段は足を踏み入れないエリアに、セールのどさくさに紛れればいいっか~と思って行ってみたら、どストライクな服、発見!
今までまったく知らなかったブランド。
ブラブラしながら、「最近、服を買う感度が鈍ってるから、セールでもちゃんと接客してくれる店がいいなぁ。」とふと思ってたら、その通り、「お洋服大好き!」があふれるおねえさんが対応してくれた。
若い子向けのブランドなのかなと思ったら、そういうわけではないらしい。
私が着てもいいのかしら?可愛すぎないかなぁとちょっとためらっていたら、「コンセプトは母と娘なんです!」と(笑)。
しかも、肩幅あるせいか、袖丈の合うコートになかなか出会わないのだけれど、試着した瞬間、「あ~、手が出ない。ちょうどいい!」と、サイズがピッタリ。
しかも、お値段半額!
普段は絶対手が出ない服を半額で買うのがセールの醍醐味、女子の歓び♪
「楽しいお買い物をさせてくれてありがとう。」って、いろんなミラクルに感謝しました。
でも、なぜにコートだけ?
会場に入ったら、脱いじゃうんだけど(~_~;)
でも、ま、いいっか。
さて、明日は美容院♪
ひゃ~、すでにドキドキしてきた。
年に一度の「お祭り」だもんね~。
私は、外からは見えない「ハンデキャップ」を持っている。
それを「ハンデキャップ」と呼ぶのはどうかとも思うが、それがあるために、しなかったこと・出来なかったことがたくさんある。
日常生活のささいなことから、職業に関係するような大きなことまでありとあらゆる場面で、本心とは違う選択をしてきた。そのうち、本当に自分が欲しているものなどわからなくなった。まずその前提があってのあらゆる選択だったから。その前提の範囲内で、自分の出来ることを選んできた。
だから、これさえなければ私の人生はまったく違ったものになっていただろう、とずっとずっと思ってきた。
20代の初めから、いや気がついたのはもっともっと前、高校生くらいから、ずっと「それ」と戦ってきた。
誰にも話せなかった。
親兄弟にも、一番親しい友達にも。
もちろん、病院にも行った。
でも対処療法だけで、「根治」出来るわけでは無かった。
そして、自分の内面を見るようになり、心理療法からスピリチュアルな世界へと足を踏み入れるようになった。
その過程で、私はこれがあったからこそこの道に来れたんだな、と思うようになった。
この「ハンデ」を克服するために、たくさんのものと出会って、その結果、どんどん豊かな自分になっていった。
「よく今まで生き残ってきた。」
そんな声が自分の中から出てきたこともあった。
よくぞ今まであきらめずに生きてきたなぁ、と。
よく頑張ってきたな、自分。エライ!と。
でもそれでもいつもいつも思っていたのは、「素晴らしい経験をしました。素晴らしい気付きを得ることが出来ました。でも、これはなくなりません。これに関しては苦しいままです。」だった。
もう大丈夫だから、もうこれがなくても私は生きていけるから、これを手放してもいいよ。
そう思っても、何も変わらなかった。
12月に、やすらぎの部屋の大先輩羽根さんのグループワークに参加した。
まったく面識のない方で、普段なら絶対に行かないと思うのだが、なぜか「行っとこうかな」と思った。
申し込みをしてからは、本当に「導かれていた」「サポートされていた」というしかないような展開だった。
そこでまったく不思議なことに、今まで誰にもちゃんと全部話していなかったことを洗いざらい全部しゃべった。
少しずつ、本当に心を寄せることの出来る人には話を出来るようになってはきていたけれど、こんなに全部話したことは無かったってくらい、今までの残念な気持ち(笑)のありったけをしゃべっていた。
初対面の人に(爆)。
羽根さんは、「それは『松葉杖』だったような気がします。」と。
その時点では、私にとって『松葉杖』という単語はいいイメージではなく、いまひとつしっくりとは来なかった。
やっぱり、ハンデを補うもの?
松葉杖をつかなくてはいけないような、障害を自分は持っているということなんだろうか?
やっぱりこの先もずっと、松葉杖のお世話にならなくてはいけないんだろうか?
今までもずっとそうだったから、このことで特にショックを受けたということも無く、ありがたい言葉として受け取っていた。
ただ、いまひとつ、自分がわかっていないな、ということだけはわかっていた。
今朝、こんなblogの記事を読んだ。
あらゆる病は「分離」から生じる。つまり、もとを正せば私たちが「神から離れてバラバラになった」という考えを現実だと思い込んでいるところから生じるのである。ま、神の御心と一つでありその一部でもあるという「本来のあり方」なら病など起こりようがない。たった一瞬でも完全にこの思い込みを手放せれば病は去ってしまう、つまり癒しがもたらされるのである。マインドの異常が正されるからである。
何がどう結びついたのかわからないけれど、わかった、松葉杖なんだね、と。
「間違った道に行かないように、いつも支えてくれていたんじゃないでしょうかね。」
そんなふうに言ってくれたことを思い出した。
『松葉杖』って、『支える』ためのものなんだ。
ネガティブな意味を与えているのは、私の思考、過去の記憶だったのだと気がついたのは、ワークブックを始めたおかげです(笑)。
もしこの「ハンデ」が無かったらどうなっていたと思います?
きっと、バリバリ突っ走って、ガシガシ仕事してたと思います。
そんなふうに突っ走らないためのものなんじゃないでしょうかねぇ。
そういうふうに仕事をして成功することで世の中に貢献することも出来たのだと思いますが、そうじゃない、そっちの道じゃないよ、と(笑)。
そんな会話がよみがえった。
そのときには、自分の中には「残念」な気持ちの方が強かった。
それで、良かったのに。
それが、良かったのに。
「ここでこんなことしてる人は、きっと過去にイエスに会っている人だと思いますよ。」
コオさんが、クラスでこんなことを言っていた。
私は会った記憶はないけれど(笑)、会ったかどうかはもうどうでもよくて、ただただこっち方面(笑)にご縁があったのだな、ということだけはわかる。
わかるっていうか、もう認めざるを得ないというか。
私は頼んでいません!
私は選んでいません!
今までずっとずっとそう言い続けて抵抗してきた。
わざわざ、太字でフォントをでかくしたくなるほど強力にヽ(^o^)丿
だからこそのハンデ、松葉杖だったのかもしれない。
もちろん、悪い意味ではなく、いい意味で。
私をずっと支えてくれていたもの。
それがどんな形をとるのかは、「私」にはわからないことなんだね。
これを「苦しみ」と受け取るか、「修行」として受け取るか、「導き」として受け取るか、「愛」として受け取るか...。
いろんな解釈も出来るのだろうけれど、もうそれさえもどうでもいいんだろう。
回り道でも遠回りでもない、最善の道を歩いて来たのだと思う。
いつもひとりきりで歯を食いしばって歩いてきたつもりだったけれど、いつも支えてくれる杖があった。
ずっとずっと最初から、いつも支えられていたのだ。
私が気が付きさえすれば、荷物を預けられる人はそばにいたのだ。
私が手放さなければ、荷物は受け取ってもらえない。
全てを預けること。
それがこれからの私の仕事、だと思う。
それを「ハンデキャップ」と呼ぶのはどうかとも思うが、それがあるために、しなかったこと・出来なかったことがたくさんある。
日常生活のささいなことから、職業に関係するような大きなことまでありとあらゆる場面で、本心とは違う選択をしてきた。そのうち、本当に自分が欲しているものなどわからなくなった。まずその前提があってのあらゆる選択だったから。その前提の範囲内で、自分の出来ることを選んできた。
だから、これさえなければ私の人生はまったく違ったものになっていただろう、とずっとずっと思ってきた。
20代の初めから、いや気がついたのはもっともっと前、高校生くらいから、ずっと「それ」と戦ってきた。
誰にも話せなかった。
親兄弟にも、一番親しい友達にも。
もちろん、病院にも行った。
でも対処療法だけで、「根治」出来るわけでは無かった。
そして、自分の内面を見るようになり、心理療法からスピリチュアルな世界へと足を踏み入れるようになった。
その過程で、私はこれがあったからこそこの道に来れたんだな、と思うようになった。
この「ハンデ」を克服するために、たくさんのものと出会って、その結果、どんどん豊かな自分になっていった。
「よく今まで生き残ってきた。」
そんな声が自分の中から出てきたこともあった。
よくぞ今まであきらめずに生きてきたなぁ、と。
よく頑張ってきたな、自分。エライ!と。
でもそれでもいつもいつも思っていたのは、「素晴らしい経験をしました。素晴らしい気付きを得ることが出来ました。でも、これはなくなりません。これに関しては苦しいままです。」だった。
もう大丈夫だから、もうこれがなくても私は生きていけるから、これを手放してもいいよ。
そう思っても、何も変わらなかった。
12月に、やすらぎの部屋の大先輩羽根さんのグループワークに参加した。
まったく面識のない方で、普段なら絶対に行かないと思うのだが、なぜか「行っとこうかな」と思った。
申し込みをしてからは、本当に「導かれていた」「サポートされていた」というしかないような展開だった。
そこでまったく不思議なことに、今まで誰にもちゃんと全部話していなかったことを洗いざらい全部しゃべった。
少しずつ、本当に心を寄せることの出来る人には話を出来るようになってはきていたけれど、こんなに全部話したことは無かったってくらい、今までの残念な気持ち(笑)のありったけをしゃべっていた。
初対面の人に(爆)。
羽根さんは、「それは『松葉杖』だったような気がします。」と。
その時点では、私にとって『松葉杖』という単語はいいイメージではなく、いまひとつしっくりとは来なかった。
やっぱり、ハンデを補うもの?
松葉杖をつかなくてはいけないような、障害を自分は持っているということなんだろうか?
やっぱりこの先もずっと、松葉杖のお世話にならなくてはいけないんだろうか?
今までもずっとそうだったから、このことで特にショックを受けたということも無く、ありがたい言葉として受け取っていた。
ただ、いまひとつ、自分がわかっていないな、ということだけはわかっていた。
今朝、こんなblogの記事を読んだ。
あらゆる病は「分離」から生じる。つまり、もとを正せば私たちが「神から離れてバラバラになった」という考えを現実だと思い込んでいるところから生じるのである。ま、神の御心と一つでありその一部でもあるという「本来のあり方」なら病など起こりようがない。たった一瞬でも完全にこの思い込みを手放せれば病は去ってしまう、つまり癒しがもたらされるのである。マインドの異常が正されるからである。
何がどう結びついたのかわからないけれど、わかった、松葉杖なんだね、と。
「間違った道に行かないように、いつも支えてくれていたんじゃないでしょうかね。」
そんなふうに言ってくれたことを思い出した。
『松葉杖』って、『支える』ためのものなんだ。
ネガティブな意味を与えているのは、私の思考、過去の記憶だったのだと気がついたのは、ワークブックを始めたおかげです(笑)。
もしこの「ハンデ」が無かったらどうなっていたと思います?
きっと、バリバリ突っ走って、ガシガシ仕事してたと思います。
そんなふうに突っ走らないためのものなんじゃないでしょうかねぇ。
そういうふうに仕事をして成功することで世の中に貢献することも出来たのだと思いますが、そうじゃない、そっちの道じゃないよ、と(笑)。
そんな会話がよみがえった。
そのときには、自分の中には「残念」な気持ちの方が強かった。
それで、良かったのに。
それが、良かったのに。
「ここでこんなことしてる人は、きっと過去にイエスに会っている人だと思いますよ。」
コオさんが、クラスでこんなことを言っていた。
私は会った記憶はないけれど(笑)、会ったかどうかはもうどうでもよくて、ただただこっち方面(笑)にご縁があったのだな、ということだけはわかる。
わかるっていうか、もう認めざるを得ないというか。
私は頼んでいません!
私は選んでいません!
今までずっとずっとそう言い続けて抵抗してきた。
わざわざ、太字でフォントをでかくしたくなるほど強力にヽ(^o^)丿
だからこそのハンデ、松葉杖だったのかもしれない。
もちろん、悪い意味ではなく、いい意味で。
私をずっと支えてくれていたもの。
それがどんな形をとるのかは、「私」にはわからないことなんだね。
これを「苦しみ」と受け取るか、「修行」として受け取るか、「導き」として受け取るか、「愛」として受け取るか...。
いろんな解釈も出来るのだろうけれど、もうそれさえもどうでもいいんだろう。
回り道でも遠回りでもない、最善の道を歩いて来たのだと思う。
いつもひとりきりで歯を食いしばって歩いてきたつもりだったけれど、いつも支えてくれる杖があった。
ずっとずっと最初から、いつも支えられていたのだ。
私が気が付きさえすれば、荷物を預けられる人はそばにいたのだ。
私が手放さなければ、荷物は受け取ってもらえない。
全てを預けること。
それがこれからの私の仕事、だと思う。
いつになく静かな大晦日。
毎年、30日まで普通に働いて、年末年始も自宅でWatch、とかやっていた。
それでもなんか一生懸命、ご馳走揃えたり、お正月っぽい料理作ったりして、がちゃがちゃ忙しい年の瀬だった。
今年は何もやることがないから、ゆっくり思う存分おせちでも作ればいいというのに、忙しさが無くなったら、これまたまったくやる気が無くなったのが面白い。
今年の年末年始のコンセプトは、「何もしない」。
ただし、自分では(爆)。
お料理も一切しない。買い出しにも行かない。
ネットでおせちもお酒もとりよせた。(そう、楽しむことは楽しみたい!)
今日はもうあとは、ゆっく~~~りお風呂に入って、夜7時にはテレビの前で正座してます!
ハードディスクの整理もぎりぎり間に合ってる模様ヽ(^o^)丿
今年は会社員を辞めたという大事件があった年なのに、「激動の一年でした!」という感覚がまったくない。
絶対に出来るわけが無い、と思っていたはずのことなのに、いつのまにかそうなっていた。
うん、本当に、気がついたらこうなっていた、というのが一番しっくりくる表現。
あんなに大変だと思っていたのもただの思い込みに過ぎなくて、やってみたら大したこと無かった(^_^;)
悲壮な決心など何も無く、ごく自然にそうなっていた。
この先の計画もまったく無く、どうやって生きていくのかなぁとたまに思うのだけれど、自分の中に心配も不安もなくて。
かといって「自由だよ!」なんて、はしゃいでいるわけでもなく。
ただただ、心の中は静か。
こう書くと、もうなんの悩みも苦しさもないのかと思う人も、もしかしたら(笑)いるかもしれないけれど、そういうものは普通にある。
でも、あっても大丈夫。
それに引きずられない。
それがあることが、幸せを妨げる理由にはならない。
それによって、いつまでも心がわいわい大騒ぎすることはない。
今年の始めを振り返ってみたら、こんなこと書いてた。
ACIMと「神の使者」で始まっていて、結局また振り出しに戻ってるわ~(笑)。
「振り出しに戻る。」じゃなくて、「原点に還る」と言おう!
結局、たどりついたのがここ、なんだろう。
会社を辞めたということよりも、自分の道がわかったということの方が大きな出来事だった。
(つまり、「今年の抱負」はちゃんと実現している。)
自分が誰と一緒に歩いてきたのか、今まで気がつかなかっただけで、いつもともにいてくれる存在があるということ。
それに気がついたことが今年の一番大きな出来事。
そしてそれは、とてもとても静か。
それに気がついたら、いつも静かで深く暖かいもので満たされている、ということを感じられる。
「来年の抱負」は、もうどうでもいい(笑)、このままでいいかなぁって思う。
三次元的な思いはちょこちょこあるにせよ、それはもうかなってもかなわなくてもどっちでもいいことで、どっちにしろ満たされていることにかわりはない。
来年もよいお年に決まってる!
わたしもあなたもみんなみんな。
本当にどうもありがとう。
これからもどうぞよろしくお願いします。
毎年、30日まで普通に働いて、年末年始も自宅でWatch、とかやっていた。
それでもなんか一生懸命、ご馳走揃えたり、お正月っぽい料理作ったりして、がちゃがちゃ忙しい年の瀬だった。
今年は何もやることがないから、ゆっくり思う存分おせちでも作ればいいというのに、忙しさが無くなったら、これまたまったくやる気が無くなったのが面白い。
今年の年末年始のコンセプトは、「何もしない」。
ただし、自分では(爆)。
お料理も一切しない。買い出しにも行かない。
ネットでおせちもお酒もとりよせた。(そう、楽しむことは楽しみたい!)
今日はもうあとは、ゆっく~~~りお風呂に入って、夜7時にはテレビの前で正座してます!
ハードディスクの整理もぎりぎり間に合ってる模様ヽ(^o^)丿
今年は会社員を辞めたという大事件があった年なのに、「激動の一年でした!」という感覚がまったくない。
絶対に出来るわけが無い、と思っていたはずのことなのに、いつのまにかそうなっていた。
うん、本当に、気がついたらこうなっていた、というのが一番しっくりくる表現。
あんなに大変だと思っていたのもただの思い込みに過ぎなくて、やってみたら大したこと無かった(^_^;)
悲壮な決心など何も無く、ごく自然にそうなっていた。
この先の計画もまったく無く、どうやって生きていくのかなぁとたまに思うのだけれど、自分の中に心配も不安もなくて。
かといって「自由だよ!」なんて、はしゃいでいるわけでもなく。
ただただ、心の中は静か。
こう書くと、もうなんの悩みも苦しさもないのかと思う人も、もしかしたら(笑)いるかもしれないけれど、そういうものは普通にある。
でも、あっても大丈夫。
それに引きずられない。
それがあることが、幸せを妨げる理由にはならない。
それによって、いつまでも心がわいわい大騒ぎすることはない。
今年の始めを振り返ってみたら、こんなこと書いてた。
ACIMと「神の使者」で始まっていて、結局また振り出しに戻ってるわ~(笑)。
「振り出しに戻る。」じゃなくて、「原点に還る」と言おう!
結局、たどりついたのがここ、なんだろう。
会社を辞めたということよりも、自分の道がわかったということの方が大きな出来事だった。
(つまり、「今年の抱負」はちゃんと実現している。)
自分が誰と一緒に歩いてきたのか、今まで気がつかなかっただけで、いつもともにいてくれる存在があるということ。
それに気がついたことが今年の一番大きな出来事。
そしてそれは、とてもとても静か。
それに気がついたら、いつも静かで深く暖かいもので満たされている、ということを感じられる。
「来年の抱負」は、もうどうでもいい(笑)、このままでいいかなぁって思う。
三次元的な思いはちょこちょこあるにせよ、それはもうかなってもかなわなくてもどっちでもいいことで、どっちにしろ満たされていることにかわりはない。
来年もよいお年に決まってる!
わたしもあなたもみんなみんな。
本当にどうもありがとう。
これからもどうぞよろしくお願いします。
今までずっと、30日まで仕事の会社に勤めていたので、世間的に年末がいつまで仕事なのかわかっていなかったのだけれど、28日が御用納めなんですねぇ。知らなかった。
そんなわけで、今日から年末休みに入ったという友達が遊びに来てくれて、交換セッション会(^^ゞ
私は最近習得した波動調整、彼女はタロット。
今後のことを占ってもらって、すご~くためになるかつ自分では考えが及ばなかったかつ具体的なアドバイスをもらって、ああいい締めくくりになりました。
どうもありがとう♪
その後もACIMが基本にある者同志、話は尽きず、結局延々しゃべり倒す。
そんな中で、来年に向けてヒットした話題。
「セレブのようにオーダーする。」
引き寄せの法則にしろ、神さまにでも宇宙にでもなんでもいいけどお願いする時は、ファーストクラスのセレブのようにオーダーする。
頼んだことは当然かなえられる、サービスが提供されてあたりまえ、っていう気持ちでオーダーしないとね。
エコノミーでオーダーしてるから叶わないんだよねぇ。
「お願いします。かなえてください。」じゃなくて、「あ、これお願い。」って言ってあとは忘れる。
だって、頼んだものは当然出てくるって思ってるから。
出てこなかったらどうしよう、なんて考えることもない。
いつになったら出てくるのかしらとか、間にあうのかしらなんて心配することもない。
その心意気って言うか、それが当たり前って世界に生きている自分になれたら、かなうんだよねー。
でも、今、ファーストクラスに座ったらどぎまぎしてキョドっちゃうかも。
ファーストクラスにふさわしい自分になれば、「のどが渇いたな。」って思っただけで、「お水はいかがですか。」って出てくるようになるのかもしれないねぇ。
などと盛り上がって、来年のテーマとしては、「セレブのようにオーダーしよう。」と。
最上級のものが出てくるのが当たり前って、そうふるまって行こう!
それにふさわしい自分、そういう人だったらどんなふうにふるまうのかなってことがコツ?
なんにも心配する必要なんて無い。
うまくいくのが当たり前。
そんな世界で、楽しく楽しく楽しんでいこうね。
そんなわけで、今日から年末休みに入ったという友達が遊びに来てくれて、交換セッション会(^^ゞ
私は最近習得した波動調整、彼女はタロット。
今後のことを占ってもらって、すご~くためになるかつ自分では考えが及ばなかったかつ具体的なアドバイスをもらって、ああいい締めくくりになりました。
どうもありがとう♪
その後もACIMが基本にある者同志、話は尽きず、結局延々しゃべり倒す。
そんな中で、来年に向けてヒットした話題。
「セレブのようにオーダーする。」
引き寄せの法則にしろ、神さまにでも宇宙にでもなんでもいいけどお願いする時は、ファーストクラスのセレブのようにオーダーする。
頼んだことは当然かなえられる、サービスが提供されてあたりまえ、っていう気持ちでオーダーしないとね。
エコノミーでオーダーしてるから叶わないんだよねぇ。
「お願いします。かなえてください。」じゃなくて、「あ、これお願い。」って言ってあとは忘れる。
だって、頼んだものは当然出てくるって思ってるから。
出てこなかったらどうしよう、なんて考えることもない。
いつになったら出てくるのかしらとか、間にあうのかしらなんて心配することもない。
その心意気って言うか、それが当たり前って世界に生きている自分になれたら、かなうんだよねー。
でも、今、ファーストクラスに座ったらどぎまぎしてキョドっちゃうかも。
ファーストクラスにふさわしい自分になれば、「のどが渇いたな。」って思っただけで、「お水はいかがですか。」って出てくるようになるのかもしれないねぇ。
などと盛り上がって、来年のテーマとしては、「セレブのようにオーダーしよう。」と。
最上級のものが出てくるのが当たり前って、そうふるまって行こう!
それにふさわしい自分、そういう人だったらどんなふうにふるまうのかなってことがコツ?
なんにも心配する必要なんて無い。
うまくいくのが当たり前。
そんな世界で、楽しく楽しく楽しんでいこうね。