自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~ -25ページ目

自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~

自分で決めて、自分で生きる。
自分を愛して、自分を生きる。

最初にひとつのうそがあった。
そのうそから、またうそが生まれ、連なり、そしてこの現実ができた。

最初のうそ。

罪があるということ
あやまちがあるということ。

はじまりには罪もあやまちも何もない。

はじまりすらなかった。

右も左もなく
光も闇もなく
男性性も女性性もない。

愛も怖れもなく
ただ 何もなかった。



そこに植えつけられたひとつのうそ。



「植えつけた」のは誰? 何?

ひとつの その外にあるのは何?
ひとつ(Oneness)の外 もあるの?




それを知る領域には、この肉体を持ったままでは行けない。
それを知るのは、この肉体を離れたあとの話。
(今はまだそれを背負わなくていい。)

それは未来でもあり、過去でもある。

あなたは必ずそれを知る(体験する)のだから
あせる必要はない。
(今はそのときではない。)

なぜなら、我々は永遠の存在だから。
時間軸は関係ない。幻だ。

それはこれから起きることでもあり、既に起こったことでもある。
だから、今、それに思い悩むことはない。
(今はそのときではない。今はそれを知らなくてよい。それをしなくてよい。)

確か2年くらい前のことだったと思う。

目黒の駅前の横断歩道で信号待ちをしていたら、知り合いにバッタリ会った。
「あれ~、こんなところで会うなんて~。」とびっくりしたのだけれど、
もっとびっくりしたのは、その彼女からこんなことを言われたこと。


むつこちゃんに伝言があったの~。
だからそのうちどこかで会うと思ってた。
この前、言霊ワークっていうのに行ってきて。
日本語の音はそれぞれに意味があるってお勉強をしたの。
だから自分の名前にも、その名前を持って生まれた意味があるの。
で、むのつく名前ってむつこかむつみくらいしかないから、
もしもむつこさんかむつみさんがお友達にいたら教えてあげてくださいって、先生に言われたの。
むつこって名前は、人と人とをすぶ・なぐって役目があるの。
でもあんまりずかしく考えすぎちゃうとまっちゃうから、そこのところは気をつけてね。
すびめとか作っちゃわないように(^^ゞ



そう言って、彼女はカッコよく去っていた(笑)。

私、友達少ないし。
人見知りだし。
社交性無いし。
それで人をつなぐことなんて出来るのかな???

なんだか、ぽかーんとした気持ちだった。



それからしばらくして、「魂の目的を知る」というようなタイトルのあるワークショップに参加した。
それまでそういうことには興味が無いというか、「どうでもいい。」だった。
わざわざ取りたてて考えなくてもいいんじゃないの?と思っていたのだけれど、
そのときはなぜかわざわざ会社を休んで参加した。
彼女の言葉が頭に残っていたせいかもしれない。
最後に自分の中から出てきた言葉は、やはり「むすぶ・つなぐ」だった。

人と人とを結ぶこと、つなぐこと、それが私の使命。
この名前を持って生まれてきたこと
この両親のもとに生まれたこと
この名前を私に贈ってくれた両親に感謝します。


こんな想いが出てきたのは初めてのことだった。
なにしろ他人行儀な家族で、親兄弟が一番遠い存在だったから。
なぜかあまり好きではなかった自分の名前。
自分自身を好きになっていく過程でだんだんと好きになってきてはいた。
このときに本当にああこの名前で良かったな、心底嬉しい!と思えるようになった。


この1か月の怒涛の変化の中で、またふと思った。
もしかしたら、「人と人とを結ぶ・つなぐ」だけでじゃなくて、神さま(と呼ばれるようなもの)、それはつまり忘れていた自分自身と「むすぶ・つなぐ」ということもあるのかな、と。

そしてここ数日またそんな出来事があって...。
でももう以前のように驚かない・たじろがない自分にも出会った。



あると知っているのに。
そこにあることはわかっているのに。

でもつながれない自分自身。
自分の本質。

それにつながること。
そこに戻ること。

もう一度結び直す。

それが私の個性、私の才能、なのかな。



昨日の夜、そんなことを思った。
ちょうど父の命日だった。



---

あなた自身と結んでつながってください。

あなたの考えている今の「自由」など、はるかに超えた自由

「自由」という枠さえない

もっとのびやかに、ゆるやかに

広げて広がって

何ものにもしばられない

「自由」という言葉にさえしばられないほどの自由

もっとはるかに自由。



広げても希薄になることはない。

存在は薄まりはしない。

世界ととけあってとけこんで



自由とはあなたの存在そのものが世界になること。



あなたの思考の枠を超えて

あなたのマインドを超えて

全てなくなって



それが本当の自由であり

それがあなたであり

それが世界である。

正直に言うと、ACIMを手放したら本当に楽になった。

そう言ってしまうことに抵抗があった。

あんなに大好きだと思っていたのに。
あんなに大切だと思っていたのに。

それに。

「自我の抵抗に負けたダメなやつ」って思われたくない!

そんな思い(それこそがまさに「自我の声」なんだけれど)があった。
そんなみっともない自分を認めるのは、ちょっとだけくやしかった。
でも、ちょっとだけ。

それ以上に、手放したことによる自由感が大きかった。
まったくもってバカみたいだけど(笑)。

なにしろやりはじめるととことん、の性格なので、大げさに言えば、考えすぎて発狂しそうになっていた。
壁がもろもろと崩れてきそう、から始まり、
本当に理解しきっちゃったら世界が消えるんじゃないか、とか(笑)
次の瞬間、全部を理解しちゃったらどうしよう消えちゃうよ、とか(爆)。

それに何より、

全部まぼろしならば、この世界は無いのならば、なぜここにいる?
まぼろしだというのなら、意味が無いというのなら、なぜ続けなければならない?
全部が一瞬の誤り、ならば、こうやってここにいることになんの意味がある?

そんなふうについ考えてしまうことが、きつかった。

幸せだと思うことも、美しいと思うことも、全部まぼろしならばこの気持ちはどこに行くんだろう。
そう感じる「私」の存在自体が無いのだから、この気持ちもまぼろしなのか...


そんな自分の思考は、きっとどこかで何かをひとつ掛け違えたような、
そんなまちがいがあるのだとは思っていた。
その「まちがい」にいつか気づけるときがくるのだろう、とも思った。
学び続ければ、この理解の誤りがわかる日がいつかくるにちがいない。
それまで悩み続けようと。
それまで学び続けようと。


それでもやっぱり苦しくて切羽詰まって。
急に思いたって、とある方に会いに行った。


今すぐ、ACIMを捨てなさい。
ACIMをやっている限り、あなたの傲慢さは無くなりません。
あなたは本当は苦しい、つらいと思っているのに、なんでやっているのですか?
「今」幸せにならなくて、いつなるの?



まさに青天のヘキレキ。
私を幸せに導いてくれるものだと信じていたもの。
それこそが私の幸せを阻んでいるなんて?!
ただひとつ、自分の心のよりどころだと思っていたものを捨てろだなんて!


ACIMみたいな難解で凄いものをやっている自分、がいる限り、
対極として、おどおどして怖がる自分が生まれます。
あなたの中の「凄いものコンプレックス」を捨てなさい。
そのために、今すぐACIMをごみ箱に捨てなさい。



がっくりと、100年分も歳をとったような気分になった。
でも、図星だった。
言われてみて初めて自覚した。

なんで他の人は発狂しそうにならないんだろう?
本気で信じたら、進化論も否定するってことなのに!
本当に理解しているんだろうか?
引き寄せの法則とか、鏡の法則とか、ワンネスとか、
そのへんのスピリチュアルと同じ類のものだって思ってない?
ACIMの言ってることは、それとはまったく違うことなんだよ!
全面的なサレンダー。
いいとこどりとは、一番遠いところにあるものなのに。
まったく異質のことを言ってるのに!
一部分だけ信じてあとはまあいいや、なんてことが一番出来ないものなのに!

そんないらだちが自分の中にあった。
それは裏返せば、「ACIMみたいな難解で凄いものをやっている自分」ってことなんだろう。
「こんな凄いものをやってる私」っていう奢り。
私の傲慢さ。

本当に恥ずかしかった。
今でも恥ずかしい。
自分がどれだけいやな人間なのか、思い知らされた。

反発する気もおきないくらい、図星だった。

だから、その日のうちにやめることを決めた。

その人の言うことを全部真に受ける必要はない、という理性もあった。
でも、私の真っ正面が、「捨てよう!」と言っていた。
その人を信じたというより、私は私を信じたんだと思う。

今、わかった。

私は私を信じた。

だから、その瞬間、私がかえってきた!

それまでどこかに忘れてしまっていた自分自身が、帰ってきた。

「自分自身をとりもどしなさい。」

そう言われたことの意味がわかった。

自分自身を生きること。
そこに戻った。

だからこんなに自由になれた。
こんなにラクになれた。

まったくおかしなことだけれど、「やめる」と決めて手放したら、
本当に自然にスピリットと繋がる感覚がやってきた。
いつもそばに、というより自分自身とともにいることを感じる。
本当にいつもいつも共にあったんだなぁとわかる。


私が「私は幸せじゃない!」と泣き叫んでいたときにも、
実は本当に幸せだったのだと、
いつもともにいる存在があったのだと、わかった。
満開の桜を見ながら、今日。





蛇足ながら。

これは私の物語。
ACIMや、ACIMを学ぶ人を否定するものではありません。
手放して初めてsurrender出来た、そんなひとつの物語、です。



こうしてoutput出来て、なんだかあらためてACIMについても話が出来るような気がする。

幸せであろうとするのではなく、正しくあろうとしていた。
間違ったからこそ気がついたことがある。
そんな経験もまた大事。



---

ACIMについてもそうでないことも。
あなたの物語、をoutputして感じてみませんか。
昨日は友達が遊びに来てくれて、『女子会』的に大いに盛り上がった(笑)。


なんか部屋の「気」が変わったよね?
元々すっきりはしていたから何かを片づけたとかではないと思うんだけれど、なんか変わってない?


ちょくちょく遊びに来る友達にそう言われて、ああやっぱりそうかと。
自分でも気が付いていた。そう感じてた(笑)。



『セッションのためのお客様』を迎える準備をしていたら、掃除をして部屋を整えるのも、今までとまったく違う視点で動いている自分を発見した。
今までも友人が遊びに来ることが多かったけれど、そのための準備とはまったく違う視線と自分の動き。
まったく違う体感。
掃除はもはや家事ではなく業務と言ったらヘンだけど(笑)、そこから既に自分の中でもセッションが始まっているような感覚。

床を拭いていると、「これからはここが私の仕事場なんだ。」と突然理解した。
これから私はこうやって生きていくんだ。
そう思ったら、なんだか泣きそうになった。
嬉しいのか、怖いのか、なんだかよくわからないせつなさ。

「プロ」ということはこういうことなんだと、初めて実感としてわかった。
決して力んでいるということではなく、すっと気持ちがひきしまった。

長い長い『休暇』が明けた、と思った。


やってみないとわからないことがある、と思ってはいたけれど、
本当に、やってみないとわからなかった。





セッションを始めますと宣言したけれど、今はまだ「βバージョン」という表現を使っています。

ちなみに「βバージョン」というのは、ソフトウェア開発のさいに正式版をリリースする直前の試用版のことをそんなふうに呼びます。
実際にユーザーに試用してもらうことで、不具合を見つけて修正したり、使い勝手の悪いところを改良したりして、正式版をリリースします。



自分の中で自分がやりたいこと、自分が出来ることは見えているつもりではいる。
でも、その形での実際の経験が私にはまだ無い。
やってみないとわからないことが、きっとまだまだたくさんある。

だから「βバージョン」。


「正式版」のリリースのために試用してくださる方、募集中です。
これもまだβバージョン。(これからも改良更新予定)