自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~ -24ページ目

自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~

自分で決めて、自分で生きる。
自分を愛して、自分を生きる。

今日は、新宿御苑で昼寝しました。
しっかし、デジカメを発明・普及させた人はすごいと思う。
パシャパシャと気兼ねなく写真が撮れるんだから。
フィルムの時代は、こうはいかなかった(^_^;)

というわけで、記念に御苑の桜です。



今は八重桜が満開で、ソメイヨシノとはまた違ったにぎやかさ。




ちなみに、2週間前、ソメイヨシノが満開のときはこんな感じ。






八重桜は、ぽんぽんと咲いてます。





つまりこんなにぎやかさ。





八重だけに散る花びらの量もすごい。
地面は真っ白です。
伝わっているでしょうか...。





たんぽぽも花びらで埋もれてます。
伝わっているでしょうか...。







今日は初夏の陽気で新緑もきれい。
これが都会のど真ん中、新宿というのが信じられない清々しさ。






新緑と桜。









『おおきいのはらのきのような人になりたい。』
それが私の夢です(^^ゞ

「毎日迷ってるよ、これでいいのか。」

という一止さんの声が頭をよぎらないでもない(~_~;)

いや、迷っていると言っても、それは「これじゃ全然わかんないだろう」ってところで、どういうふうに説明したらいいのかってところで、何をしたいのか、どう在りたいのかのところはブレてないです。ブレてないつもりです。
それは今の自分のレベルでしかないけれど、今の自分の精一杯のところで「ブレは無い」と思ってます。
で、表現はこれからどんどん変わっていくだろうな、とも思えるので、まだβバージョンなわけです。
表現方法がまだ自分でもすっきりとこないのです。

「まだ変わるって思ってるのなら、ブレてるんじゃん。」
というツッコミ、ごもっともなわけですが、変わっていくのは表現、つまり表に現す部分であって、私の本質は変わらない。
だから、自分の軸がブレるわけではないのです。

でも、その軸さえも変わっていくこともあるかもしれない。
それは、進化・変容、バージョンアップなわけで、そのときは素直に古いものは捨てます、ありがとうごめんなさい、と言います。
変わることが悪いことだとまったく思ってないのです。
変わらないことの方がむしろおかしい。


なんでこんなことまで書くのかな、と思うんだけれど、私の武器って「正直さ」しかないから。
いいところだけ見せるとか、出来ないし。
完成したキレイなものだけ見せる、ってことも、どうも性に合わないのです。

正直って、私は人に対してうんぬんよりも何より、自分に対して正直なんですね。
そのくらい自分が大事。
自分のことを大切にしている。
だから、自分に嘘をつくとか、自分が居心地が悪いこととか、自分の中にある違和感を見逃せない。
それがときに「厳しさ」や「頑固さ」となることも知っている。
それで人間関係がうまくいかなくなることも経験した。
そういうときはへこむ。とことんへこむ。
さらに、相当引きずる...。

でも、タダじゃ起きない!
ちゃんとちゃんと全部受け止めて、全部感じ切って、消化し終えるまで咀嚼し続けます。
だって丑年だもん(^^ゞ
咀嚼して血肉にします。

そういう自分の「咀嚼作業」をするのに、誰かと話しているときに、ふっと何かが腑に落ちるというときがあるのです。
(あー、やっと本題にたどりついてきた(^^ゞ)
誰かと話している時に、自分の中、自分の頭の中だけであれこれ考えるだけではたどりつけないところに突然行けるのです。


なぜそんなことが起きるの?

それは、そういうふうに創られているから(笑)

人間ってそういうものなんだと思うんです。
脳科学的にどうこうという理由づけはもちろんあるでしょう。
それも結局のところ、そういうふうに創られている、ってことですよね。
別々の肉体を持って、でも社会という群れを作って生きる。
他者が必要なものとして、人間は創られているのだと私は思います。

そして、他者との会話はライブ!
シナリオは無い、即興、アドリブのみ。

だから、ダイナミックなんですね~。


でもなんでわざわざお金を払って、赤の他人と話をするの?
会話なんて毎日たくさんしているし、悩み事なら友達とか家族とか親しい人に話せばいいでしょ?


それでいいんです。

ただ。

それでももやもやするときには、プロ(第三者)の助けを借りてみるのもいいものです。
それに親しい人ほど話せないこと、なんとなく話しにくいことってありませんか?
日常生活の中ではなかなか落ち着いて話せないとか。
そんなときに、少し日常と離れた空間に自分をおいてみるのもいいのではないでしょうか。


じゃあ、友達と何が違うの?

ひとつは、距離感でしょうか。
親しい人はあなたに関する情報をたくさん持っているから、的確なアドバイスが出来るというメリットがあります。
あれこれ背景を説明する手間が省けるというメリットもあります。
反面、その情報が「先入観」になります。
「あなたってこういう人だよね。」という思い込み。
そして、親しい人は「利害関係」が入り込みがちです。
利害関係というときつい言い方かもしれませんが、「こうしてくれた方が私は嬉しい。」という無意識の期待が入ります。
「普通はこうだろう。」というような、その人の価値観もあるでしょう。

第三者である私は、もう少し離れたところにいます。
先入観なしに、ただ目の前にいる今この瞬間の「あなた」だけを見ています。
あなたの背景ではなく、いまここにいるあなた、を感じています。

一番の大きな違いは、私の意図、です。
私はあなたの本質だけをみる、ということを意図して、この「場」にいます。
あなたは無限の可能性を秘めた存在であるということを「知って」、この「場」にいます。
つまりどんなふうにも変われる、あなたが望むままに変化することが出来る、という「場」です。
あなたの本質は光り輝く存在である、それを表に現わしていいんだよ、という意図を持って、その「場」にいます。
そうであるように「期待して」いるのではなく、「知って」いるのです。


でもそれって、何をしているの?

何もしていません(笑)。

実は、「何もしない」が一番むずかしいのです。
アタマは常に動こうとします。
考え始めます。
分析し始めます。
判断し始めます。
答えを探そうとします。

そういうものを一切手放して、ただ何もせずにあなたといっしょにいます。
あえていえば、『あなたの本質だけをみる』ということを意図して、います。

「観察者」という表現をしているのは、こういう意味です。

量子論では、「観察者が事象に影響を与える」といいますよね。
それです。

と、ざっくり言いすぎ(^^ゞ

私があなたを「問題がある人だ。」と見れば、あなたは問題を抱えた困っている人、になります。
私があなたを「なんの問題も無い。光り輝く存在。」と見れば、あなたはその光、になります。

と、簡単に言いすぎ(^^ゞ
でもそれだけのことなんです。



わかったような、わかんないような...。
それででもなんで、「話すだけ」なの?



なんででしょう。
私が一番得意だからです(笑)。
もしくは、それで十分だと思っているから、かな。
もしかしたら、必要と感じたら、からだに触れることもあるかもしれません。
ライブなので。アドリブで。

でも、量子論なんです。
つぶつぶです。波動です(^^ゞ
実際にからだに触れる必要は本当はないんです。
でも肉体を持っているから、その方がわかりやすい、ということもあります。
触れると安心する、ほっとする、という場合もあるかもしれません。



つまり、ここまで書いてきたようなこと。
これが私のセッションの雰囲気なんです。

「私のセッション」をうまく言葉で(一人称で)説明することが出来ないので、「あなた」と会話する、というかたちをとってみて、自分の思いを外に出してみました。
こんなふうに会話していくことで、自分のもやもやした想いが形をとっていきます。

ならば、これを自分でやればいいじゃんって話ですが、これあくまで自分の「想定の範囲」を出ないんですね。
ある程度のところまではいけますが、他者が、それもちゃんと意図した「観察者」がいることで起きることはもっと「ダイナミック」です。

自分がやりたいセッションって、結局のところ自分が受けたいセッションなんです。
自分にとって一番効果がある、自分が必要としているものなんですね。
会話していくなかで、自分の中に訪れるひらめき・気づき。
それが私を大きく変えてくれました。
その経験を誰かとわかちあうことが出来たら、幸せです。


まだよくわからないな~。


はい(^^ゞ
本当は言葉では説明出来ないことを、言葉で説明しようとしているんですから。

あなたの直感で、「会ってみようかな。」があったら、体験しにきてください。
「知識」は「体験」になります。


私もあなたを体験したい!

「わたし、もう制服は着られない...。」

あるときに、ある場所で、急にそう理解した。納得した。
あ、もちろん、セーラー服とかそっちの意味じゃないですから(^^ゞ
『集団』を象徴するものとしての『制服』。

「みんないっしょに、が出来ないや、わたし。」



私の中には、「目立ちたくない」という固い固い思い込みがあった。
多数決なら常に多数派にいたい。
49対51でも、51の方にいたい、と思う。
常にどちらが多数派かをチェックして、そこに合うように生きてきたような気がする。

でも、それはあくまでも「気がする」だけ。
実際の自分の選択は結局のところ、全然多数派寄りではなかった。
着る服、ヘアースタイルみたいなところだって。
でもまあそれに気がつき始めたのはここ数年のことだ。

それまでは本当に自分でも気がついていないほど根深い信念として、
「目立ちたくない。目立っちゃいけない。」があった。
「私、まちがってない?みんなと同じ方にいる?」って、常にびくびくしていた。

それは、目立つと損をするとか嫌われるとか、目立つと怖いことが起こるとか不幸になるとか。
いわゆる過去生でうんちゃらかんちゃら的なことまで掘れば出てきたりもする、とんでもなく条件反射的な反応だった。

だから、何かにどこかに属していたかった。
集団に紛れて、なるべく目立たないようにしていたかった。
指差されても、「わたしだけじゃないです、みんなもそうです!」
って言って「私」じゃない「その他大勢」の中に逃げたかったから。


「みんないっしょ」にあこがれていた。
青春ドラマみたいに、「みんなで」汗と涙を流したい!

トイレに一緒にいく仲良しな女子高校生とか、
何かあったら夜中でもかけつけてくれる「恋人」とか
朝まで話を聞いてくれる「親友」とか

もうそういうものにあこがれてあこがれて。

しかしながら、
「女子的な仲良しにあこがれる~。私もそういうのしてみたい。」と言えば、私を知る人は全員が全員、
「実際にそういう関係が出来たら、うざいでしょ。出来ないでしょ。」と言う...。
確かに。実際にはそういうの無理かも。嫌いかも。

それでも「うらやましい」と思うのは、そういうものは自分とは一番縁遠いものだから、自分の中に無いものだから、なのかもしれない。
自分の中に無いものを、それこそ「みんなと同じように」欲しがっていた。
どっちがいいとか悪いとかではなく、ただ「違う」だけなのに。
違う「質」なのに。
どんなに素敵に見えていいなぁって思うものでも、自分とは違う「質」なのに。
自分と違うものになろうとしていた。
自分の個性を認めていなかった。

それぞれの個性、それぞれの才能。

自分自身をしっかりと取り戻した今はわかる。

もうどんなものでも、何かの枠に、何かのルールに自分をあてはめることは、私には出来ない。
キュウクツなんだ。
私は本当に本当に自由でいたい。

それが私の「個性」。
私はそういうふうに出来ている。
それを認めて受け入れよう。





たぶん私の寂しさの出所はこんなところにあった。

人と違うことは不安。

私は、「私」でいることが怖かった。

その不安を、恐怖を、寂しさととらえていた。

個であることは、寂しい。
個であることは、苦しい。



「分離していない。」という言葉だけにまどわされていた。

自分を、自我としての自分を、個である自分を、
強くはっきりと認識して初めて私は、「分離という夢」から覚めた。

「私」がはっきりといるからこそ、全部を全てを感じることが出来る。

「個」であるからこそ。






このことは、3年近くも前にメッセージを受け取っていた。
こんなに時間がたってやっと、自分の血となり肉となりという理解になった。
文字にした記憶があったので、ここに公開したつもりになっていたけれど、
いわゆるひとつの没原稿だった(笑)。
そのころは、こんなこと言ったらヘンな人だって思われるって怖かったから公開できなかったのかも。
それとも、今が表に出せる時期、なのかもしれない。
今思い出したってことは、どこかで誰かが必要としているのかも知れない...。

もう怖くなくなったから、あらためて別記事として投稿しました。



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ひとりで3年もそれもまたよし。
でも誰かといっしょにもうちょっと早く、もありかもしれません(^^ゞ
あなたのoutputをお手伝いします。


自分の感覚を信じなさい。

うそか本当か、証明できるのか、などということに
いつまでもとらわれている必要はない。

誰に 証明するのか。

事実も真実も関係ない。(意味が無い。)

自分の感覚を、自分の体感、自分のからだが知っていることを、信じなさい。



もしも誰かがあなたに石を投げたとしたら

私があなたを守ろう。

誰もあなたを傷つけることなどできない。



もしも誰かがあなたに石を投げたとして

その痛みになんの意味があるのか?

誰もあなたの本質を傷つけることなど出来ないのだから。

「ひとつ」であるという意識と、「私」という個である意識。

両方を生きることは可能だ。

2つの層にまたがって生きる、存在する。

あなたにはそれが出来る。

だからやりなさい。


無意識で行っているものもいる。
また、はっきりと意識を持ってそれを行うものもいる。

目覚めたままで、両方を生きることが出来る。

あなたには可能なのだから、それをやりなさい。

選ばれた者だから。

(「選ばれた」という言葉に意味を与えているのは、あなたの思考だ。
そこにはもともと何の意味も無い。
ただ「出来るもの」というだけのこと。)



「私」という個性。

強い思い。



全体と個は両立する。

どちらも可能だ。

強い個を表現しなさい。



源に還るということは、あなたが希薄になることではない。

ひとつも個も、力強いもの。

(あなたが思っているより)もっと強いもの。

確かなもの。

ゆるぎないもの。