自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~ -18ページ目

自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~

自分で決めて、自分で生きる。
自分を愛して、自分を生きる。


ACIMを捨てる、という決断をして、

私は、イエスを赦したのだ。


(言葉にすると誤解されるだろうが、誤解を恐れずにoutputしよう。)


イエスを赦した。

つまり、分離は無い。

分離は解消されたということ。


イエスという「凄い」存在、

「特別な存在」も無い。


イエスもわたしも、みな等しく神の子である。

いや、イエスもわたしもない、ということ。



ACIMを捨てたからこそ、分離は消えた。



なんという矛盾。


でも、それもわかったうえで、イエスはACIMを伝えたんだね。


ヘレンも、それをわかっていた?
ヘレンも、イエスを赦していた。

そうなんだよね?


「ヘレンに学べ」と言われた意味。

今、急にわかった...。


夢を見た。

静かな夢だった。

いくつもの家族のストーリーが絡み合う、長い長い夢だった。
とんでもない出来事の連続みたいだけれど、一貫して、静かな、夢だった。

目が覚めていくときに、「覚えていられない」「思い出せそうにない」と思った。

そのとおり、覚えているのは上記のようなことだけ。

ただ、静かな夢だった。



夢の中で小さな子供だった自分が、だんだんと成長していき、

たくさんのありえない出来事に遭遇し、

そして、最後は、今、だった。



命を絶ってもおかしくないような状況の中、

「最後に私は、それでも生きることを選ぶ。」

静かにそう思っていた。


歓喜でもなく。
もちろん、絶叫でもなく。

深い喜び、でさえもなく。

ただ、静かに。




『今までの私の人生が統合されていく。』


ここ数日、その想いが、その感覚がしばしば訪れていた。

それと同じ静けさ。



わたしはどうなっていくんだろうか...








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新しいこと、これから始まっていきます。

「からだからの対話」の次は、「みんなで対話」

グループワークといおうか、シェアリングの会といおうか。
幸せで自由に生きるヒントを持って帰ってもらいたい!
そう思ってます。

詳しくは、こちら!


OSHOに聞いてみた。

引く直前に、「結局は自分がどう解釈するかだよな」と頭をよぎる。


「GOサイン」と解釈しました。

というわけで(笑)、クラニオ・モニター限定募集します。
クラニオと言っても、正式なクラニオではありません。
クラニオ的アプローチのボディワークです。ヒーリングです。
イメージするものは、まさに下のカードのようなものです。

ワンコイン(500円)で、モニターになってくださる方、募集します。
詳細は、以下リンク先をご参照ください。

からだからの対話





28. 受容性



聴くことは、神の寺院に入るためのもっとも基本的な秘法のひとつだ。聴くことは、受け身であることを意味する。聴くことは、自分を完全に忘れてしまうことだ--。そうして初めて、あなたは聴くことができる。ある人の言うことを注意して聴いていると、自分のことを忘れる。自分のことを忘れられなかったら、けっして聴いてはいない。自意識が過剰だったら、あなたは聴いている振りをするだけだ--聴いてはいない。うなずいたり、ときには「はい」とか「いいえ」とか言うだろう--が、聴いてはいない。
聴いているときは、あなたはまさに通路、受け身、受容性、子宮になる。女性的になるのだ。そして、行き着くためには、人は女性的にならなければならない。
攻撃的な侵略者、征服者として神に到達することはできない。あなたが神に到達できるのは、ただ……あるいは、こう言ったほうがいいだろう--神があなたに到達できるのは、あなたが受け身、女性的な受け身の状態のときだけだ。あなたが陰(イン)に、受け身になったとき、扉が開かれている。そして、あなたは待つ。
聴くことは、受け身になるためのアートだ。

Osho A Sudden Clash of Thunder Chapter 5

解説:
「受容性」は女性的なものを、水と感情の受容的な質を表わします。両腕は受け取るために上へと伸ばされ、彼女自身はすっかり水の中に浸かっています。彼女には頭がありません。自分の純粋な受容性を妨げる、忙しい攻撃的な心がないのです。そして、自分がいっぱいに満たされると、絶えず自分を空にしてあふれ出させ、さらに多くを受け取ります。彼女から出ている蓮(ロ-タス) のパターン、あるいはマトリックスは、私たちが宇宙と調子が合ったときに明らかになる宇宙の完璧なハーモニーを表わします。「水のクイーン」は限界のないひと時、どのような期待も要求もなく、生がもたらすすべてのものに感謝するひと時をもたらします。義務も、利点や報酬を考えることも重要ではありません。感受性、直観、そして慈悲こそが、まさに今輝き出ている質であり、私たちひとりひとりを隔て、私たちを全体からも隔てている障害をすべて溶かしています。



自分の中に戸惑うほどの情熱を見つけることがある。
情熱、と呼んでいいのか。
もしかしたら、渇望、なのかもしれない。

それはただ「生きたい」という思い。

「もっともっと生きたい!」


そのどうしようもないほどの思い。
突き抜けるほどの衝動は、「破壊」と感じられるほどで、
そのエネルギーの強さに、戸惑う。


戸惑うのは、その表現方法を知らないから、だと思う。
もしくは、その出口がみつからないから、かもしれない。

だから、抑え込もうと、見ないようにしているのかもしれない。



一方で、自分の中に、とてもとても静かなものがあることを知っている。

それは、愛、と呼んでいいもの。
大いなるもの、と呼んでもいい。

ひとつ、とか、
もうそれこそ、「それ」としか呼びようのないもの。

その深くて強い静けさ。


それに相反するような、突き抜ける情熱。


どちらもが、自分の中にあることに戸惑う。


私には、その「ふたつ」のものの共存は、むずかしく感じられていた。

矛盾するもの、だった。



もしかしたら、抑え込んでいることをやめたら、

その「ふたつ」は同じものだと、気が付くのかもしれない。



どちらも矛盾なく、「ひとつ」のものとして、

ありあまるエネルギーは、衝動ではなく、

本当の意味の強さ、になるのかもしれない。


生きるちから、になるのかもしれない。




可笑しなことに、自分が最近あれこれとoutputしたこと、
「それ、自分で出来てる?」と確認させられるようなことがいろいろと起きる。

「神さまに試されている」という考え方は嫌いだと少し前に書いたけれど、やっぱり「お試し」というのは来るのかなと思ったりもする(笑)

自分の軸がぶれないのか、そのお試しみたいな。


軸はぶれかけるけど、一瞬揺らぐけれど、でもやっぱり戻ってこれる。
戻らないわけにはいかないといおうか、戻らざるをえないといおうか。
結局、戻る。

自分がなにものであるか、ということを一瞬でも理解したならば、ここに戻るしか道がない。
いや、結局、最終的にひとつの道しかないってことかもしれない。



「私は私の戦争を終わらせる。」


私のやることはこれしかない。

自分の中にある争いを終わらせることが、この世界の理不尽(に見えること)や、悲惨(に見えること)を無くしていくただひとつの方法だと思う。
被害者になることも、加害者になることも、どちらも「争い」でしかない。
私はそういう世界を選ばない。


平和は勝ち取るものではない。

私がただ平和を生きるだけ。


奪い合う世界ではなく、十分にある、という世界に生きる。

許しではなく、赦し。
何も起きていない、と世界を見る。

この世界を信頼する。

それが私の選択。

それをもう1回、確認しました。






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