すごい眼鏡になって初めてのアレクサンダーのレッスン。
すごい眼鏡はすごい。
ということがよくわかった。
また、「見る」をやってみたのだが、コンタクトレンズで「見る」をやったときによくわからなかったこと、とっても苦労したことが、なんの苦も無く出来る。
まったく「見る」行為が違っている。
たとえば、レッスンスタジオの片隅に置かれている観葉植物。
それを全体として、勝手に情報が入ってくるなぁーと思って眺めてみる。
はっぱの一枚一枚がそれぞれ違った緑色をしていることに気がつくかもしれませんねー、と言われると、コンタクトレンズ装着のときは、はっぱの一枚一枚をそれぞれscanし、その情報を集め、全体の「木」というものに構築し直しているようだった。
新しい眼鏡で同じように眺めてみると、それはただ全体でひとつの「木」だった。
余計な緊張を手放して、ただそっと見てみれば、それは全体としてそこに在るだけだった。
以前のように、一枚一枚にスポットライトをあてるような見かたは、やろうと思ってももう出来ない。
グループ全体を感じつつ、自分自身を感じている、ということも、頭・首が緩んで自由になっていると、勝手に視野にグループ全体が入ってくる。
眼・頭を動かさなくても、見える。
以前より、視野が広くなっていることに驚く。
(「視野」なのか...?)
さらに、後ろ(背中)に意識を向けてみると、一瞬、後ろまで見えた、というか感じた。
で、びっくりしたら、からだが緊張して、見えなくなった。
外に開きつつ、自分を感じる。
それが、正直、怖い。
自分の境界線を少しだけ緩め、世界に寄り添うように存在する。
それが幸せであるような、でもなぜか次の瞬間に恐怖が沸き起こる。
頭・首を緩ませようとしてくれる先生の手の感触の間で、古いやりかたと新しいやりかたがせめぎあっているのを感じる。
からだに染み付いた古いやり方。
それを手放そうとすると、からだの古い記憶が抵抗するのを感じる。
なんだかよくわからないけれど刺激される古い記憶。
それが浮かび上がってくるのが怖い。
「怖い」という表現が正しいのかどうか自分でもよくわからない。
人間は長い間なじんだ方法を捨てて新しい方法を選択するのは、どんなにそれがより良い方法であったとしても、抵抗があるということだろう、と頭では理解するけれど、からだはなかなか頑固だ。
苦しくてギブアップした...
レッスンを終えて駅へと歩き始めて、気がついた。
疲れた。
なんだか知らないが、ひじょーーーーーに疲れていた。
今まで使っていなかった脳の部分を使ったかのような疲れ?
呆然としながら駅までたどりつき、電車で座るなり爆睡した。
私の「見る」の探求(?)、変容(?)はいったいどこにたどりつくんだろうか...