
昨年に引き続き、この週末、奈良県信貴山千手院にて、
GNK(ゲシュタルトネットワーク関西 白坂和美)主催、
ゲシュタルト療法トレーニングコースの合宿に参加した。
1人、都合で先に帰った仲間がいたが、
この1年間の時間をともに過ごした仲間たちの笑顔。
(ど真ん中の僧侶さんは、会場となった千手院の方)
心から、このコースでともにしたみなさん、
そしてこの時間に、改めて「ありがとう」を言いたいと思う。

↑千手院の庭を眺める、もも(百武)ちゃん
2年間、月1回24回300時間を一言では到底、言い表せないが、
敢えてまとめると「仲間とともに、気づき、成長した時間」と言えるだろうか。
わたしはすでに、青年という範疇の歳ではないけれど、
「気づき」と「成長」はいくつになってもやってくるものだと思う。
世の中に「心理療法」と名付けられるものは数多ある。
ゲシュタルト療法はその中でも「現象学」に基づいたもので、
分析ではなくて「なにが、今、ここで、起きているのか」、それを徹底的に観て、気づく。
「変容の逆説的理論」という考え方があって、
ひとは「変えよう」としなくても、ただ「気づき」のなかにいることで、
本来その人がありたいように変わる、その過程が始まる、ということ。
そのありさまを、仲間たちの姿を通して、わたしは知った。

昨日のワークショップの中では、ももちゃんは
「ゲシュタルトでは、極力’ネーミング’をしない」と言った。
つまり「ネーミングをしない」とは、
ひとの個別の体験を極力「専門用語」で語らない、ということだ。
ひとは、カテゴライズして、専門用語でそれらしく表現したがるものかもしれない。
専門用語で語ったり、「●●的〇〇」という範疇に自分が入ると認識すると、
ひとはそれで、自分のことがわかった気になったり、安心するのかも。
安心できる、という意味では、ある状況では有効かもしれない。
一方で、個人的な体験を一括りの画一的な「言葉」では語れないはず。
昨日のワークショップで、
「ひとの体験や経験は、音声としての’声’表現の延長にあるものだと思った」と、仲間が感想で言った。
わたしはそのシェアを聞いていて、言い得て妙だ、と思った。
たとえば、ある体験を再現してみるとする。
そのときのその自分を再現してみて、「あぁ」と声が漏れるとする。
この「あぁ」の響きに、どんな想いが込められているのだろうか。
「あぁ」を声を発しながら、その声を発している自分は何を体験しているのか。
自分で何度も声を発しながら、自分の内側を探っていく。
真剣に自分のそこと向き合っていくと、あるときふと僥倖のような、
「あぁ、そうか!」と腑に落ちる瞬間がある。
ゲシュタルトでは、このように単なる「分析」ではない
1人ひとりの身体が発している声や、内側で感じている感覚にも触れていく。
ともすれば、今の社会は、
考えることや理性、思考に傾きがちだ。
ゲシュタルトで自分に向き合う時間は、いつもとは違った「感性」「体験重視」の視点から、
「自分自身」に触れていく時間であることが、静寂であると同時に、わたしにはとても刺激的であった。

新クールは来月6月9~10日に(5月最終合宿と同じ百武さんファシリテーター)、
一般参加可能のワークショップから始まります。
詳しいお問い合わせは、GNK主宰、白坂和美さんまで。
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