いただいたメッセージでのやり取りの中から。
『思いやり』
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昔の話。
小学校低学年の時、カンニングしていないのに、カンニングをしたと言われ、
クラスの全員の前で延々と先生になじられ、怒られた。
とても一方的だった。
その時、悲しいとか、恥ずかしいとか、悔しいよりも、
不思議だった。
もしも、私が、本当にカンニングをしたとしても、
先生のその叱り方が、人としてどうなのかな・・と。
もしも、私が先生だったら、こんな叱り方はしないのになぁ・・と。
そして、あぁ、私は大人になったらこんな風にならなければいいんだなぁ・・と。
そして、それと同時に、
先生にそう見えたということは、私の方にも何か落ち度があったのかもしれないな・・と。
もしかしたら、カンニングをしているように見える、そんな動作をしたのかもしれない。
そんな風に考えた。
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これは、取るにたらないような、分かりやすい例だから取り上げてみたのだけど、
世の中には、例えば、意地悪をするにしても、
たまたま機嫌が悪いことだってあるし、
その人の中に悲しいぐらいの寂しさが蓄積されて、
どうしても意地悪をしてしまう人もいる。
いろんな人がいるし、いじめや非難を受けるにしても、いろんな人がいて、
いろんなシチュエーションがある。
その全てに共通して言えることは、
自分が一方的に被害者になると、どうしても相手を加害者・・悪者にしてしまう。
そうやって、相手を一方的に加害者にしてしまうと、
人間の心は、相手を責めたり、悲しみを蓄積したり、
恨んで、仕返しをしてやろう・・不幸になればいい。
そんな風に呪いの思いを抱えてしまうことがある。
それこそ、不幸なこと。
なぜなら、相手を責め、呪う想いが、ずっとずっと何よりも誰よりも、
自分自身を責め続け、縛り続けるのですから。
一番苦しいのは、自分なのです。
それは、辛いこと。
ずっと気づかずに自分を苦しめているのですから。
そんな時。
もしも苦しいなと思ったら、
ふと、相手の存在を思いやってみてください。
もしかすると、たまたまイライラしていたのかも。
もしかすると、お家で怒られたのかも。
もしかすると、寂しくて妬ましかったのかも。
もしかすると、私にもいけなかったことがあるのかも。
加害者か被害者。
悪い人なのか良い人なのか。
意見の対立や見解の違い。
白黒をつけようとすると、苦しみを生むことになる。
この世界には、見えない部分が圧倒的に多いのだから。
見えない部分とは、感情であったり、境遇であったり、
その物事や、その人を包むバックグラウンドです。
そして人は、自分のことが何よりも見えなかったりする。
自分のこと、自分のバックグラウンドが。
だから、自分は正しい、自分は間違っていない。
自分だけどうしてこんな目に。
自分だけどうしてこんなに苦しいの。
そう思えてしまう。
人の目や、人の立場、人の境遇からみれば・・どうでしょう。
もっと大きな目で見たら。
もっと広い心で感じたら。
「相手を思いやる心」は、そんな一方的な思いのアクセルを踏む心に、
優しいブレーキをかけてくれます。
「相手を思いやる心」は、また「自分を思いやる心」です。
苦しくて辛かった心を、優しく包んでくれます。
感情の嵐に飲み込まれそうな時ほど、思いやりの心を思い出してみてください。
最初は出来ないでしょう。
何度も出来なくて、自己嫌悪に陥るかもしれません。
でも。
思い出して。
何度でもトライして。
私たちが何度過ちを繰り返し、何度失敗してもそれを全て包んでも有り余るほど、
宇宙の愛は広いのですから。
そんな宇宙の慈愛の中で私たちは、生きている。
そして、相手を思いやるそんな気持ちは・・・
その大いなる愛への入り口なのです。