広島へゆく。
日々写真ではみていたあの被服支廠を実際に見るために。
そして、かつてその軍事施設で働いていたという四國五郎さんと、その五郎さんの魂を継承している光さんに会いにいくために。
被服支廠で趙博さんによる一人芝居「ヒロシマの母子像~四國五郎と弟・直登」の予告編かつ初演。開演前には広島文学資料保全の会の河口悠介さんによる被服支廠のガイドがあると知り、即決した広島行きだった。
私は『反戦平和の詩画人 四國五郎』と『原爆詩集』を携えて、広島の地に立った。
と、ここまではいいが、さて被服支廠にどうやっていこうか。
まったくの方向音痴なのに考えていない。いつもながらのいきあたりばったり。
まずは、もう知り合って9年になる比治山下のお好み焼きKAJISANでエネルギーチャージ。
これから被服支廠に行くというと、「ここから近いよ~」と梶さん。
「えっ、そうなの?」(←広島駅に戻って行き方を考えようと思っていた・・・本当にあきれるほどの方向音痴なのです)
外は雨。
バスを教えてもらったけれど、スマホでマップをみてみたら、どうやら歩いて行けそうだ。以前のような体力はないので配分を考えつつも、最小限の荷にしたリュックと地下足袋なら大丈夫とふんで、歩き出す。
このあたりのはず・・・と顔をあげると、すぐにわかった。
方向音痴の私がすぐにわかるなんて珍しいことで、本来よかったと思うはずなのだけれど、私の顔は歪んだ。
すぐにわかったのは、それほどに異様な光景だからだ。
普通の家やセブンイレブンがあるむこうにレンガの建物がそびえている。
なんだこれは
とにかくレンガの建物までいく。
これが被服支廠か。
行けども行けどもレンガとゆがんだ鉄格子が続く。
それからこの看板。
この建物のとなりはすぐに人家があって、しかも長いレンガと同様に人家もずっと連なっている。そこには人々の日常が、営みがあるのだ。地震の際に壁に近づくなといってもそんなことはできはしない。
レンガの壁は延々と続く。
歩いているうちにレンガの高さの威圧感も増してくる。
いま地震があったらこの壁につぶされるのか。
なんだか気持ちが悪い。
軍に強制されている民のひとりになっているような気さえする。
いったい入り口はどこなのか。
端まで来て入れないとわかり、来た道を戻って(その間ずっとこのレンガと鉄格子と看板の繰り返し)、角を曲がる。また同じようにレンガが続くがどうやらその先が入口のよう。少しだけ人の動きが見えた。
重くなった足取りで、ゆっくりとそこに近づいていく。
ようやく入口についたと思ったとき、そこに一台のタクシーがすっと止まった。
四國光さんが降り立った。
13番庫、12番庫、11番庫、10番庫がある。
当時の10分の1なのだそうだ。それだけでもこんなに広い。
市は爆心地にいちばん近い位置にあるからという理由(←そもそもこの理由付けはあまりにもひどい)で13番庫のみ残して解体しようとしたところ、全4棟残すべきだという大きな市民運動が起こり、いまのところ解体はされず、4棟とも耐震工事をすることになっているが、正式に全棟保存するという決定はいまだになされていない。
「事実上保存」という言葉が新聞やニュースをにぎわせたが、妙な言葉である。
保存するとは一言もいっていない、いつでも解体に方向転換できる態勢になっている。そのことをよく表しているものが被服支廠内にある。と河口さんは語気を強める。
これがある場所は12番庫と11番庫の間であった。
つまり、市が残そうとしていた13番庫の近くではなく、いずれ解体しようと思っている場所に取り除いた門を置いたのだ。もとより保存するつもりはないという考えが透けて見える。
いつも思う。
為政者はなぜこんな姑息なことをするのだろう。
戦争は国民の無知を喰いものにしながら為政者により作られる。
(四國光『反戦平和の詩画人 四國五郎』)
開演時間までずっと被服支廠を見て回った。
壊れかけた扉、鉄の鎖、なかをのぞこうと近づいたら、むぅっと匂いがした。
奥からなんともいえない、不快な、不穏がうずまいている匂い。
ヒバクシャの方々がよく言っていた。
どんなに写真や映画や絵などで惨状を表しても、あの匂いのすごさはとても再現できない、と。
原爆が落とされたあと、この被服支廠は救護所となり多くの死傷者たちで埋まった。今歩いているところは数多くの死体がもののように集められ、ガソリンをかけて一度に焼かれた場所でもある。
被服支廠に限らず、広島は、そういう場所だ。
いや、戦争のあった地はどこもそうなのだ。
いつのまにか雨はあがっていた。
開演前にこの地の死者を悼んで黙祷。
進行はHihukushoラジオでおなじみの土屋時子さん。
広島の女性たちによる峠三吉「仮繃帯所にて」の朗読。
そして、趙博さんの登場。
(撮影:四國光さん)
私は、集中して舞台をみた。
どの方の言の葉も、ひとつも逃したくなかった。
(だから、写真を撮ることはできませんでした)
趙博さんの舞台を見るのは、実は初めて。
だけど、私には確信があった。
「河」の京都公演を見に行ったとき、趙さんの存在はしかと私に刻まれた。
といっても、趙さんは俳優としてそこには出演されていない。
ぎっしりつまった観客席、いよいよ幕が上がるという直前に現れて、定番の携帯電話などの注意事項いわゆる前説をされたのである。
どなたかは知らないけれど、この方は舞台人だ、とすぐわかった。
えもいわれぬ魅力をもった人だと思った。この人の舞台は見てみたい。
そう思ったのだ。
それから光さんや周囲の方々の情報で、あのときの前説の人が浪花の巨人パギやんと呼ばれる趙博さんだと知った。大阪在住とはいえ、東京でも公演があったのに、私はまだ趙さんの舞台を見てはいなかった。
その趙博さんが四國五郎さんの一人芝居をやる、それも被服支廠で。
この日のために、私はいままで趙さんの芝居を見ずにいたのだと思った。
当初はその初演ということだったが、四國光さんの本『反戦平和の詩画人 四國五郎』が出版され、その本を読まれた趙さんは公演間近にもかかわらず、すべて台本を書き直すといわれ、当日は予告編かつ初演ということになった。
舞台設備は皆無といっていいほどの手作りの野外ステージで、直前まで台本を練り上げ直すことになった趙博さんの今回の挑戦は並大抵なことではなかったと思う。
四國五郎さんの言葉は、至極の言の葉だ。
真の言葉は、我が身に入れるだけも相当な苦労がいる。
それを身の内に通し、腑に落とし、その魂をつかむのか同化するのか、とにかくその言葉にある魂、四國五郎の魂を、最終的には、その人の生きざまをうつして全身で声にしていくのだ。
今はまだ予告編。だから内容の詳細は書かずにおきます。
生まれたての一人芝居を被服支廠で見れたこと、この場に立ち会えたことに感謝。
近いうちに東京のギャラリー古藤でも完成版が見られるそうなので、また馳せ参じたいと思います。
四國光さんが書いた『反戦平和の詩画人 四國五郎』。
タイトルどおり、四國五郎という人の生きざまがここにまとめられた。
しかし、同時にこの本は四國五郎さんに言及が及べば及ぶほど、著者であり息子であり、魂の継承者である四國光さんの姿が立ち上がってくるように思えた。
「何としても伝えたい」という強い欲求があるからこそ、人は表現する。伝えるために、作者が持つ表現の技術を駆使する。駆使するから、より良く「伝わる」。表現者の思いが突き刺さる。「伝えたい」という強い欲求がないのであれば、表現し公表する必要はない。
だから、良い表現にふれて人間は心動かされる。感動する。感動する、ということは、表現者の何かが、感動した相手に「継承」された、ということだ。そしてその感動が人を変える。感動がなければ人は変わらない。そして、感動が新たな行動を促す。
光さんはこうもいう。
一般的な体験、などない。体験とは、常に個別的で絶対的なもの。唯一無二のものとしてその人個人に内在化され、他人が「継承」などできるものではない。肉親である父の体験ですら、息子である私が「継承」などできはしない。
しかし、体験は記憶として蓄積され、その都度新たな意味を与えられ、そして、それが「表現」されることで初めて他者と共有化される。未来に生き続ける。それが「継承」の役割だと思う。
そして「表現物」が与える感動こそが、このような「継承」が新たな行動に繋がるメカニズムを可能にする大きな手立てではないだろうか。
父は「表現」が生み出す変革の力を心の底から信じていたと思う。
「継承」の真髄。
私も表現する者のひとりとして、やれることが、きっとある。
『父と暮せば』を終えて、初めての夏が来る。
「表現」の模索は、続いている。
模索して、進化していきたい。
木内みどりさんがそうだったように。
趙博さんが挑んでいるように。
私も。
その先にきっと、光がみえる