木曽義仲(長野県木曽町日義) | オ~イパンダのブログ

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長野県に向かって岐阜県中津川市の落合を過ぎると、左右の山は急に高くなり、流れる木曽川が作る渓谷も深くなります。一般的にこの辺りの道を「木曽街道」あるいは「木曽路」と呼びます。ところで実際の処、どのあたりが木曽街道なのでしょうか?

確認してみると、木曽街道とは中山道(江戸時代)における美濃国および信濃国の山道の俗称なのだそうです。ただ、狭義には美濃国と信濃国の境界部に当たる木曽地方の一部区間を指すようで、具体的には次の11の宿場が木曽街道になるようです。

   (A)上四宿  贄川宿・奈良井宿・薮原宿・宮ノ越宿
   (B)中三宿  福島宿・上松宿・須原宿
   (C)下四宿  野尻宿・三留野宿・妻籠宿・馬籠宿

ちなみに最北の贄川宿(にえかわじゅく)は中山道33番目の宿場で、現在は長野県塩尻市になります。また、南端の馬籠宿は中津川市で、信州側の妻籠宿と共に人気があり、旧本陣であった藤村記念館(島崎藤村生家跡)があります。木曽街道については当時の文献にはこうあります。

     木曽街道は、かつては今のように人馬の通行は殆ど無く、
     昔は山姥(やまんば。鬼婆)に遭遇するなど通行困難な路で
     あり、善光寺を詣でるにも木曾街道を行けば百里で済むところ、
     命の方が大事と二百里もある北陸道を経る場合も多かった。

     かの平家でさえ京より関東に出るのに北陸道を用いたことを
     書いており、木曽路がたいへんに険しい道であった・・・。

その木曽街道は距離にして約80kmでしょうか。そして、そのほぼ真ん中に木曽町があります。そこはかつての朝日将軍「木曽義仲」(源義仲)が生育し、平家追討の旗挙をおこなった場所でもあります。


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義仲館のパンフレットに描かれた義仲と巴御前


少し前、司馬遼太郎「義経」と宮尾登美子「義経」を読み、そこに登場してくる木曽義仲が気になったことから、義仲の資料館に寄ってみることにしました。

わんわん

木曽町の北部は日義という地区です。現在も旧い町並みが続いており、そのまん中を旧木曽街道が通っています。そして、その街道から少し入った木曽川沿いに、木曽義仲の資料を集めた「義仲館」はあります。


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           資料館「義仲館」                     巴御前と木曽義仲


義仲館の入口に立つと、正面に義仲と巴御前が並んだ像が飛び込んできます。結構大きな像です。あとで聞いたところ、義仲館ができてしばらくしてから作られたものだそうです。表情を見ると二人共凛々しくて精悍な顔つきです。まさに武士といった面構えです。

資料館には義仲の生い立ちから挙兵、京都での敗北までが、大きな絵画や模型などで紹介されています。絵画は一般的なものなのでしょうが、それらから当時の状況がしっかりと伝わって来ます。

木曽義仲(源義仲)は源頼朝・義経兄弟とは従兄弟になります。父・源義賢が頼朝・義経兄弟の父である源義朝の弟になるからです。しかし、平家の家族主義に対して源氏は親戚兄弟であっても争いを好む傾向があるようで、頼朝とは敵対します。ちなみに義仲の父・義賢は、その兄義朝との対立により義朝の長男・義平(義仲にとって従兄)に討たれています。


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旗挙八幡宮


義仲館から少し離れた国道19号線近くの小高い所に旗挙八幡宮があります。そこは義仲が平家打倒をめざして旗挙した八幡宮であり、またそこは義仲の館があった場所です。

1180年、以仁王(もちひとおう)の平家打倒を命じる令旨が発せられ、諸国の源氏は挙兵します。しかし、このとき頼朝と義仲は仲違いし、それぞれ独自の行動をとります。義仲は兵を率いて信濃から越後、北陸へと勝ち進みます。このときの「倶利伽羅峠で戦い」(1183年)は有名で、義仲軍は数百頭の牛の角に松明をくくりつけて、10万とも言われる平氏の大軍に向け放ち、駆逐したといいます。ことの真偽は別として、源平合戦の中でも有名な一場面です。

境内にある由来にはこう書かれています。

            旗挙八幡宮由来

     幼名を駒王丸と名付けられ、養父中原兼遠によって育てられた
     義仲公は、このあたりの平地に城をかまえ八幡宮を祭ったと
     伝えられている。
     十三歳にして元服、木曽次郎源義仲と改め、治承4年(1180年)
     1千余騎を従え、ここに平家打倒の旗挙をした。
     時に義仲27歳であった。以後、旗挙八幡宮と呼ばれている。
     
     社殿傍の大欅は樹齢約八百年と伝えられ、公の時代より
     生きつづけ、落雷により傷ついたその姿は、悲劇の武将を
     語ってくれるかのようである。
                             日義村観光協会


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境内には大きなケヤキが半分朽ちた状態で存命しており、隣りには新たなケヤキが旧欅の代りに植わっています。また近くには義仲の館跡を示す石碑を見ることができます。


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大けやき欅


勇ましい旗挙をおこなった義仲はその後、信濃、新潟、北陸と平家を破って行きますが、ここの由来にあるように最後は悲劇の武将になります。

信濃から北陸、京へと進む義仲に対して、鎌倉を拠点とする頼朝は坂東武士の力を背景に関東に勢力を広げます。このときの国内の状況は「京に平氏」、「関東に頼朝」、「北陸に義仲」と、まるで中国の三国志を思わせるような状態だったようです。義仲は息子を人質として頼朝の鎌倉に送ることで、対立は一応決着をみますが、それは表向きのことで実際は熱い火花が散っていたのでした。

1183年7月、義仲は勢いをそのままに鎌倉の頼朝軍よりも先に入京して守護となり、将軍職(朝日将軍)などの官位を授かります。しかし、京の治安回復の遅れと大軍が都に滞在したことによる食糧事情の悪化、さらには皇位継承問題への介入などにより、朝廷の実権者である後白河法皇との折り合いは悪くなります。そして何もかもが後手後手へとなり、気が付くと敵は平家ではなく政治的な配慮の優れた頼朝に変わっていきます。

翌1184年1月、京に入ってきた頼朝軍に追い出されるかのように京を落ち、そして近江国粟津(現在の大津市)で討ち死にします。享年31歳でした。また京を制圧した期間は半年という短期間でした。


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木曽義仲公館跡


こうしてみると義仲は武将としての活躍は華やかであったものの、国を治める政治家としては適していなかったようです。京へ攻め入るまでの鮮やかさ、信州・北陸の武士を味方につける求心力など優れた手腕を見せています。自身も武術や騎馬は得意だったようです。しかし、国を治める能力と知恵、文化人としての教養などはあまり備わっていなかったようです。

平家を追い出す形で入京した義仲は朝廷から大歓迎されますが、粗雑な言動や行動から次第に法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がまるでない「粗野な人物」として疎まれるようになります。朝廷人は何よりも伝統や格式を重んじたからです。これは山村に育った義仲にしてみれば仕方のなかったことかもしれません。小さい頃から木曽で育ち、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのですから。

しかし、それだけに人間味あふれる人物だったように思えます。また純粋で素直な性格だったような気がします。幼少の頃から木曽の仲間たちと遊び、学び、修行する。嬉しい時には大声で笑い、悲しい時には大粒の涙を流す。そんな極めて人間味に満ちた人物だったのです。それが側近である四天王や巴御前をはじめとする義仲の生涯を支える人々との結束につながっていったような気がします。

入京後、後白河法皇に何度も冷たい扱いをされますが、それに対し愚直に弁解しようとするその姿は、少年の姿を思い起こします。それはずる賢い大人になりきれない純粋で正直者の義仲の本質だったような気がします。ただ結果的には、それが義仲の命取りになるわけですが・・・。


義仲の戦死後、鎌倉に人質となっていた息子は頼朝の娘婿となっていましたが、逃亡を図って討たれています。それにより義仲の家系は絶えたとされます。ただし、その後の戦国大名「木曾氏」は義仲の子孫を自称しています。

義仲が育った現在の木曽町日義の地名は、朝日将軍義仲の「日」と「義」に由来して明治7年に命名されたそうです。

資料館の記録ビデオを見ていると、現在でも義仲は地元の英雄として祀られ称えられていることが分かります。小説などでは主人公というより脇役として、しかし必ずこの時代の話には登場する義仲です。おそらくこれからも木曽では永遠に語り継がれていくことでしょう。


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義仲館跡から南方を望む