Future Cafe -32ページ目

Future Cafe

音楽レビューのようなもの〜TECHNO、JAZZ、BREAKBEATS etc

「魅力がすごいよ」 ゲスの極み乙女。
「さよならはエモーション」 サカナクション
「DRAGON NIGHT」 SEKAI NO OWARI












 ゲスの極み乙女。、サカナクション、SEKAI NO OWARI。いずれも個性的な3組のバンドから耳が離せない。
 まず、待望のファーストアルバム「魅力がすごいよ」が先月リリースされたゲスの極み乙女。ハマカーンのネタでしょと突っ込みを入れられることを辞さない適当なバンドネームと、疾走感ある切れのいいサウンドとのギャップ、そして男2+女2のビジュアルが最高だ。ヒップホップ・プログレ・バンドを自称しているという彼らだが、ハウス/ヒップホップ以降の感性を取り入れたほな・いこかのドラムとプログレのセンスを内包するちゃんMARIのキーボード、休日課長のベース、川谷絵音のギターが織りなすサウンドは、唯一無二のもの。「デジタルモグラ」の間奏で、ギター・ソロからドラムへと続いていく展開は超絶格好いいし、ヒット曲「猟奇的なキスを私にして」のカップリング曲だった「アソビ」の間奏で聴くことのできるエレクトリックピアノをフィーチャーしたプログレフュージョン風の展開には思わず鳥肌が立ってしまった。このゲスの極み乙女。というバンドは、雨後の竹の子の如くに乱立する若気の至り的なバンドとは一線を画する存在といえるだろう。
 ゲスの極み乙女。を聴いていると、しばしばサカナクションとSEKAI NO OWARIを彷彿とさせる瞬間があるのだが、コーラス部分がサカナクション、川谷絵音によるハイトーンヴォーカルがSEKAI NO OWARIのFukaseと重なる部分が少なからずあるからだろう。ミニアルバムの「みんなノーマル」には「サカナの心」という曲があるし、同ミニアルバム収録の「市民野郎」や「ノーマルアタマ」で聴かれるコーラスは、なんだかサカナクションのパロディっぽい気もする。
 そのサカナクションの最新シングル「さよならはエモーション」だが、これがドラムンベースを取り入れたクールなトラックで、なかなかどうして傑作なのだ。(余談だが、JUJUの最新シングル曲「ラストシーン」も哀愁ドラムンベースだ。)
 サカナクションというバンドは、フロントマンである山口一郎のナルシスト的な側面ばかりが注目されがちだが、聴きどころは現代詩を思わせる歌詞とエレクトリックサウンドの異種交配にある。寺山修司や吉本隆明を愛読し、創作活動において苦悩する姿を敢えて衆目にさらすことをためらわない山口一郎の手になるエキセントリックな歌詞は、エレクトリックサウンドに乗ってこそ輝いてくるといえるだろう。〈過剰に文学的な歌詞〉、〈山口一郎のアクの強い歌い方〉、〈最先端ではないエレクトリックサウンド〉。一つひとつは、ちょっと引いてしまうというか、敬遠したい感じなのだが、それらの要素が重なり合うとクセになるから不思議だ。そのような音楽性をもってして、和製レディオヘッドと形容することは可能かも知れない。本シングルの4曲目にはコーネリアスによる「ミュージック」のリミックスが収録されているのだが、今のタイミングでコーネリアスをリミキサーに起用するという感覚が鋭いのか、ズレているのか分からない。しかし、そうしたマイペースなスタンスがじつにサカナクションらしいといるのではないか。
 最後はSEKAI NO OWARI。中二病バンドとしてディスられることも多いセカオワだが、かつてのエレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)がそうであったように、きわめてコンテンポラリーなバンドだと思う。「Love the warz」の歌詞や、映画「エルム街の悪夢」を模した「銀河街の悪夢」の楽曲タイトルなど、確かに青臭い部分もあるが、セカイ系ロック、あるいは、ファンタジーロックという新たなジャンルを確立したという意味では唯一無二といえるだろう。「炎と森のカーニバル」と「眠り姫」はそっくりだし、新曲の「DRAGON NIGHT」では、EDMの意匠を取り入れたりしているものの楽曲的にネタ切れ感が漂ってきているのは否定できないし、引き出しがさほど広くなさそうなのがネックなのだが、キャラづくりも含めた演出はじつに巧みだ。エヴァンゲリオンや最終兵器彼女等から連なるセカイ系の想像力をベースに、ロールプレイングゲームとディズニーとティム・バートンを足して3で割ったようなキモカワイイワールドを構築するロックは、これまでありそうでなかった。
 セカオワはバンドの形態を取ってはいるが、ドラマーとベーシストがいない。だからこそ、「スターライトパレード」のような4つ打ちの名曲が生まれたのだろう。サカナクションにはドラマーが存在するが、曲によって生ドラムと打ち込みを使い分けている。セカオワやサカナクションに比べると、ゲスの極み乙女。は生ドラムにこだわっているように見える。それでもこれら3組のバンドが、生演奏であるか打ち込みであるかに関わらず、リズム隊に力点を置いていることは間違いない。そのような点において、ギタリスト主導のバンドとは異なり、多様化・拡張するハウス/テクノ/ヒップホップ以降の音楽シーンと親和性が高いのだろう。








「YOU'RE DEAD」 FLYING LOTUS





 かねてより自らの作品にジャズ的な要素を取り入れてきたフライング・ロータスだが、WARPからリリースされた4枚目のアルバム「YOU'RE DEAD」 は、彼の作品の中で最もジャズに接近したアルバムとなった。
 顔面にくりぬかれた穴から放射状のオーラが放たれている曼荼羅チックな本作のアートワークだが、その原型は2010年に発売されたセカンドアルバム「COSMOGRAMMA」のアルバムジャケットにある。「COSMOGRAMMA」のアートワークは本作とは対称的に幾何学的なデザインだから、見過ごされがちだが、円形のパターンから放射状の光が放射されているイメージは2つのアルバムに共通している。つまり、「YOU'RE DEAD」は「COSMOGRAMMA」とつながりを持つ作品であることが、ジャケットのアートワークにおいてあらかじめ暗示されているというわけだ。「COSMOGRAMMA」もジョン・コルトレーンの息子であるラヴィ・コルトレーンのサックスをフィーチャーするなど、ジャズを意識したアルバムだった。しかし、フライング・ロータスが自らプログラミングした電子ビートが炸裂する「COSMOGRAMMA」に対して、本作では4人のドラマーがクレジットされており、生演奏を主体としたサウンドへとシフトしている。さらに、「COSMOGRAMMA」では控えめだったサンダーキャットがベースを弾きまくっているため、フュージョン・ロック色が強くなっているのが特徴だ。そして、極めつけはハービー・ハンコックの参加だろう。実際に楽曲を聴いてみると、ハービー・ハンコックでなくともかまわないのではないかと思われるほど控えめなエレクトリックピアノに肩透かしを食らうが、それでもハービーがピアノを弾く「TESLA」と「MOMENT OF HESITATION」は、畳みかけるような緊迫感がハンパなく、本作におけるキラーチューンとなっていることは間違いない。その他には、ラッパーとしてケンドリック・ラマーが参加した「NEVER CATCH MW」も、プログレッシヴかつダイナミックな展開が秀逸だ。
 アルバムの中にはフライング・ロータスがビートメイクを手がけている曲もあるのだが、一聴するだけでは生演奏と区別が付かず、いつものメタリックなビートの鳴りはすっかり影を潜めてしまっている。そのせいか、ミディアムテンポの曲が続くアルバム後半においてはやや物足りなさを感じてしまう。カマシ・ワシントンのサックスをフィーチャーした7曲目あたりまでは文句なくスリリングで息もつかせないのだが、惜しむべきは後半、その勢いがトーンダウンしてしまうことだ。ジャズとのガチンコ対決を避けているようなラウンジ/モンドテイストも、いつもながらのフライング・ロータス節ではあるのだが、本作においてはどことなく散漫な印象につながってしまっている。収録時間が38分と短く、さらに1曲1曲が短いことも淡泊な印象に拍車をかけているのだろう。それぞれに魅力的な断片の寄せ集めではあるのだが、アルバム単位ではなく、曲単位でも、ジャケットに描かれているような壮大な世界観をもう少し聴かせて欲しかった気がするのだ。
 テクノやビートミュージックの洗礼を浴びたジャズドラマーたちが台頭する中、単純にエレクトリックグルーヴに、サックスやギターを絡めるというスタイルのジャズはやりたくないというフライング・ロータスの意図は分かる。それでも「COSMOGRAMMA」というカオスが体現していた暴力的なまでの強度と比較すると、どれだけ即興的な手法が取り入れられていたとしても、本作は理知的にコントロールされたサウンドという感じが否めないのだ。それはジャズドラマーがどれだけヒップホップからの影響を巧みに昇華したビートを叩いてみせても、ヒップホップのグルーヴを超えることができないのと同じであり、本作の限界というよりは生演奏の限界といった方が正確かも知れない。
 それでも本作が、ビートメイカーが生演奏ジャズに挑戦し、コンポーザーとしての才能を遺憾なく発揮して見せた記念碑的作品であることは間違いないだろう。しかし、ビートに目を向けるなら、いつものフライング・ロータスの方が面白いのもまた事実なのだ。グロテスクな人体破壊を描いた本作のイラストは日本人漫画家、駕籠真太郎によるもので、御茶漬海苔の漫画のようなポップなタッチではあるが、丸尾末広を起用したジョン・ゾーン「ネイキッドシティ」の中ジャケを思い起こさせる。ジャケットのセンスも含めて、フライング・ロータスにはもう少し、スタイリッシュで空間的な広がりをたたえたカオスを表現して欲しいと願ってしまうのはお門違いなのだろうか。









前作COSMOGRAMMAよりジャケット



前作COSMOGRAMMAより
「THE SIGNAL」 ELIZABETH SHEPHERD
「PERFECT ANIMAL」 BECCA STEVENS BAND
「COMET,COME TO ME」 MESHELL NDEGEOCELLO











 エリザベス・シェパード、ベッカ・スティーヴンス、ミシェル・ンデゲオチェロ。現代ジャズ・シーンを賑わす3人の女性アーティストが今年リリースしたアルバムは、まるで申し合わせたかのように共通の匂いを放っている。
 エリザベス・シェパードはヒップホップ/ネオソウル、ベッカ・スティーヴンスはロック/フォーク、ミシェル・ンデゲオチェロはロック/レゲエ/ファンクといった具合に、アルバムのバックボーンになっているジャンルは少しずつ異なるのだが、それらはネオ・ロックとでも形容したくなる土着性の強いサウンドで、やはり今年に入ってリリースされたホセ・ジェームス「WHILE YOU WERE SLEEPING」がそうであったように、いずれも骨太でアーシーな感触を備えたサウンドいえるだろう。
 ロバート・グラスパーとも繋がりのあるギタリスト、リオーネル・ルエケも参加するエリザベス・シェパードの作品は、他の2人に比べるとロック色が薄めだ。ベン・ラムディン(ノスタルジア77)のプロデュースに象徴されるように、過去のサウンドが欧州クラブジャズシーンの影響下にあったのに対し、本作はNYジャズへの傾倒が顕著な内容となっている。ここで聴かれるエリザベスのヴォーカルは、まるでグレッチェン・パーラトのようだ。しかし、リオーネル・ルエケによるアフロ風味のギターやヒップホップ的なポリリズムが、ルーツ・ミュージック的なグルーヴを体現しているため、ベッカ・スティーヴンスやミシェル・ンデゲオチェロのロックなサウンドと共鳴し合っているように聴こえるのだろう。
 さて、〈Jazz The New Chapter〉で、やたらと評価の高いベッカ・スティーヴンスの新作だが、前作「WEIGHTLESS」のフォーク/カントリー路線を踏襲しながらも、ロックテイストが強調された作品となった。プロデュース&エンジニアを担当するスコット・ソルターがインディ・ロックのプロデューサーということもあり、フェミニンな牧歌的サウンドからシンプルで肉厚なサウンドへと大胆に変貌を遂げている。前作でもザ・スミスやアニマル・コレクティヴのカバーが取り上げられていたが、本作にはフランク・オーシャン、アッシャー、スティーヴ・ウィンウッドのカバーが収録されている。スタイル・カウンシルの幻影をふり払うかの如き泥臭さを全面開花させたポール・ウェラーのソロ作さながらに、ルーツ・ロック的な相貌を帯びた本作をジャズのコンテクストで語ることはもはや困難だ。
 2005年以降に頭角を現したエリザベス・シェパードやベッカ・スティーヴンスに対し、ミシェル・ンデゲオチェロは、アシッドジャズ全盛期の90年代前半から活躍するベテランアーティストであり、3人を同列に扱うことは無理があるかも知れない。しかし、2005年にリリースされた「THE SPIRIT MUJIC JAMIA:DANCE OF THE INFIDEL」において、ケニー・ギャレットやジョシュア・レッドマン、ジャック・ディジョネット、カサンドラ・ウィルソンといったビッグネームとともに、のちにロバート・グラスパー・エクスペリメントのドラマーを務めることになるクリス・デイヴを起用してセッションを行うなど、ジャズ、R&B、ファンク、ヒップホップ、ロックのボーダーラインをいともたやすく乗り越えながら、クオリティの高い音楽を提供し続けてきた彼女こそ、ベッカ・スティーヴンスやロバート・グラスパーの源流であり、〈Jazz The New Chapter〉の草分けといっても過言ではない。本作「COMET,COME TO ME」は、2011年にリリースされたブルージーな「WEATHER」の流れを汲むアルバムで、ヒップホップクラシック、フーディーニのカバーにはじまり、ロックやファンク、レゲエなどの要素を巧みに融合しながら、ミシェル・ンデゲオチェロ印のサウンドをつくり上げている。
 エリザベス・シェパードはピアニスト、ベッカ・スティーヴンスはギタリスト、ミシェル・ンデゲオチェロはベーシストと三者三様ではあるが、3人ともに楽器のプレイヤーであると同時にシンガーでもあるという共通項を持つ。その3人による3枚のアルバムだが、サウンド面の近似性にとどまらず、ジャケットのアートワークからして同じ匂いを漂わせているところが興味深い。
 エリザベス・シェパード「THE SIGNAL」のジャケットでは、鹿の角を頭に生やして獣人と化したエリザベスがビジュアルとなっているが、ベッカ・スティーヴンスのアルバム・タイトルは半人半獣ならぬ「PERFECT ANIMAL」である。さらに、ミシェル・ンデゲオチェロの「COMET,COME TO ME」のジャケットの手の形に注目して欲しい。エリザベス・シェパード「THE SIGNAL」の手の形とじつによく似ている。また、ベッカ・スティーヴンス「PERFECT ANIMAL」とミシェル・ンデゲオチェロ「COMET,COME TO ME」のポートレイトは、仰角のカメラアングルが同じだ。そして、3人とも瞼を閉じている。まるで、瞑想しながら覚醒のときを待っているかのようだ。
 3人の女性ミュージシャンが、揃いも揃って骨太な肉食系サウンドを指向しているように映るのは、恐らく偶然ではない。そこには、ここ数年、にわかに高まってきているジョニ・ミッチェル再評価の気運が関係しているのだろう。








 
「MY LIFE STARTS NOW」 MARK GUILIANA
「BEAT MUSIC THE LOS ANGELES IMPROVISATIONS」 MARK GUILIANA








 ジミ・ヘンドリックスをはじめとするロックミュージシャンからの影響を公言していたマイルス・デイビスは、1970年、イギリス南部のワイト島で行われたロックフェスにジミ・ヘンドリックスやドアーズ、ジョニ・ミッチェル、ザ・フー、ジェスロ・タルといった面々と出演し、エネルギッシュなステージを繰り広げた。
 そして2010年代、ボブ・マーリーやジョン・コルトレーン、デビッド・ボウイとともに、エイフェックス・ツインやスクエアプッシャー、ニルヴァーナからの影響を公言するジャズドラマーが現れた。鍵盤奏者ブラッド・メルドーとのプロジェクトMehlianaやグレッチェン・パーラトのライブアルバムで話題になったマーク・ジュリアナである。
 近年、ロック・ミュージックからの影響をジャズのフォーマットへ昇華する試みに取り組んでいるジャズ・ミュージシャンは後を絶たない。Mehlianaでマーク・ジュリアナとユニットを組んでいるブラッド・メルドーは、マーク・ジュリアナよりも長いキャリアを持つミュージシャンであるが、過去にオアシスの「Wonderwall」、レディオ・ヘッドの「Exit music」、ニック・ドレイクの「Time Has Told Me」をカバーしている。また、現代のNYジャズシーンを象徴するロバート・グラスパーもまた、ロバート・グラスパー・トリオ名義でレディオ・ヘッドの「Everything in its right place」を引用し、ロバート・グラスパー・エクスペリメント名義でニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」、デビッド・ボウイの「Letter To Hermione」をカバーしている。また、ジャズ/フォークギタリストとして注目されているベッカ・スティーヴンズもインディロックバンド、アニマル・コレクティヴの「My Girls」をカバーしているし、ピアニストのテイラー・アイグスティもベッカ・スティーヴンズをフィーチャーしたアルバムにおいて、ニック・ドレイクの「PINK MOON」をカバーしている。
 さて、それでは、テクノやハウスはどうだろうか。デリック・メイやジェフ・ミルズ、オウテカをピアノでカバーし、デトロイトテクノの御大カールクレイグを奏者に迎えたアルバムを出しているフランチェスコ・トリスターノがいるが、彼はクラシックピアニストであり、ジャズピアニストではない。クラブ・ミュージックを生演奏でカバーしたドイツのre:jazzというプロジェクトもあるが、クラブシーンから派生したバンドであり、企画物の域を超えるモノではなかった。さらに、日本にも日本のクラブミュージックを生演奏でカバーするバージョン・シティ・セッション(version city session)なるユニットがあったが、あまりにマイナーなのでここでは割愛する。
 ところで、重要な人物を忘れていないだろうか。そう、ドラマーのクリスチャン・プロマーである。2007年にジャザノヴァが主宰するソナーコレクティヴからリリースされた「CHRISTIAN PROMMER'S DRUMLESSON DRUM LESSON VOL.1」では、デリック・メイやラリー・ハード、マスターズアットワーク、クラフトワーク、ISOLEEなどのカバーをバンドスタイルで演奏し、クラブジャズのマーケットでは大いに注目を集めた。クリスチャン・プロマーは、re:jazzと同様に、クラブ・ミュージックとしてのカラーが強過ぎて、ここで取り上げることに異論の声もあるだろう。しかし、CHRISTIAN PROMMER'S DRUMLESSONは、本格的なジャズユニットであり、アレンジもかなり凝っていた。2007年といえば、ちょうどロバート・グラスパーの出世作「In My Element」がリリースされた年であり、今にして思えば、クラブ・ミュージックとは異なる次元でのジャズ、ロック、テクノ、ヒップホップ、ブレイクビーツの相互乗り入れは、この頃からはじまっていたのかも知れない。
 さて、時を同じくしてリリースされることになったマーク・ジュリアナの2枚のアルバムであるが、「MY LIFE STARTS NOW」は楽曲重視のアルバム、「BEAT MUSIC THE LOS ANGELES IMPROVISATIONS」は全30曲からなるバンド編成による即興演奏集だ。とりわけ、掌編ともいうべき楽曲が矢継ぎ早に展開していく「BEAT MUSIC THE LOS ANGELES IMPROVISATIONS」は、その構成がグラインド・コア・パンクのソア・スロートやエイフェックス・ツインの「drukps」を想起せずにはいられないのだが、マーク・ジュリアナというミュージシャンに関して特筆すべきは、ジャズミュージシャンである前に、徹底したビートフェチであるということだ。ロバート・グラスパー・トリオのドラマーであるクリス・デイブなどにも似ているのだが、マーク・ジュリアナの場合は、ヒップホップの影響が強いクリス・デイブと比べて、テクノやダブ、ブレイクビーツ、ドラムンベースの影響が強く感じられる。どれだけ非人間的にドラムという楽器を演奏できるかという実験をしているようで、かなり変態的なドラマーといえるだろう。
 リチャード・スペイヴンなどもウエストロンドンのブロークンビーツを再現することに歓びを見出すエキセントリックなドラマーだが、ブロークンビーツというジャンル自体がジャズやアフロビートの影響下にあることを考えると、何のひねりもない打ち込みを寸分違わぬ精巧さで人力化してみせるマーク・ジュリアナの方が変態度は圧倒的に高い。
 「MY LIFE STARTS NOW」に収録されている⑦「MY NAME IS NOT IMPORTANT」などはまるでa-haの「テイク・オン・ミー」とドラムンベースの融合だし、⑥「MANHATTAN NIGHTS PART 1」はザ・打ち込みともいうべきミディアム・テンポのナンバー、⑩「MOVE OVER OLD GUY」は打ち込み度数が高すぎてドラマーが定着しなかったウェザー・リポートを思い起こさせる。
 マーク・ジュリアナというドラマーが変態的なのは、ドラマーならまず避けたがるであろう機械的な打ち込みを生身のプレイで再現する行為に快楽を見出しているところだ。その姿は、拘束プレイに興奮するマゾヒストにも似ている。スネアとハイハット、そしてバスドラを駆使してつくり上げられるマーク・ジュリアナの硬質なビートは、打ち込みであれば何の変哲もないサウンドであり、あえてそれを生演奏で忠実に再現することはテクニックの無駄使いともいえる。いってみれば、それはジャズをテクノの音色で再構築しようという行為で、クリスチャン・プロマーがテクノをジャズの音色で再構築しようとしていたのとは対極にあるサウンドだ。
 ここにジャズの未来があるかと問われれば、積極的に首を縦に振ることは憚られるが、これもまたジャズの可能性のひとつとして捉えるなら、悪くないと思う。
 「BEAT MUSIC THE LOS ANGELES IMPROVISATIONS」では、テクノ以前のperry kingsleyなどを連想させるチープな電子音も聴かれる。

補記
リオーネル・ルエケ「HELITAGE」でのマーク・ジュリアナのプレイは、アフロビート色がやや強めであり、ここで紹介した2枚とはまた違った魅力が堪能できる。













「IN THE WILD」 FaltyDL





ワンノートリックス・ポイント・ネヴァー、アクトレス、マウント・キンビー‥‥。近年、テクノシーンで増加しているカテゴライズ不能な作品。フォルティDLの4作目となる「IN THE WILD」もまた、そうした作品のひとつに数えられるだろう。
これはワンノートリックス・ポイント・ネヴァー等の音楽にもいえることなのだが、ウィキペディアなどを見れば、そこにはノイズ/アンビエント/ドローンなどといった言葉が記述されている。しかし、そのどれもがしっくりとこないのである。とりあえず、ノイズ/アンビエント/ドローンとでもいっておけば分類した気にはなれるのだろうが、ノイズ/アンビエント/ドローンの核心部分とはリンクしていないため、そうした説明からは、サウンドの実像が明確な焦点を結ぶことは決してない。
そもそもエレクトロニカであるとか、ミニマルテクノであるとか、ミニマルダブであるとか、EDMであるとか、ダブステップであるとか、ネオインダストリアルであるとか、現在のようにテクノが細分化されるようになったのは90年代後半に入ってからのことである。90年代の初頭を思い起こせば、エイフェックスツインからアレックス・パターソン、オウテカ、デトロイトテクノまでが、十把一絡げにインテリジェント・テクノ、あるいはアンビエント・テクノと呼ばれていたのだ。(ブリープ・テクノなるカテゴリーもあったが、ほとんどLFOやトリッキーディスコ、スウィートエクソシストのサウンドを形容するために用意されたようなカテゴリーであって、極めてレアなケースといえるだろう。)要するにインテリジェント・テクノも、アンビエント・テクノも、“踊れないテクノ”という消極的な共通項でもって、かろうじてカテゴライズされているに過ぎなかった。
本作が、従来のジャンルではカテゴライズできないということは、つまり、テクノ・ミュージックが再び黎明期の自由さを取り戻しつつあるということの証左なのかも知れない。「IN THE WILD」という、いささか挑戦的なタイトルが冠せられた本作は、そのタイトル通りにモダンでありながらもトライバルなサウンドが特徴的だ。ジューク/フットワークなどからの影響も覗かせつつ、そのような狭いカテゴリーには収拾され得ないスケールの大きさこそが、本作の魅力といえるだろう。
フォルティDLといえば、デビュー作「Love Is Liability」と2nd「You Stand Uncertain」で聴かれるように安っぽく官能的なネオUKガラージサウンドが特徴だった。しかし、前作「Hardcourage」からは、ガラージ的な表現はやや影を潜め、アブストラクトな領域へとそのサウンドスケープを拡張してきている。本作ではガラージは隠し味的に用いられてはいるが、重要な要素ではなくなっている。
それでもフォルティDLならではのエンターテインメント性はいささかも失われてはいない。むしろ、表面的なダンスミュージックに寄りかかっていないだけで、エンターテインメント性は強度を増している気すらする。アブストラクトな作品であるにも関わらず、滲み出てしまうポップさにこそフォルティDLの本質があるといっても過言ではないだろう。「IN THE WILD」は、知性と野生が融合した傑作である。