Future Cafe -30ページ目

Future Cafe

音楽レビューのようなもの〜TECHNO、JAZZ、BREAKBEATS etc

「HTH035」 AKKORD


 
 2014年にリリースされたEP「HTH020」からの4曲に、The Haxan Cloak、Vatican Shadow、Fis、Regisによるリミックス・トラックを追加したAkkordの編集盤アルバムがリリースされたが、これがなかなかの好盤だ。
 まず、1曲目の「GRAVURE」を聴いてぶっ飛んだ。サウンドの“間”が強調され、時折、暗闇に楔を打ち込むように金属系のビートが響く。まるで、BPMを落としたフォーテックのドラムンベースのようだ。ファーストアルバムも1曲目はスローな楽曲だったが、闇の濃度が凄みを増しており、RaimeやAndy Stott、The Haxan Cloakといったポストインダストリアルのアーティストたちと比較しても遜色のないトラックとなっている。ダビーな4曲目の「GREYSCALE」も同様に、闇の中に沈み込んでいくように重く、深い。
 本作に収められたオリジナルの4曲だけでは早計に判断することはできない。しかし、プログラミングにより細部に至るまで精緻に構築されたハイレゾリューショナルなサウンドが特徴的だったファーストアルバムに対して、ダーティな重低音や太めのビートが目立っている気がする。そして、ポストインダストリアルへの傾倒は本作における大きな特長だ。2曲目の「CONTINUUM」からは、たとえばANDY STOTTのユニットであるMILLIE&ANDREAのインダストリアル・ドラムンベース等からの影響が感じられる。
 そして、The Haxan Cloakがリミックスを手がける「HTH020」。The Haxan Cloakらしさが際立つ入魂のダーク・アンビエントだ。ここでは、ビョークのアルバムでは抑え気味だったいびつで抑圧された閉鎖空間の如きサウンドスケープが全面的に開花している。Vatican Shadowのミックス「TYPEFACE/GREYSCALE」は、ネオゴシック的な展開を見せると思いきや意外にも4つ打ちのハウスサウンドであり、そのオーソドックスなアプローチにより、本アルバムの中では逆に異彩を放つ1曲となった。Fisが手がける「GRAVURE/CONTINUUM」やREGISによる「GRAVURE/CONTINUUM」もまた、ドローンやノイズが渦巻くダークな展開で、Akkordがめざしている方向性を示唆しているといえるだろう。
 本作においてポストインダストリアルに挑戦し、著しい成果を顕揚してみせたAkkord。それでも、彼らの本質はポストインダストリアル勢とは一線を画す、ポリリズムの妙にあると敢えていいたい。Akkordの出身はマンチェスターであり、マンチェスターといえばニュー・オーダーやハッピー・マンデーズに代表されるように、かつてのインディーダンスの聖地である。そのDNAを継承しているのだろうか?どれだけダーク・アンビエントに接近しても、滲み出てしまうリズムのキレの良さにこそAkkordの魅力が宿っている。







「Colours + Collaborations」 NIA ANDREWS





 1990年代のウエストロンドンで産声を上げたブロークン・ビーツ・シーンは、多くの歌姫を世に送り出した。ベンベ・セグエ、ヴァネッサフリーマン、ニコラ・クレーマー、ジュリー・デクスター‥‥。そして近年、ブロークン・ビーツ系ミュージシャンのリアルジャズへの転向が注目される中、新たな歌姫たちが生まれはじめている。
 そのひとりが、ドラマーにリチャード・スペイヴンを迎えてアルバム「RUTH」を発表したブルガリア出身のルス・コレヴァであり、もうひとりがマーク・ド・クライヴローのアルバム「CHURCH」(2014年)にゲストヴォーカルとして参加していたニア・アンドリュースだ。リチャード・スペイヴンもマーク・ド・クライヴローもブロークン・ビーツ系ミュージシャンであり、両者は過去に共演経験もある。
 余談になるが、サックスプレイヤーで文筆家の菊池成孔氏が、『今ジャズ』という言葉で括られるロバート・グラスパー以降のジャズ(つまりリチャード・スペイヴンのようなジャズ)は、『ヒップホップを経由したドラムパターンだ』というのが評論家の間で通説になっているが、それは評論家の視野が狭いからで、自分はドラムンベースの第二次だと思うというようなことを語っていた。ブロークン・ビーツがドラムンベースの影響下にある以上、氏の言う通りなのだが、ここは「ドラムンベースの第二次」というよりは、「ブロークン・ビーツのリアルジャズ化」とでも言っておいた方が事の本質を突いていると思う。
 ニア・アンドリュースのデビューアルバムとなる本作は、じつは正式なアルバムではなく、既発EPからの6曲に、前述の「CHURCH」に収録されていた2曲と新録リミックス曲2曲を加えた日本独自編集盤だ。そのせいか曲調にバラツキがあり、本作を聴いただけでは、ニア・アンドリュースという歌手のめざしている方向性がいまひとつよく分からない。それでも、曲は粒ぞろいだし、艶のある声質だし、今後発表されるフルアルバムはかなり期待できそうだ。ソロデビュー前はメアリー・J・ブライジやローリン・ヒル、ジャネール・モネイのバック・ボーカルを務めていたというから、もともとR&B畑のシンガーなのだろう。強烈な個性には欠けるかも知れないが、アクの強過ぎない歌声がむしろ心地いい。
 ルス・コレヴァのデビューアルバムと比較すると、ブロークン・ビーツ色は薄く(マーク・ド・クライヴロー絡みは既発の2曲だけだから当然と言えば当然なのだが‥‥)、正統派のソウルアルバムといえるだろう。しかし、マーク・ド・クライヴロー作品の印象から、渋めのジャジーサウンドをイメージしていただけに、冒頭の「COLOURS」と2曲目「MADE IN AMERICA」を最初に聴いたときは、その荒削りでダイナミックな展開に驚かされてしまった。どの曲も素晴らしい出来なのだが、本アルバム最大の聴きどころは、④「NOTES ON A HISTORY」や⑥「I'DDO IT ALL AGAIN」などのバラードだ。
 ブロークン・ビーツで話を進めておきながら、こんな風に締めくくるのもなんだけど、彼女の魅力はジャズやクラブシーンが云々といったところにあるのではなく、ホイットニー・ヒューストンにも通じる純粋な歌の力を感じさせてくれるところにあるのだと思う。

















「AMERICAN INTELLIGENCE」 THEO PARRISH





このところ、“反知性主義”という言葉を目にすることが多い。「現代思想」が2月号で“反知性主義と向かい合う”という特集を組んだと思ったら、「反知性主義:アメリカが生んだ『熱病』の正体」(森本あんり著)、「日本の反知性主義」(内田樹編)がたて続けに出版された。
 反知性主義とは、知識や知識人への批判が高じて生まれる平等思想であり、そこから転じて国家権力によって意図的に国民が無知蒙昧となるように仕向ける政策のことを言うようになったらしい。反知性主義という概念自体は、半世紀以上前から既に存在しており、1963年にはリチャード・ホーフスタッターというアメリカの政治史家が「アメリカの反知性主義」という本を出版している。
 確かに、ここ日本では近年、アカデミズムを軽視する風潮が強まっているし、理想論や建前を放棄することが格好いいといわんばかりに身も蓋もない本音を大声で叫び散らす輩が増えてきているような気がする。そのような日本の反知性主義を「日本のアメリカ化」と言い換えることも可能なんだろうけど、多民族国家であるアメリカよりも、単一民族国家・日本の反知性主義の方が、自らのスタンスを相対化する視点を内在していない分だけ、むしろ深刻だと思うのは筆者だけだろうか。ただ、こうした傾向は日本だけでなくヨーロッパでも見られるというから、グローバリズムという名のアメリカ化が世界的に進行したその結果なのかも知れない。
 日本の話はさておき、アメリカの反知性主義という言葉で思い出されるのが昨年リリースされたセオ・パリッシュの新作だ。「SOUND SCULPTURES VOL.1」というアルバム(VOL.2はどこへ行った?)から7年ぶりにリリースされた「AMERICAN INTELLIGENCE」と題されたそのアルバムは、ジャケットのたたずまいからして白人優位のアメリカ知識階級への皮肉が込められているようで面白かった。「ブッシュJr.とオバマ大統領を比べてみよ。アメリカの真っ当な部分を担っているのは、白人ではなく黒人ではないか」と言わんばかりに‥‥。
 ハンチングを被ったセオ・パリッシュは利発そうな表情でこちらを見つめているのだが、その姿は画家のようでもあるし、労働移民のようでもある。黒人であるが故に、何の変哲もないポートレイトが過剰に意味を帯びて見えてしまう現象を逆手にとっているかのようだ。一転して中ジャケや裏ジャケでは、無防備に欠伸をしたり、窮屈そうに第一ボタンを外すセオのユニークな表情が、ロバート・ロンゴのドローイングを思わせるタッチでとらえられているのだが、インテリを気取った表ジャケにツッコミを入れて茶化している様子がおちゃめで微笑ましい。
 本2枚組アルバムに収録された15曲は、いずれも音数が少なく、ストイックな印象のトラックばかりだ。テクノ系アーティストが、デビューから15年以上の時を経て最高傑作と呼べる作品をリリースするというケースはほとんどないが、「AMERICAN INTELLIGENCE」はセオ・パリッシュの最高傑作と断言したくなるほど充実したアルバムだった。
 アジテーション風コーラスがチャールズ・ミンガスの「フォーバス知事の寓話」を思わせる「Enjoy Watching You」や、鋭角的なベースラインがスクエアプッシャーばりにスリリングな「Helmut Landshade」、ストイックでありながらエモーショナルな「Drive」など、刺激的なトラックが並ぶ。アルバムの最後を飾る「Footwark」では、ゲットー文化の象徴のようなフットワーク/ジューク系のサウンドに挑戦しているのだが、ジャズやデトロイトテクノに象徴されるように、ゲットーの中から知的なものが立ち上ってくる光景こそが黒人文化の醍醐味といえるだろう。
 しかし、どの曲も10分近くの長尺で今どき珍しい。これはひょっとするとEDMへの当てつけなのではないかと思ってしまった。つまり、「AMERICAN INTELLIGENCE」とは、アメリカの反知性主義の音楽版ともいうべきEDM現象に対する皮肉なのではないかということだ。EDMはハウスやデトロイトテクノとは異なり、基本的に白人のダンスミュージックである。しかも、1曲当たりの尺が短い。EDMを反知性主義的な音楽としてとらえると、セオ・パリッシュが「AMERICAN INTELLIGENCE」というタイトルのアルバムを出した背景が見えてくるような気がするのだ。





「Vulnicura」 Björk





 ジャズ評論家・中山康樹氏がかつて、その著書の中で「マイルス聴き」というジャズの聴き方を提唱していた。マイルス・デイビスは、ビバップからヒップホップまで、時代によってスタイル変遷させ、世代の異なるさまざまなタイプのミュージシャンとも共演してきたから、マイルス・デイビスのアルバムを年代順に聴いていくだけで、ジャズの歴史が追体験できるというもの。これをテクノミュージック/クラブミュージックの世界にあてはめると、「ビョーク聴き」というのがあってもいいのではないかと思ってしまう。
 半世紀近くにわたってジャズの最前線を走り知り続けてきたマイルス・デイビスに比べれば、アルバム数は圧倒的に少ないし、とてもじゃないけどテクノミュージック/クラブミュージックのすべてを網羅しているなどとは言えないのだが、90年代から2000年代初頭にかけてのビョークはエレクトリックミュージックの歴史を体現していたといってよいと思う。1st「Debut」 (1993)ではハウスミュージック、2nd「Post」 (1995)ではトリップホップ、3rdアルバム「Homogenic」(1997)ではブレイクビーツ、4th「Vespertine」 (2001)ではエレクトロニカといった具合に、つねにミュージックシーンの最新動向を反映させながら、自身のポップミュージックを進化させてきた。つまり、この時期のビョークを聴けば、テクノミュージック/クラブミュージックのおおよその流れは把握できるというわけだ。
 しかし、アルバムを重ねるごとに、メロディも、サウンドも次第に内省的になり、ポップミュージックとしての魅力が後退していった感は否めない。ヒューマン・ビート・ボックスをバックトラックとして全面的に起用した「Medúlla」(2004)では、シーンの先端とシンクロしようという意志は失われてしまい、純粋な芸術表現の方へと向かいはじめた気がして、それ以来ビョークを追いかけるのはやめてしまった。(ちょうど、コーネリアスの「POINT」が、引用や模倣を止めて、文字通り純粋な音楽表現へと向かうターニングポイントとなったのと似ている。)「Medúlla」がリリースされた2004年は、クラブジャズの全盛期である。テクノにとっては受難の時代であったことも、自閉的な表現に拍車をかけたのだろう。2007年の「Volta」ではティンバランドを起用したりもしているようだが、生憎未聴だ。
 というわけで、個人的には10年以上も遠ざかっていたビョークなのだが、その新作「Vulnicura」にアルカとハクサン・クロークが参加しているということを知って、俄然興味が湧いてきた。シーンの先端に、ようやくビョークが帰ってきた。このブログでも過去に紹介しているが、ポスト・インダストリアルの行方を示唆するアルカの「XEN」とハクサン・クロークの「EXCAVATION」は、ここ数年間のテクノ・ミュージックにおける最重要作品だといってもいい。先端音楽のキーマンが2人も参加しているのだから、面白いアルバムにならないはずがないと確信した。
 さて、「Vulnicura」を聴いてみた感想だが、残念ながら期待を超えるものではなかった。全9曲中、6曲のプログラミングをアルカが、3曲をアルカとハクサン・クロークが共同で担当しているのだが、ストリングス・アレンジが前面に出すぎていて、せっかくのプログラミングが響いてこない。ハクサン・クロークが参加した⑤「Family」などを聴くと、2人のサウンドメイカーがビョークの声を喰ってしまうしまうくらいにお互いのエゴを剥き出しにしていれば、もっと面白いアルバムになった気がする。いかんせん、アルカがアルカらしくない。ハクサン・クロークも、遠慮気味に見える。そのせいで、ビョークのファンが安心して聴けるアルバムになってしまった。とんでもない化学反応を期待していたのだが‥‥。これも、プロデューサー/アーティストとしてのビョークの意向が強く反映された結果なのだろうか。もう少し、ビョークのカラーを抑えた方が良かったのではないか。
 そうしたことはさておいて、最近のメジャーシーンは凄いと思う。マイナーなアーティストでも、スポットが当たりはじめたなと思ったら、瞬く間にメジャーシーンに組み込まれていく。今回の場合はアルカの方からビョークにアプローチしたという話だからそれには当たらないだろうが、最近のメジャーシーンには目利きが新たな才能の出現をスポーツ選手のスカウトよろしく手ぐすね引いて待っているイメージがある。
 アルバムタイトル「Vulnicura」は傷の治癒という意味らしいが、そこには現代美術家のマシュー・バーニーとの離婚から立ち直ったビョークの私的な想いが込められているようだ。マシュー・バーニーと出会う前からアート志向が強かったビョークだが、今回のアルバムでのもうひとつの注目点は、自称芸術家(?)ろくでなし子も真っ青のアートワークだろう。手がけているのは、映像作家のアンドリュー・トーマス・ホワン。ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催されるビョークの回顧展では、ホワンが監督した本アルバム収録曲の映像インスタレーションも公開されるという。アルカとジェシー・カンダもそうだったが、近年はミュージシャンとアーティストとのコラボレーションが盛んになってきている。かつてのMTVとは違う感覚でミュージックビデオがつくられていて興味深い。だけど、アンドリュー・トーマス・ホワンのセクシャルな表現はどうなんだろうか。ウルトラマンの怪獣のような造形や、ジェシー・カンダとも共通するぬめるようなマテリアルの質感は面白いけど、セクシャルなモチーフはいまさらという気がしなくもない。直接的な性表現以外は何でもありの日本とは違う、アメリカならではの受け止め方もあるのだろうか?
 また、ビョークが着用しているヘッドピースは、日本人デザイナー武田麻衣子の手になるものだそうだ。レディー・ガガの「ヒールレスヒール」を制作しているのが日本人シューズデザイナーだというのは有名だが、先日テレビのワイドショーでガガが着るアルミの衣裳を高齢のアルミ職人が大阪の町工場でつくっているというドキュメントをやっていた。クールジャパンなどというかけ声とは違う次元で、匠の技が海を越えていく現象は今日的だ。








「Green Flash」 AKB48



  「いつか観た古いフランス映画 その中で言っていた それが太陽が沈んでく瞬間 最後まで残る緑の光 それを見たらしあわせになれる」という歌詞が出てくるAKB48の新曲「Green Flash」は、エリック・ロメールの映画「緑の光線」(1986年)を題材にしている。
 「海辺のポーリーヌ」や「四季の物語」シリーズなどの作品で知られるロメールは、ヌーベル・ヴァーグを代表する映画監督のひとりだが、メロドラマを撮らせたら彼の右に出る者はいないだろう。とるに足らない恋愛話をリズミカルに描いて、画面のすみずみまで充実感がみなぎる1本の映画に仕立て上げてしまうその手さばきは、ほとんど天才と言っていい。ストーリーは忘れてしまったが、「緑の光線」もまた、南仏にバカンスにやってきた普通の女性をヒロインに据えた他愛のない話だったと記憶している。「Green Flash」の中に歌われているように、“緑の光線(Le Rayon Vert)”とは日没時に、一瞬見えると言われている緑色の光のこと。それを見ると幸福になるという言い伝えがあるらしい。映画では、南仏の海辺で日没の瞬間に立ち会う男女の生々しい表情をキャメラに収めたラストシーンが印象的だった。
 そして、今回「Green Flash」のミュージックビデオを手がけるのは、是枝裕和監督だ。「そして父になる」で家族のメロドラマを手際よく語って見せた是枝監督は、5分に満たないミュージックビデオという制約の中でストーリーを展開するために、3つのシーンを軸として設定している。最初はメンバーたちが涙を流すシーン、2つ目はメンバーがビルの屋上に立ちすっきりとした表情で光を見つめるシーン(ペ・ドゥナ主演の是枝映画「空気人形」を思い出した)、そして3つ目は夕暮れ時の海辺で緑の光を見守るメンバーの横顔を捉えたシーンだ。駅のホームで横山由依が涙を流す場面で、走り去る電車を光だけで表現するなど、光の描き方が実に繊細で、是枝監督と言えば「幻の光」というタイトルの作品を撮っていたことなどを思い出してしまった。「Green Flash」のミュージックビデオだから、光にこだわるのは当然と言えば当然なのだが、出世作となった「誰も知らない」でも是枝監督の光への繊細な感受性は際立っていた。柳楽優弥演じる主人公が羽田空港近くの空き地で、妹の亡骸を埋葬した後にモノレールで迎える夜明けの光は忘れられない。ロメールが描いた南仏の光と是枝監督の描く光は違う。しかし、光という不確かなものをフィルムに定着させることのできる監督として是枝裕和を選んだ秋元康は、やはり冴えているとしか言いようがない。
 さて、楽曲としての「Green Flash」だが、やや地味ではあるが、味わい深いナンバーだ。シングルとしては珍しくラップがフィーチャーされているが、そのことが新たな魅力につながっている。とりわけ、音響からスクラッチへと切り替わるイントロの数秒間は素晴らしい。「Green Flash」のGreenは、きっと「緑の光線」だけでなく、音楽グループのGReeeeNにもひっかけているのだろう。 3作前の「ゴールデン・レトリバー」ではシルヴィー・バルタンが引用されていたが、今回は、歌詞のみで、サウンドからはフレンチポップスの影響はほとんど感じられない。秋元康がフランス押しなのだろうか。それとも「フランス人は服を10着しか持たない」や「フランス女性の働き方」がベストセラーになっている世相を反映した結果だろうか。それともたまたまなのだろうか。気になるところだ。

追記
古いフランス映画というと「舞踏会の手帳」や「巴里の屋根の下」「太陽がいっぱい」などを思い浮かべてしまうのだが、いまどきは「緑の光線」が古いフランス映画になるんだと改めて気づかされた。
余談だが、エリック・ロメール亡き後(2010年没)、ロメールの非凡なメロドラマを受け継いでいるのは、韓国の映画監督ホン・サンスだと思う。「気まぐれな唇」や「アバンチュールはパリで」など、どうでもいい恋愛話なのに本当に素晴らしい。