久しぶりに夫と映画を観てきました。
チリに実在したカップルのノンフィクションのドキュメンタリーのような映画。
でも、いわゆるNHKのドキュメンタリーみたいに解説か何かがあるわけではありません。
そこには、ホームビデオに記録された過去の時間と
最近の二人の日常の様子(これもホームビデオ的な動画)が静かな音楽と共に淡々と続いていくだけ。
あまりに淡々としているので途中少しウトウトしてしまったくらい。
妻のパウリは国民的女優で夫のアウグストはずっと政治を追いかけてきたジャーナリスト。
17歳差の二人だけれど、二人を見ているとあまり年齢の差は感じず、
認知症で記憶を失っていくアウグストと、時には悲しみつつも慈しみの空気で彼を包みながら日々を過ごすパウリ。
二人の姿が色々な動画のつなぎ合わせで映し出されていきます。
この映画、私の感想としては
それを見る側の経験やあり方が映し出される映画だな〜、と感じました。
夫と、夕食を食べながら感想を言い合ったのですが、
観点が違うところ、重なるところが両方ありました。
夫の両親は現在まさに義父が認知症で記憶が飛んでしまうことが多々あり、
共に暮らす義母がそれに悲しんだりイライラしたりしていて
夫はそれを目の当たりにしているからか、
自分の記憶がなくなっていくことは自分のアイデンティティがなくなってしまうようで怖いと言っていました。
私はといえば、
不思議なくらい、やってくる未来を怖いとは思わない自分がいるのを感じて、
自分が自分にへえ、という感じでした。
私は基本、すごくまだ見ぬ未来を怖がるタイプで、
起こってもいないことを想像しては
そうなったらどうしよう、と不安に思うようなことがこれまで多々ありました。
ここ数年、自分が年齢を重ねて60歳に近くなってきたこともあって
老いること、死を迎えることについて随分といろいろ考えてきたんですよね。
そこから、自分は(人間は)いったいなんのために生きているのだろう、
幸せというのは一体なんなんだろう、とも。
最初のうちは老いるのも死ぬのもただただ嫌だなあと思っていたのですが、
その二つとも誰もが避けられないことだし、
飽きもせずそれをずーっとずーっと眺めていたからか、
なんていうんでしょうね、開き直ったというわけではないけれど、
その嫌だなあと思うことも含めて、
全部が美しいプロセスのように思えてきているんですよね。
うちの父と母はもうすでに亡くなっていて、
二人ともすごく忙しくしていて、やっといろんなことから解放された時点で
二人とも病気になって死んでしまったので、アウグストとパウリのように
一緒の時間を味わうということがあまりできなかったんです。
だから、今日の映画の二人を見ていて、
夫のアウグストが日によっては20年以上一緒に過ごした妻のパウリのことを
全く思い出せないことがあって、それをそれぞれに悲しんでいるんですけど、
それも含めて、そこには愛の時間が流れているなあ、と思ったというか。
もちろん実際に私がそうなったら、夫がそうなったら
すごく悲しんだり、こんな悠長なことは言ってられないだろうなって思うんですけど。
でも、そうであったとしても
私の中のどこかで、それは一つの美しい時間でしかないと確実に思っている部分があるんですよね。
それを確認できたことが、今日この映画を観て一番嬉しいと感じたことでした。
もう一つ感じたことは、
「そこに、『何かをしてあげられる人がいる』ということの幸せ」。
最近ね、夫の勤務先が変わって毎日6時起きで弁当を作っているんですけれど、
夫は「職場で弁当を売りに来ている業者さんがいるから弁当作らなくても大丈夫だよ」
って言ってくれるんです。
けど、なんか弁当作りたいなって思って作ってて。
でもそれがどうしてなのかわかんない部分があったんです。自分でも。
朝は弱いし、できれば寝ていたい。
だけど、なんか作りたくて弁当作ってて。
それが、今日この映画をみてはっきりわかったんですけど、
「誰かに何かをしてあげられること」が幸せだと感じているんだな、と思ったんです。
仕事をしている人や子供さんがいらっしゃると、その対象がお客様や子供さんになると思うんですけど、
私は子供もいないしいまは仕事を休んでいるので、何かしてあげられる対象が少ない。
だから、目の前の夫にしてあげられることとして、
弁当作りをとらえているんだなと思ったんですよね。
夫に限らず、いま自分の周りに大切と思える人たちがいてくれること。
その人たちと少しずつでも時間を共有できていること。
そんなことをとても幸せだと感じている今日の自分がいることを
こうして書き残しておきたくなりました。
読んでくださってありがとう。