中谷ゼミ第85回勉強会メモ

日時;2024年3月29日(金) 18:00~19:30
場所:大阪市内(福島)
アドバイザー:中谷常二先生 ゲスト:木村昌人先生
参加者 12名(社会人のみ)
課題図書
「民間企業からの震災復興」 (木村昌人著・ちくま新書)

 

 

概要 (〇 は中谷先生のファシリテーション。★は木村先生コメント)

(Iさんより)、木村先生のご紹介と今回の趣旨について
木村昌人先生は現在渋沢財団研究部長をされているが、最初は三井銀行に入られ、それから学者の道に進まれて文化考証学ということで、近代の日米関係やそのあたりの時の中国、韓国、そして渋沢栄一をとおして、だと思うんですけど、関東大震災のときにどういうふうに活躍されたかといったところから学ぶ教訓などということで今回の本を著された。関西や地方が出てくるので、あの時どうあるべきだったのか、いろいろなご意見が出るのではないかと思い、面白いと思った。

・ 関東大震災に関する本は沢山出ているが、地方がどう見ていたか、また海外からどう見ていたか、という視点で書いたものがが出てくるかと思って待っていたところ、100周年になってもそのあたりが出てこないので自分で書いてみたものです。皆さんのご感想、ご意見をいただければ幸いです。

プロローグ・第1章 変貌する「帝都」
Iさんからレジュメ紹介(略)
〇 幻の遷都論は面白かった。何かありますか?
・ 私は横浜出身ですが、父は須磨、その父は和歌山なので関西にルーツがある。それでこういう本も書けたと思っている。

・ 住まいが加古川の近く。60年生きてきているが加古川遷都論は初めて聞いた。第一候補がソウルだったとか、遷都論に関わった人は陸軍だったようだが、ソウル・加古川・八王子という候補がどういうことで出てきたのか、面白い。
・ 遷都論を読んで、いち早く東京に置くということをはっきり宣言したリーダーシップが良かったのではないかと感じた。大きな変化が起こるときには何か前提がないと動きにくい。首都を動かさないことをいち早く宣言したことがプラスに作用したのではないかと思う。
・ 当時の関西の経済力、特に製造業に関しては東京を凌駕していた。その後も関西は二割経済といわれていたがその後の長期低落傾向について、ネットワークやテクノロジーにより分散が可能となり、実際にパソナの淡路島移転のような分散も起こっている中でどうすれば関西の復興が実現するのか考えてみたくなった。
★    遷都について3都市(加古川、ソウル、八王子)が選ばれた。あれを作った陸軍の今村仁というのは大変な人物。太平洋戦争中にインドネシア、ジャワ方面の司令官だった。いわゆる植民地統治で、戦後多くの幕僚がA級戦犯とされた中、地元民にとても慕われていたのでインドネシア側から助命嘆願が出て死刑にならなかった。その後表には出ず、裏方を務めた人。若いころから優秀だった。当時の陸軍としては、ソウルを選んだのは1910年日韓併合で韓国が日本の植民地となった。また陸軍としては満州方面に満鉄を敷いたり等あちらの方に出ていこうという考えがあった中で、一般の日本人がなかなか朝鮮に行ってくれなかった。当然のことながら朝鮮では反日感情も強かった。そういった背景で首都さえ移せば変わるだろうという考えがあった。八王子は加古川と同様、丘陵地帯に隣接していて防空上好都合だった。もちろん地盤が固いというのもある。とにかく東京は昔から富士山や浅間山の噴火もあり、地震で何度もやられている。後藤新平のリーダーシップもあり、地権者である東京の代議士らが早々に土地を押さえてしまったということもある。地震の2,3日後の大阪朝日新聞に首都を京都に戻すべきという社説が出たり、北海道の札幌に首都を移転しようというような意見もあったが、大正天皇の意思と、後藤新平自身に東京を経済都市にしていこうというきちんとしたプランがあった。
その中で莫大な復興費用も出され、首都が東京に定着した。第二次世界大戦の空襲の際も遷都が行われてもおかしくなかったが、GHQがいたということもあるがかえって首都が東京に定着するきっかけとなった。関西としては残念なところでがあるが。あの後東京から人が移ってきたりして1925年~32年は「大大阪時代」と言われ、大阪の方が東京より人口も多かった。
貿易の取扱量も神戸が横浜を抜いていた。もし首都が加古川に来ていれば、今村のプランは永田町と霞が関だけ移転すれば良いということだった。皇居は京都、経済は阪神経済圏があるのでそれで十分という考えだった。かつ瀬戸内海に面していて安全保障上も有利。
それを東京が封じたということ。
・ 大阪が候補に挙がらなかったのは天皇家との関係?
★    大阪遷都論は大久保利通が唱えたが上手くいかなかったので封じられたと思う。政治と経済を分けた方がいいということもあっただろう。東京は軍都のようになってしまったが。現在は究極の直下型地震対策は遷都しかないと思っているが。
湾岸の埋め立て地の地盤の弱いところに高層マンションが乱立している。液状化と停電で餓死者が出るかもしれない。かなりこわい状態。
〇 その話ともかかわってくるので、次章に行きましょう。

第2章 生糸輸出をめぐる横浜と神戸の攻防
第3章 東洋一の経済圏を目指して 「大大阪」時代

I  さんからレジュメ紹介(略)
〇 大大阪時代があったのに、移っていくんですよね?
★    東京が増えたのは、震災前から郊外に地域が広がって私鉄が発達して人口が増え、その後は差が開くばかりとなった。はやり震災復興もあり資金がつぎ込まれたのが大きい。ある意味では焼け太り。大阪も一時期はバブル状態だったが東京に追い越された。鉄道と郊外の開発は小林一三など関西の方が早かったが東京も東急などが同様のプロジェクトを実施。東京の方が面積が広く、どんどん人が戻り、また集まってきた。
・ 需要が増えたということ?
★    すごく需要が増えた。特に中小企業などが震災で古い工場が壊れ、それを更新する。第二次大戦終了後に倒壊した工場を新築して急激に伸びたのと同じことが東京で起こった。横浜は本当にひどく、市街地の9割以上が倒壊した。東京は下町が中心で山手の方はそれほどでもなかったが、横浜は埋め立て地しかないところ。もともとある伊勢佐木町など江戸時代の埋め立て地で地盤は緩い。写真等を見ても本当に焼け野原で壊滅的な打撃だった。
・ コクヨ(国誉)の話が印象に残った。災害に乗じて設けるのではなく通常価格で売って被災地復興に貢献したという話に感じ入った。
★    関西商人に限らず多くの会社が被災に乗じて設けに走ったのだが、その中でコクヨや資生堂は定価販売を守った。資生堂は石鹸を売ってた。特に震災後不衛生になりがちなところで供給を絶やさなかったところが後々の評判につながった。
・ 取材される中で社史をよく研究されているが、社史は美談になるよう書かれていたりする場合がある。脚色と事実を検証し見分けるうえでのご苦労はあったか。
★    記述のうえでは美談的に書かれているが、社史にはたいてい資料も添付されており、資料から判断したり、当時の業界紙や商工会議所の月報、ライバル社の社史などで検証することができた。美談が書かれているものもあるが工場などが壊滅的な打撃を受けたとうことは多くの社史に記載している。当時の新聞も参考になった。
当然のことながら9月1日の紙面には何もなく、翌日以降の紙面。怪しい話では富士山の噴火などの記載もあった。面白いところではイギリスが本国に伝え、英国駐在している駐在員の方が正確に情報をつかんでいた。
・ 情報の流れについて最近はSNS等が発達しているが、一方で偽の被災情報や偽の救援依頼が流れたり、まったく関係のない情報が流れてそれに踊らされるとうことが起こっている。
★    現代の方がデマの危険性は増大している。特にSNSではフェイク情報を流すのが当たり前のようになってきている。陥れようとすれば東京が壊滅したとフェイク画像を流すのも簡単。そういう中で日本にいる外国人も含め正しい情報を流すことが大切になっている。
・ 当時も朝鮮人の暴動などのデマが流れたが。
★    当時は警察官もその噂に載ってしまった。それを押さえたのは軍。陸海軍が大々的に協力した。ちょうど軍縮の時代だったので存在感が低くなっていた時期。それでかえってデマ問題や食糧確保などをきっちりすることで存在感を増した。
・ 情報を伝えすぎていることの問題もあるが、日本の情報空間の問題点として伝えないことをもって良しとするということが書かれているが
★    日本は割合隠したがる。特に官庁などが出してもいい情報なのに出さないということが残っている。現代自民党の問題でもこれだけ国会の議論を空費することはないはず。フェイクニュースが拡散しないようにすることと、必要な情報をきっちり出すというインテリジェンスの部分が日本は弱い。もともと軍部などは日露戦争の時でもそのようなインテリデンスには長けていたが、今の日本では教えていない。
新製品なども売れれば良いという姿勢でスマホなどの規制などは弱い。これで日本の機能が止まると在日米軍が動けなくなる。日本をとおしてアメリカに影響を与えようというような作戦に対して日本がどう対抗できるか考える必要がある。
・ 情報教育の必要性を痛感する。フェイクなどが多い中で正しい情報を選別していくスキルを身に着ける必要があるが、学校では教えていない。今は自覚のある者がが自己責任の範囲内で学習しているが、その程度では到底無理な話。どこが体系的に研究し、責任をもって国民にその教育なり啓蒙をするべきなのか?
〇 官僚?
・ 自治体でも国でもIT人財を採用しようとしているが、どこにそんな人財がいるのかも分からない。
・ 前提としてファクトチェックできる多種多様な情報がないと。日本は一つの方向に流れると同じ方向性の情報しか流さないのでファクトチェックができない。
★    大谷翔一の問題でも日本では良い話しか流れないが実際に米国では批判もある。しかし日本では全く流れない。日露戦争でも買ったという情報しか流れなかったのに講和条約を結んでみると賠償金も取れない。太平洋戦争でも全滅が玉砕、退却を転進、というような大本営発表が蔓延していた。そういう考え方が今でもあるように思う。
今問題になっている小林製薬の紅麹にしても患者自身が通報が遅れたということもあるかもしれないが、会社としてもっと徹底して販売収支や回収があってもよかったと思うが、そういうところについては甘い。そのため消費者は何を食べてはいけないのかがいまだに分からない。これは決定的な情報なので隠す必要のないものなのに、公開を控えてしまう。次に地震が起きた時に一番怖いのはこの情報の問題。
・ 生命保険会社のところが面白かった。大阪系の保険会社は政府のいうことを全然聞いていない。非常に自由な感じがする。明治維新から60年ほど経って、ひょっとしたら今の政府と民間企業の関係よりも対等な感じがする。何故そういう民間企業が育つことができたのか。
★    はやり大阪というのが大きいと思う。経済力も中央より大きく、天皇陛下も大正天皇になって明治天皇ほどの絶対性はなくなっていたのでどうやってこの体制を維持していこうか苦しんでいた。また世界的にも第一次世界大戦が終わってかつての五大帝国(ロシア、オスマントルコ、清、ドイツなど)がなくなり、辛亥革命やロシア革命が起こり流動的になっていた時代だった。エログロ時代とも言われる。自由主義が興り、共産主義が入ってくるという風に思想的にも良い意味では自由だが、ある意味混乱していて何が正しいのか、や日本の進むべき道を試行錯誤していた時に震災が起こった。そういう意味で、選択肢があった時代で、そういう時代には関西が元気だったということではないか。
・ 大阪系の保険会社がしっかりやったというのは約款もしっかりしていたのでは。
★    そのとおり。大阪の方が約款もしっかりしていた。東京は政治家の発想で被災者救済をしないと次の選挙で勝てないということもあったし、東京系は大手企業だったので救済にカネをつかう体力があった。また大阪系は海外の保険会社が約款どおりにしか支払っていないというのを見ていた。個人的には今の政府は経済活動に口出ししすぎだと思う。賃上げにしても政府が言ってやるのではなく経団連にもっとしっかりせよと言いたい。

第4章 地方経済界の驚くべき対応
第5章 進出するアメリカ
エピローグ

I  さんからレジュメ紹介(略)
・ もう一度遷都論について。文化庁の一部が京都移転した。著書にも地方分権という言葉がある。首都機能の移転は意味があると思うが、市場任せにしていては目先の利益でしか動かないので集積する方向にしか動かない。そういう意味でリーダーシップが大切。
文化庁ではあまり意味がないと思うが、企業人からみて何が移転したら企業として移転しようというインセンティブになるか。
★    やはり大阪に財務省移転ではないか。大阪に来れば関西は経済に厳しいので今のように大盤振る舞いをしなくなるかもしれない。そして文科省は廃止して教育を抜本的に改革する必要がある。6-3制の義務教育は必要なくなっている。もっと多様な教育があって良い。教員も疲弊している。海外留学している人がこんなにいるのに帰ってきて構造改革に手を付けようとしない。大谷選手でも音楽や他のスポーツでも個人では素晴らしい人が出ているのに教育のインフラ整備をきちんとやろうという人があまりいない。
・ 防衛省の幹部の人と話をしたときに、災害対策用に電力を供給できる原子力船をいくつか造っておくべきだという話が合った。それならついでに国会も船上に移してしまえばいいのではないか。そうすれば東京にこだわる必要がなくなる。
★    海上交通をもっと活用する必要はある。能登地震では港湾が使えなかったという問題はあったが、病院船なども含め
・ ソ連からの支援申し出を断ったということが書かれているが、今回の能登震災でも台湾からの支援申し出を断ったのが何かに忖度したのかというような報道がある。
★    中国との関係に配慮したという話もあるが、いずれにせよ非常時には政治とはしっかり話を分けるべき。非常時にはタカ派の議論が優勢になりがちなので気を付けなければいけない。たとえばトランプの発言もめちゃくちゃだが勇ましいことを言う人にはどうしても同調者が出る。これを停めようとするのは非常に難しい。アメリカのような多民族国家では一時的に行きすぎたことがあってもまた反省が起こるのだが、日本のような国ではそうなりにくい。ヒトラーやプーチンも最初は民主的に選ばれたのに偏っていくのを止められない。
・ 遷都について、日本では交通が発達したこの時代にはどこでも良いのではないかと思っているが、韓国の場合、首都機能をソウルから世宗(セジョン)市に移転する事業が進んでいると聞く。
それはうまくいっているのか
★    ソウルは北朝鮮との国境に近い。徴兵制もあり非常事態に対する訓練も行われており緊張感は高いと感じる。首都移転との関係でいえば、これだオンライン等が進んだ世の中なので代替できる機能を作っておくことが大切。企業の本社が全部東京に集中しているが、バックアップシステムがちゃんとできていないのではないかと危惧する。
〇 それは株主総会で聞いても良い事項。バックアップ機能をきちんと作っているか
・ 株主総会の想定問答には何年も以前から回答が作られている。BCPという言葉が10数年ほど前から言われだして、東北の震災で強化され、コロナでまた別の方向にも強化された。そういう意味で問答は鉄壁に作られているが、それが本当に機能するかは問題。非常時には代替拠点に移動することになっているが、今それをするかというとそれはやらない理屈がある。
★    想定問答だけではテーブルの上の作戦にすぎず実際には機能しない。最低でも一度は実際にやってみないと現場が分からない。バックアップの機能を作るなら平時からそこを拠点化しておく必要がある。
・ 大阪市北区在住で自治会の仕事もしている。地域は5千人ほどの住民がいて避難訓練もするが避難訓練もするが仕切るのは町会長他一部の人間で、役所に呼ばれて訓練をさせられる。ユニホーム等もあり見た目は災害リーダーぽいが、年一回の訓練で実際できるか。また様々な役割があり、どれも同じ人間がやっている。本当に災害が起きた時、地域のことより家族の対応で手いっぱいかもしれない。もっといろいろな人に役割りを持ってほしいと思うが難しい。また今は万博のPRが多く回覧等を沢山もらうが住民はそれほど興味がない。区長は不動産出身なので区内にタワマンを誘致して区の税収を増やすことに熱心。学校でも校長先生が万博に熱心。大切なのは分かるが淀川左岸線のため地場の人は地盤が下がってその対策にまた金がかかるなど、地域の人はあまり夢を感じていない。
・ しばらく前に加古川を訪問した。遷都の話は全く知らなかったしあそこが首都になるとは想像もできなかったが当時は栄えていたのか?
★    当時も栄えてはいなかった。加古川市立図書館に電話して聞いてみたら遷都の話は全く知らなかった。
・ 明石ならまだ分かるが、何故加古川だったのか
★    明石も含めてだと思うが災害が少ないことと防空体制が整っていたこと、後背地に阪神の経済圏があることがあったのだろう。また朝鮮・台湾が日本の植民地になっていたことから東京では東に寄りすぎていて関西の方が首都として適していたということもあったと思う。
・ 岡山などのように有力な人がいたのかと思ったが。
★    そういうわけではなかった。ワシントンDCやオーストラリアのキャンベラのように首都機能だけを移転するということだったと思う。
〇 大変面白い議論をありがとうございました。これからお酒も入れてさらに忌憚のない議論をお願いしたい。

Iさんの感想
私が面白かったのは,コクヨなど企業の評価をどのようにして調べたのか、社史は必ずしも正しくないという質問であったり,ソウルや姫路がなぜ首都候補になったのかといった書かれていないことについての質疑でした。
Tさんの感想
勉強会中にご指摘があった、社史による事実認定、という論点について、今回の課題図書を開いた当初から気になっていました。社史は、自社賛歌、さらに言えば現体制賛歌になりがちですので、事実認定の材料とするには難があるのではないか、という問題意識です。
私も仕事柄クライアントから株式会社や医療法人などの分厚い「●年誌」をいただくことがありますが、ほとんど開くことはなく、せいぜい会食前にパラ身をしてトークネタを探す程度です。
さて、今回の課題図書では、例えばコクヨの事例が文中に引用されていますが、コクヨが自分たちは誠実だったと述べているエピソードですので、話半分に聞いておく方がよいだろう、と私自身は考えています。
この点については、木村先生も当然意識した上で本書を構成して執筆しておられると思われ、どのような切り口で議論の俎上に載せるべきか、適切な質問の仕方が思い浮かばなかったところ、以下のご指摘がありました。「社史は偏った記載になりがちだが、そのような社史に基づく研究について、 どのようなご苦労がおありでしたか?」
私は、さすが素晴らしい質問力だなと大変感服いたしました。
事実認定に難があるという点ではなく、そのことを踏まえた上でどのような工夫がありますか?
という点に焦点を当てるご質問で、建設的な議論を引き出すものだと感じました。
これに対し、木村先生からは、まさにご指摘のとおりで、他方で、その時代という横串でみれば、大きな流れが把握できる、というようなご趣旨のことを仰っていました。
加えて、当時の新聞や商工会議所の記録など、他の記録と照らし合わせて情報を取捨選択しているというご趣旨のご説明をいただき、なるほどと思った次第です(後段は、食事の場でのご発言だったかもしれません)。
いろいろと興味深い論点がありましたが、個人的には、木村先生の財務省移転論、文化省解体論と並んで、上記ご指摘が大変印象に残りました。

 

 

(文責 北村)

課題図書:民間企業からの震災復興(ちくま新書・木村昌人著)

 

 

石貝さんによるレジュメ

 

課題図書

「民間企業からの震災復興-関東大震災を経済視点で読み直す」木村昌人著

 

プロローグ 100年前と100年後

第1章 変貌する「帝都」

第2章 生糸輸出をめぐる横浜と神戸の攻防

第3章 東洋一の経済圏を目指して

第4章 地方経済界の驚くべき対応

第5章 進出するアメリカ

エピローグ 経済地図はどう変わったか

 

プロローグ 100年前と100年後

P7 復興か改造か 20世紀日本の出発

 これまでの研究で抜け落ちているのは、経済活動の担い手である実業家・企業・財界の視点と活動である。つまり、彼らが大震災に対してどのような復興構想を持ち、その実現のために政府や地方自治体と交渉したか。彼らの構想はどこまで実現したのか。それは近代化を目指した日本社会や日本を取り巻く国際社会にどのような影響を与えたかという視点。

(1)民間企業家と財界の対応

(2)東京以外の国内地域から見た関東大震災

(3)海外の反応

 

第1章 変貌する「帝都」

P16 地震発生と錯綜する情報

 震源地は神奈川県西部、震度はマグニチュード7.9。3分後に東京湾北部を震源とするM7.2、その2分後にM7.3 の山梨県南部を震源とする余震が次々と発生。

 地震発生のニュースは日本国内ばかりでなく海外にもすぐ伝わった。

 陸軍は航空機を東京上空に飛ばし、市街状況を確認したが、詳しい情報は明らかにされず都内では新聞本社の社屋も焼け落ち、正確な情報を把握できなかった。

 むしろ日本を離れていた方が正確な情報をつかむことができた。

P20 「知らしむべからずよらしむべし」 現在に至るまでの日本の情報空間の問題点

P25 幻の遷都論

明治初年から60年近く経過しても首都東京はまだ定着していたとはいえなかった。

 京都に戻すという案、

 陸軍中枢部、第一候補ソウルの南の竜山、第2候補兵庫県加古川、八王子付近

P29 東京商業会議所の対応

P35 渋沢栄一の対応

P42 火災保険の支払い

P47 人口動向と復興需要の高まり

 多くの商人は震災特需により通常より高い値段で売りさばきかなりの利益を上げた。

 被災民救済という立場から値を吊り上げずに、品質管理を怠らず定価を守り続けた企業もあった。

 たとえば、事務用品販売大手のコクヨである。

 関西商人の東京進出と相まって、在京企業が関西に移ってしまうのではないかと政治家や財界人が危惧する新聞記事がみられる。

P57 企業活動への影響

 鉄道や市電が崩壊、復旧に時間→自動車

P63 「徳川時代の軍都」から「国際商業都市」へ

P67 精神の復興―徳のある社会を目指して

P71 外務省の報告書「…然れどもわが商工業の中心はむしろ阪神に存在しかつ実際の損害のほとんどは東京、横浜の地方的商工業に関するものなので、日本の生産経済の立場をあまり悲観するには当たらない」

 

第2章 生糸輸出をめぐる横浜と神戸の攻防

P74 生糸貿易と横浜

P78 想像を絶する震災被害

P84 東京築港問題 P87 京浜運河の開削 P89 浅野総一郎と京浜運河開削

P92 日本の生糸産業史 P95 横浜の対応 p97神戸の対応 

p100横浜と神戸の駆け引き P105揺れ動く政府の立場 P111横浜復興対策

P113震災手形救済問題

p116神戸の状況 p119神戸の企業の支援活動 p124ユーハイムの神戸への移転

p126横浜から神戸への華僑の移動

p129震災が横浜と神戸に及ぼした影響

 

第3章 東洋一の経済圏を目指して 「大大阪」時代

P134商都大阪の歴史 P142大阪財界の対応

P148株式市場の反応

P150住友銀行の東京進出 P153安宅産業の対応

P157吉本興業の活躍 P159コクヨの東京進出 p160武田薬品の東京進出

p163生命保険業界の危機 p167被災者に対する火災保険の支払い

p172関西系生命保険会社の抵抗 p173事態の急展開と政府案による東西妥協の成立

p178震災手形問題 p180対中貿易の拡大を目指して

p184「大大阪」時代の到来と幻の「加古川遷都」

 

第4章 地方経済界の驚くべき対応 P190

P190 地方は関東大震災をどう見たか

第2次世界大戦の敗北と連合国の占領期を経て平和国家として再出発した経験を有する我々とは、震災発災当時の日本人は、国土に対する見方や考え方が異なっていたことを念頭に置かなければならない。

P191 なぜ商業会議所に注目するのか

 商業会議所と商法会議所

P196 東京・横浜以外の被災地の動向

 小田原市 交通網の整備へ

 郊外化の進展と私鉄の路線拡大

 八王子市 「日本のシルクロードを」を復興する

 千葉県 銀行再編の加速                                  醤油ものがたり

 栃木県宇都宮市 避難民の受け皿となる 埼玉県 東部以外ほとんど被害なし

 山梨県 産業成長中の被災                          静岡県 通信網強化の要請

 北海道 輸送交通の整備                              秋田県 復興資材の木材の供給源に

東海地方 港、師団の町として                  新潟、高岡、金沢 日本海側の要となる

 中国地方 大陸との要衝                                  地方への財政支援は帝都復興とは切り離せ

 中国地方 地元商業会議所の活躍                 福岡県 放送局誘致合戦の行方

 鹿児島県 迅速な情報収集とリーダーシップ

 朝鮮 財界の形成

 

第5章 進出するアメリカ P251

P252 世界を駆け巡る震災情報

 P259日本と緊密な経済取引(生糸、木材、自動車、石油、海運など)を行っていた米国、中国、英国の経済界から見れば、震災からの復興需要は大きく、日本市場への絶好の進出機会となった。

P260 大震災と日米関係

P265 1906年サンフランシスコ大地震 義援金について議論

 実業家に中には、営利事業を行っているものが義援金を出すのはおかしい、と反論する者がいた。

 渋沢栄一は、実業家の目的は公益を追求することにあり、こうした時に義援金を出すのは当然ではないかと持論を展開

P266 米国の素早い対応

P268 自動車産業、材木業で米国企業の進出

P268 復興資金の調達に対して、東京市債や横浜市債の発行に米国の銀行が井上準之助や高橋是清などの国際金融家を全面的に信頼して支援した。

P271 予期せぬ中国との関係改善の動き

 孫文系の新聞「民国日報」は、外交上の構想と天災の救済とは、別物であるから、救済活動が終了したら、再び外交問題を提起すべきであると主張した。・・・ここからわかるように、中国は政治を災害時の支援活動とは区別していた。

P273 中国経済界の支援活動

P276 国内華商への影響

P278 ソ連からの救援物資への対応  (ソ連には)日本の労働者との連帯意識の確立や社会主義思想の宣伝という戦略が背景にあった。

 「日本の労働者を救う」という文意→日本政府や陸軍は拒絶反応

→救援物資は一切受け取らず、レーニン号を追い返すという最悪の事態

P282 外国人から見た関東大震災

P285 日本の情報空間の問題点

P289 今日の情報活動への教訓

p291 日本の情報発信の問題点は「原則のない検閲blind censorship」で恣意的で意味のない秘密主義  誰がどのような基準で行っているのか分からない匿名の検閲

p293 ヒュー・バイアスの指摘する、より根の深い問題点

 「公の議論を回避する傾向」

 日本では自然科学や産業分野では、大胆なまでに新しいアイデアを取り入れるのに,新しい政治思想を取り入れることに対しては驚くほど臆病。

 日本に言論の自由がないのは法律や役人のためではなく、国民性によると断定

 

エピローグ 

P295 首都としての東京の定着 東京、横浜を中心とする首都圏の地位の定着

  第2の候補 兵庫県加古川地区

P298 限定的であった経済損失と新たな経済成長に向かって

  短期的には被災地を中心に経済的な大損害

  長期的には新しい需要、技術革新による経済成長

  企業活動の範囲の拡大、東西の人的交流が進む

P300 100年後の経済地図への示唆

 1 遷都を含めた日本の構造改革

 2 リーダーのみでなく各個人が内外に広く信頼のネットワークを形成すること

 3 経済界が公益の増大に対してより一層力を発揮してほしい

中谷ゼミ第84回勉強会メモ

日時;2023年12月15日(金) 18:00~19:30
アドバイザー:中谷常二先生
参加者 10名


課題図書
「すらすら読める徒然草」 吉田兼好、中野孝次著 講談社文庫 9~12章

 

 


概要 (〇 は中谷先生のファシリテーション)

第9章 よき趣味、悪しき趣味
 ●  9章は最近の若い子に読ませたいと思った。流行に踊らされている人が多い世の中、欠けている方が面白いという考え。ブランドではメゾン・マルジェラなど。
〇 面白い指摘。高いブランド物などを見せびらかす風潮に対する批判ともとれる。
 ●  持ち物を見ただけで、云々のところ、持ち物とはちょっと違うがTVインタビューなどで自室の後ろの本棚が映っていると並んでいる本を見て人となりが分かるような気がする。逆に自分の本棚を見られるのは恥ずかしい。
 ●  本棚は人の思想や背景を映し出すと言われる。冷蔵庫はその人の生活を映している(笑)
法律事務所だとちょっと前まで引退する先輩から古い本をもらってきて応接に並べるというようなことをやっていた。最近はWeb化されてそういうことはなくなったが、打合せ室に並べてあるということはクライアントに見せるためとはっきりわかる。
 ●  若かったころ、会社の法務の法律相談室の本棚にジュリストと判例時報が並んでいたが、本当に毎号熟読して内容を記憶していてあそこにあんな判例があったというような指摘をされたことがあった。後に法務部長になられた人でやっぱり違うなと思った。
〇 著者は見栄っ張りを嫌っていたのかもしれない。「揃える」というのもそれが目的になってしまうと必要でないものを揃えようとすることへの批判かも。
 ●  「さをり織り」という織物は中で一筋二筋糸が欠けていたり違ったりすることで風合いが出る。障害を持った方やきちんとそろえて上手に作れない人が作ったものがかえって味があると最近評判になっている。
 ●  自分の作る焼き物も不揃いになってしまうが、それも味とこの段を読んで意を強くした。
 ●  不揃いでも品があるものと単なるへたくそのとの違いは難しい。
 ●  81段と82段の微妙な違いということか。
 ●  ひとつ印象に残ったのは「つくり果てぬところを残すと」という表現。自分の家を建てたとき、あれもこれもと思うが、予算もありだんだん仕様が落ちていったが、敢えて作り果てぬところを残すのも正しい選択だったかと思おう。しかし、内裏というような正式な場所でも作り果てぬ、があるというのはすごいと思うし、スペインのサグラダ・ファミリアにも通じるところがあるのかも。
 ●  完全なものがちゃんとイメージできていて、そこを敢えて欠けさせるから余白があり余裕がある。完成形が見えていないのはダメといことかと理解。自分の家は完成形を作ってしまったので今になって建て替えたくなっている。
 ●  あいだみつをは素晴らしくきっちりした楷書体などの書を書いていたが、それから現在の一見下手文字に見える書に移っていったと言われる。これも完成形を知ったからこそできることなのかもしれない。しかし、その考え方からすると「さをり織り」はどう考えたらよいのかちょっと悩む。
 ●  芸術はなんでもそうで、基礎が完璧にできている人がちょっと崩すことで味が出たりするが、基礎ができていない人自己流でやってもへたくそなだけ。
 ●  さをり織りは障碍者が作った、というストーリーが付加されているところに意味があるかもしれない。絵画でもただの棒に見える絵でも、その絵画の歴史やストーリーを知って価値が出るという(参考URL: https://www.saorinomori.com/saori)。
 ●  モノ+ストーリーが最近の評価の基準にっているよう。
 ●  現代アートはストーリーとブランディング、そこにメッセージを伝えるところに価値を見出して高額で取引されたりしている。とそう考えると78段の流行をもてはやすな、というところには少し思うところもある。
〇 81段の下手なうえに下品な筆つき、しかもそれを麗々しく飾っている人、というのはどういう趣味の人をいっているのだろうか?
 ●  秀吉の金の茶室のように派手なだけとか、見栄を張っているのが見苦しく見えるし、そういうものを良いと思ってしまう心が下品ということか。ここで言っているのは趣味、芸術品のことで実用品のことではないのでは。
 ●  それにしても人の趣味についてそこまで言われたくないかな。誰もが良いというものもあるにせよ、自分だけ好きなものを飾ってとやかくいわれるのもどうか。
 ●  それだけ著者は自分の鑑識眼に自信があり田舎者を馬鹿にしてこの当時のハイソサエティの価値観を代表していたのだろう。
 ●  しかも金持ち。これだけしっかりしたもの、解説にある小林秀雄の椅子など絶対高価に違いない。
 ●  72段のごてごてした、というくだり、自分の部屋の状態を思って恥ずかしくなる。
 ●  一方で文車の文は多くても良いという。自分の一番大切にしているものについてはごてごて沢山あっても良い、としている。塵塚の塵、はナゾだが。
 ●  「自然と積もっていくもの」は良い、沢山あつめて自慢してやろうというものはダメ、という意味では。
 ●  家の中で子、孫が多いことまで一緒くたになっているのはやはりナゾ。子だくさんが金持ちの象徴だからか???

第10章 美とは何か
〇 249段の「秋の月」について、他の季節の月との違いは?
 ●  空中の水蒸気の量か?雲がかかることがあるからか。冬はくっきりしすぎる?
 ●  朝晩冷え込む、
 ●  作物が手に入って心が落ち着いているからか。月を見る余裕ができる季節なのかも。
<ここは大星さんの見解を聞きたいところ>
で、コメントいただきました。

お月様が上弦や下弦であれば、怒りで目を吊り上げたような形に見える人もいれば、垂れ目で微笑んでいるように見える人も居たりで、見る側の心象が反映されるものだと感じています。
兼好法師の見たお月様が中秋の名月だとすれば、旧暦の8月15日頃になります。
中秋の名月の時期を春夏秋冬の四季をさらに6つに分けた二十四節気で見ると、秋の始まりの立秋(8月7日頃から22日頃)の真ん中頃だとわかります。
二十四節気はお茶菓子とか和菓子の世界ではお馴染みですよね、お菓子から季節を感じるように。
話を戻して立秋の前は大暑(7月22日頃から8月6日頃)で夏の終わりです。さらに立秋の次の処暑(8月23日頃〜)は、暑さがおさまる頃なので、兼好法師の時代は現代のような猛暑や熱帯夜では無かったにせよ、中秋は暑い時期だというのがわかります。
そんな暑さが残る中秋の名月を見て、
①仏の道に帰依する者として、秋の気配を感じる心を育むことで仏の道に近づくという心の在り方を説いたもの。
②俺には教養があるんだという高飛車なオラオラ感から、お前ら中秋の名月の特別感を感じないのか、そんな心では仏の心に触れることはできないぞ!と、こきおろしたもの。
③心底月の美しさに感動し、周りに伝えてもわかってもらえない。月の美しさを語り合える同じ価値観を持った仲間が欲しかったのでそのような表現になった。
と想像します。

8月は葉が色づき始めるから葉月となったとされてますが、8月は猛暑で秋の気配などまったくありません。今の暖かい暑い涼しい寒いで季節を設定する感覚では無くて、当時は暦に従って気温関係なく淡々と季節が進む時代なので、「これから恵みの秋がやってきますよ」と、秋の気配を感じる前祝いみたいなものかもしれません。知らんけど笑
                                           以上感想でした。

 ●  祭りや花火を見に行くとき、そのメインを楽しみにしていくのか祭りの雰囲気全体を楽しみに行くのか。メインのイベントのみを楽しみにしていくのは違うというところはなるほどと思った。
〇 メインイベントだけではない、観光でも名所名物だけを見てそれだけで満足するのは違うかも、
 ●  最近はちゃんと見ることすらせず、写真を撮ってインスタに上げることで満足する、という風潮もある。
 ●  本当に写真を撮る人が多い。近くのバラ園でも写真を撮るために来ているような人が多い。
 ●  スポーツ観戦やコンサートではみなと一緒に応援したり、グルーヴを感じたりして楽しんでいるので少し違うかも。
 ●  写真を撮るが人ごみが嫌いなのであまり行かないが、イベントの写真係をたのまれたりすると近くの写真も引いた写真も撮って全体としてどういうイベントだったかが分かるようにとらなければならない。
 ●  自分で撮りたいものを撮る場合、頼まれて分かるように撮る場合等、場合によって組み立てが違う。
 ●  例えば花を撮るとき、その写真に何まで込めるのか。においや雰囲気まで?
 ●  最終的にはその花を見て自分が感じる美しさ、どう映るだろう、と感じたそのままを撮りたいと思って撮る。
 ●  お祭りはもともと豊漁を祝ったりするものと思っていて自分には関係のないものと思っていたが、これを読んでお祭りを見て楽しむということもあるんだ、と思った。また、見るのが目的であればテレビなどで人ごみなしに見れるので良いかと思ったりもするが、やはり実際に自分で行ってみたい自分がいる。コンサートや野球などの臨場感もそう。しかし、ただ見るだけの観光ならテレビでも良いのか、とも思ったりする。
 ●  祭りは基本的に人出や高揚感など全体の雰囲気を楽しみに行っている人が多いのではないか。
〇 雲の上に輝く月、などの著者の美学はどうか?見えないものを見る力が必要、皆が良いと言う完成形を超えたところ?
日本庭園と西洋の庭園は違う。西洋は幾何学的、シンメトリーなものを美しいとする。美しいと思わせる定式や黄金律、心地よさをもとにしているのか。
西洋庭園の基本ができたのはルネサンスの1300年頃なので著者の時代と同時期。何故こんなに違うのか。
西洋ではきれいで完全な形、一方日本ではそれをわざと葉を散らしたり、など。
人の顔の美醜も、本能的に感じるのではなく子供のころからそう教えられているからではないかと思っている。
インバウンドの外国人が日本庭園を美しいと思うのは廻りの皆が美しいと言うからなのか?それとも人類に普遍的な美のあり方がそこにあって、自分の感性でそう感じるからか。
今までのシンメトリーとは違うところに面白さがあると感じているのかも
島根の安達美術館の日本庭園は有名だが、どうすれば美しく見えるか計算しつくされたものと言われている。

第11章 ありがたい話
 ●  法然上人の話は何をやっても大丈夫、ということでほっとするというか、モチベーションを高めるやり方だと思った。
〇 僧侶の生き方求道ということか。著者自身ミニマリストやストイックということに価値を置いているとうことはあるかと思う。
 ●  法然も、親鸞の「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」にしても、どんどん往生のハードルを下げている。僧侶自身は道を究めるよう修行する一方、一般大衆への布教活動のためにハードルを下げることが必要だったのでは。それを著者はどう見ていたのか?
 ●  とにかくやれば良い、ダイエットにしても継続が必要。仕事上でも年末の追い込みでもあきらめるな、まだ間に合う、という言い方をする。
 ●  なるほど、目先の小さな目標を立て、達成しやすくしてモチベーションを維持させるということ?
 ●  著者は流行に右往左往するな、とか本質が大切といいながら宗教のところだけハードルを下げ安きに流れているのか?
〇 逆に念仏だけ唱え続けよ、ダメでももっとやれ、というストイックなことを言っているのでは。
全てを捨てて仏門に入れ、と言っている以上、やめてもらっては困るのでハードルを下げているのでは。
〇 この生き方を一番に置いていて、最終的に死んでいく人間の往生について常に念頭に置くという精神があるのでは。
 ●  ハードルを下げている訳ではなく、なんでも良いといっているのではなくいろいろな迷いがあってもやり続けなさい。寝ても良いが起きたら念仏を唱え続けなさい、ということでは。
 ●  もっと気軽に、寝てもいいから起きたらまたやればよいということかと思ったが。
 ●  そういう理解もできるように書いたのかもしれない。それでいて実は寝てもまた起きたら続けなさいという無限性。ある意味怖い。
 ●  一見ハードルを下げているように見えて、その実やることはやれ、ということか。なるほど。
 ●  親鸞の、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉は、若いころは何を変なことを言っているのだ、と思っていました。今回の法然の言葉についても、全く反対の解釈が成り立つ、という議論を興味深く聞かせていただきました。
これからさらに年を取っていくと親鸞の言葉の意味も悟ることができるようになるのかもしれないと思ってきました

第12章 実践的教訓
著者はずっと京都にいたと思っていたが、なにかで鎌倉にもいたという。どういう人だったのかがまだ分からないまま。
12章の127段に関連してソフトのバージョンアップをすると不具合が起こるので今困っていなければできればやりたくないという風潮があるが、それを続けるとまた進歩がなくなってしまう。どちらが良いのか。
〇 車のモデルチェンジでも繰り返すことで無駄が増える面もある。
 ●  補助金のためにモデルチェンジする、バージョンアップするということもあり、どこまでやるべきなのかむずかしいところ。
 ●  業務フローの改善でも根本的に変えようと思うと大変だし、変えて良くなるかどうかも不確実。どこまで今のやり方を踏襲してつぎはぎでいくか、抜本的に変えるかの判断は難しい。
 ●  家屋の夏を旨としてというところ、夏涼しい住宅は冬寒くエアコン代がかかる。地域の気候によるのではないかと考える。
 ●  保守の定義に「人間理性に対する懐疑」というのがある。革新は人間理性を信じてどんどん新しくしていくが、保守は変えることが本当に良いのか立ち止まって考える。そういう意味では著者はまさに保守なのかもしれない。

(文責 北村)