その12「最期の乗車位置②」~JR福知山線脱線事故から10年 | 小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

兵庫県の田舎で、茅葺きトタン引きの古民家でデザイナー&イラストレーターとして生活しています。
自宅兼事務所の「古民家空間 kotonoha」は、雑貨屋、民泊、シェアキッチン、レンタルスペースとしても活用しています。

「最期の乗車位置①」からの続きです。

情報交換会が始まるまでの間に、JRの担当者が集めてくれた負傷者から聞き取ったデータを整理し、その中から「人」を特定できそうな情報をピックアップして、大きなマップに整理番号と共に転記しました。そのデータはかなりの分量で、正直、JRの職員がそこまでやってくれるとは思っていませんでしたが、集まったデータのひとつひとつからは、生き残った人たちがどのように飛ばされて、どういった状況の中で助かり、周囲にどんな人がいたのか…という情報が浮かび上がってきました。転記した情報以外の内容も遺族が閲覧できるようにファイルにまとめ、全ての準備が整いました。

「誰も来てくれなかったらどうしよう…」と思っていた情報交換会ですが、実際には、負傷者や救助にあたってくれた周辺の企業の方などがたくさん来てくれて、乗車位置を知りたいと願っている遺族に話をしてくました。中には、車椅子で会場に来てくれた子もいましたし、まだ包帯を巻いたままの状態の人もいました。こんなにたくさんの方が遺族のために会場まで来てくれて、一生懸命話をしてくれている姿を見ていると涙が出てきました。きっと、来場してくれた負傷者の皆さんも、それまでは遺族にどんな顔をして会えばいいんだろう…と思っていたかと思いますが、逆に自分たちを気遣ってくれる遺族にとても感謝をしていたと思います。
会場にはJRの職員も数名スタッフとして参加してくれていて、普段の黒いスーツ姿だと威圧感があるので全員私服で来てもらいました。来場してもらったら、後日追加でお話を聞きたいと思った場合に連絡をしても良いかということを確認をして、お名前と連絡先を記載してもらい、整理番号を書いたシールをお渡しします。まず、1~7両目の車両図に、事故前に自分が座っていた場所に貼ってもらい、亡くなった方がいた1~3両目までに乗車していた方には、拡大マップの方に事故後に飛ばされていた場所にシールを貼ってもらって、そこで目にした「人」に関する情報を書き込んでもらいました。後日分かってきたことですが、脱線転覆してマンションに激突した2両目の進行方向左側の座席と、1両目の先頭部分にはほとんどシールがつきませんでした。つまり、その場所の生存者はあまりいないということを意味しています。
車両が分かっている遺族は、その車両に乗っていた負傷者にいろいろと話を聞いていましたが、その話の内容をJRの職員やボランティアの皆さんが、一言も聞き漏らすまいと必死になって耳を傾けて書き取ってくれていました。その姿を見ていると、被害者と加害者の関係って一体何だろう…と思いました。JR西日本という組織には随分嫌な思いをさせられてきましたが、そこで仕事をしている一人一人は、けっして悪い人ばかりではありません。彼らもきっと、遺族と負傷者がこうして一生懸命乗車位置を探そうとしている姿に、とても心を打たれたと感じています。
この最期の乗車位置の取り組みの担当をしてくれたJRの職員は、もともと新幹線の運転士でした。新幹線の運転士といえば、運転士の中でも皆の憧れのエリートです。その彼が被害者対応の部署に配属され、きっととても複雑な気持ちだったと思いますが、本当に誠実に対応してくれました。後日、僕が国土交通省の意見聴取会に参加するときに、たまたま同じ新幹線の後ろの席に彼が乗っていました。ひとりでお菓子を食べていたので、なんだか気の毒になって、テレビ局の方に頂いた唐揚げを、彼にもお裾分けしてあげました。こういった関係があるのは、おそらくどこにも伝わらない話だと思います。

そういった光景とは裏腹に、情報交換会の中では悲惨な現場の話を耳にすることになりました。覚悟をしていたとはいえ、中には背骨が見えている人がいたというような話を耳にしなければいけませんでした。Aさんは途中で会場を抜け出して一人で泣いていましたが、妻が後を追いかけて、ずっと一緒に彼女についていてくれました。
僕は普段から結構人の顔を覚えている人なので、乗車位置を探している遺族の方の2名のお顔を覚えていました。しかし、普段は2両目に乗っていたというのはお伝えしましたが、事故当日、2両目に乗っていたのかは覚えていませんでした。乗車位置を探していた遺族ではありませんでしたが、僕が事故後ずっと気にかかっていた方がいます。知り合いでもなんでもないのに、何年もずっと同じ車両に乗り合わせていた人に対しては不思議な親近感があり、そういった意味で、電車は他の交通機関と少し違う意味合いを持った乗り物です。


「或る遺族の存在」
事故後 ずっと探し続けている女性がいた

私はあの事故に遭うまでの約四年間
毎日同じ電車の同じ車両に乗り続けていた
あの事故車両の始発駅となる
JR宝塚駅までの普通電車にも
毎朝同じ電車の同じドアから乗り込んでいた

そこに 事故後私が探し続けていた女性と
彼女の夫がいつも乗車していた

あの日 いつものように普通電車に乗り宝塚駅へ向かった
その日は彼女の夫だけがそのドアの近くに立っていた
「今日は、奥さんはいないのか…」と思ったのを覚えている

私には彼らを記憶している理由があった
会社の場所がすぐ近くなのだ
大阪駅を降りてから いつも同じ方面に歩いていた
昼食時にも 近くの店で見かけた事も何度かあった

宝塚駅で東西線に乗り換えた時には
私の前を彼が歩き
いつものように二両目の一番後ろのドアから乗り込んだ

そして いつものように同じような場所に座った
事故後 ただの顔見知りで他人だった彼の安否を探し続けたが
結局私は 事故から一ヵ月後に彼が死亡していた事を知った
私と同じ車両 同じような条件にいた彼が亡くなったのだ

それから私は いつも一緒に乗っていた彼の妻を探し始めた
会ったところで 何を話していいのかもわからないが
探さずにはいられなかった
恐らく私は 自分が彼の最期の姿を記憶している唯一の人間だ
という意識が引っ掛かっていたのだ

しかし どうする事も出来ずに時間だけが経過した

事故から一年目の慰霊式の日 私は偶然彼女に出会う事となった
私よりも年上と思われる彼女は とても美しく
私は彼女に対して 仕事をする女性として輝いている印象を持っていた
しかし そこで見た彼女の姿は全く違っていた
まるで魂を抜かれた人のように精気が無く
頬がこけてやつれていた
私は あまりにも変わり果てたその姿に絶句した

私が彼女と出会ったのは 慰霊式後に開催された
事故直前に被害者が乗車していた場所を探す取り組みの場だったので
私は 彼女が夫の乗車していた状況を知るためにこの場に足を運んだものと感じ
思い切って声を掛けた

「彼は二両目に乗っていました」とお伝えしたが
「それは分かっていますけど…」と言われたきり 言葉が続かなかった
そして 彼女は消えるように会場を去って行った

あれから一度も彼女を見掛けた事が無い
私自身もあまり二両目には乗らなくなってしまったが
時折 事故当時と同じ位置に座ってみる事がある
周りは見覚えのない顔ぶればかりだ
勿論彼女もいない

再び見掛けたところで何を話せばいいのかもわからない
でも 事故前までは活き活きと夫と共に仕事場に向かい
それまでは 車内でも一際輝いて見えていた彼女の変わり果てた姿が
今でも脳裏から離れない

私は彼女に一体何を求めているのだろう
彼女に何を伝えたいのだろう
私の鬱積したこの気持ちを吐露したいだけなのだろうか
もしそうであるとするならば
何て身勝手な
何て不誠実な心理なのだろう



そんな中、宝塚で開催した情報交換会の場で奇跡的なことが起こりました。2両目に乗車していた生存者が、亡くなった方が座っていた場所を覚えていたのです。奥さんを亡くした旦那さんがずっと乗車位置を探していたのですが、とても感激しておられました。事故から1年も経過した後で、砂漠の中から砂粒を探すような作業で本当に乗車位置が分かることがあるなんて。きっと、覚えていた負傷者もずっと気になっていたんだと思います。奥さんの座っていた位置が分かった旦那さんは、今でもこの乗車位置の取り組みのことはずっと感謝してくれています。
ちょうどその頃、負傷者とその家族の体験を集めて手記集の出版の準備をしていたのですが、2両目に乗車していた女性の記述の中に「目の前に薄いピンクのコートを着た女性が座っていて、本を読んでいた」という箇所がありました。それが切っ掛けで、もう一人の乗車位置も判明しました。「亡くなった娘が最期に座っていた場所に座ってあげたい」と言っていた父親の願いが叶った訳です。

しかし、途中からこの活動は僕が予想もしなかった展開になっていき、その流れを止めることはできませんでした。乗車位置を一緒に探している遺族の中に、新聞社に彼らが持っている写真を見せて欲しいと依頼をしている人がいましたが、最初は、いずれの社も規則としてそれはできないということで断られていました。正直、僕としてはほっとしていまいした。情報交換会で負傷者や救助をしてくれた人の口から語られる言葉には、たとえそれが悲惨な話であったとしても人としての温かみを感じることができる行為ですので、そこから納得をする手立ての切っ掛けをもらえるのではないかと感じていました。しかし、膨大な数の写真を見るという行為は事務的で、狂気に近い苦悩しかないような気がしていました。なので、できればそういった写真は見ないでほしいと願っていました。
きっと報道関係者も遺族のために善かれと思って決断して下さったのでしょうけど、一社が特別に見せても良いということになったら、次々と他の社も見せてくれることになりました。パソコンの画面に映し出される写真の、次に血だらけの家族が写っているかも、もしかして次に…と思いながらクリックを続ける行為は神経をすり減らされたことでしょう。この、「写真を見る」ということに関しては遺族の中でも考えが分かれたので、見に行く人と見に行かない人は、それぞれの判断に任せることになりました。そして、「血だらけになっている自分の家族の姿を他の人に見られたくない」という思いもあって、希望する方は個別にメディアにコンタクトを取って見に行ってもらうことにしました。さらに、次はテレビ局まで映像を見せてくれることになりましたが、案の定、その頃から皆の体調が悪くなり始め、痩せていく人がいたり下痢になったりする人がいました。僕としては、メディアは「見せない」という最初の方針を貫いてほしかったなと思っています。

事故から1年目の4月25日の慰霊式の後、午後から第4回目を開催して、当初計画していた情報交換会が終了しました。最終的に乗車位置まで分かったのはお二人だけでしたが、警察や消防、レスキューなどにも聞いて回った結果、乗車車両は全員判明しました。ただ、皆の世話をして一番一生懸命頑張っていたOさんだけが判明せず、とても落ち込んでいましたし、一緒に探し続けた仲間も気を使っていました。

事故から1年目が経過した6月に、事故直後に救助に駆けつけてくれた日本スピンドルの会社で情報交換会をさせて頂けることになりました。日本スピンドルは、工業用品などを製造している工場ですが、事故当時、警察、消防、レスキューよりも早く様々な工具を持って駆けつけてくれて、献身的に救助に当たってくれた企業です。仕事の手を止めて、救助に関わった社員が全員食堂に集まって下さり、広げたマップを囲みながら当時の様子を書き込んでいってくれました。スピンドルの皆さんの情報は、事故後の情報ですので乗車位置が判明することは無かったのですが、Oさんの旦那さんを1両目の穴の中から運び出してくれたという社員に巡り会うことができました。何だかドラマのような展開ですが、これで乗車位置を知りたいと願っていた遺族全員の車両だけは判明しました。乗車車両が判明したこともそうですが、仕事の手を止めて、会社をあげてこの取り組みに協力して下さったことにとても感激しました。その後、追加で2回情報を集めるための場を持ちましたが、乗車位置が分かる情報は集まりませんでした。
こうして、乗車位置を知りたいと願う遺族と私たちが、持てるエネルギーの全てを注いで取り組んだ最期の乗車位置探しの活動が終わりました。協力をして下さった関係者の皆様、情報交換会に来場して下さった負傷者や周辺住民の皆様、丁寧な報道をして下さった記者の皆様、そして、全力でこの活動に取り組んでくれたJRの関係者の皆さんにはとても感謝しています。乗車位置が分かったところで亡くなった家族が帰ってくる訳ではありませんが、少しでも亡くなった家族を近くに感じたいという遺族の願いに、多くの方が共感して下さった取り組みでした。


乗車位置探しの活動が終わった2006年5月。Oさんと、普段、あまり自分からは意見を言わないAさんが、朋子の誕生日会をしようと言い出してくれたので、乗車位置探しのメンバーの比較的若い子たちが集まって我が家でパーティーをしました。Aさんがケーキを買ってきてくれて、そしてなぜかもうひとつの大きな紙袋の中にリラックマのぬいぐるみが入っていました。亡くなった夫がプレゼントしてくれたものを持ち歩いているとのことでしたが、ケーキの紙袋と一緒に、大きな袋を両手に抱えて駅から歩いて来る姿が滑稽で、皆に「なんでそんなデカいものを持ち歩いてるの~」とからかわれながらも、周りの仲間は、皆、その気持ちが理解できない訳ではありませんでした。
最初はなかなか打ち解けてくれなかったAさんですが、乗車位置を探す活動の中で徐々に仲良くなって、こうして妻の誕生日会をしようと言い出してくれたことがとても嬉しかったです。子供の頃に歌手になるのが夢だったというAさんが、妻のためにマリリン・モンローの真似をしながらHappy Birthdayを歌ってくれました。
6月には、Oさんともう一人の仲間の誕生日会をしました。この会が終わった後に、Aさんが「次は聡さんの誕生日会をしよう!」と言ってくれていましたが、それは叶いませんでした。

6月の末、1泊2日で乗車位置の仲間で温泉旅行に行きました。ある遺族の方からお聞きした話の中で、ずっと落ち込んでいたら「いつまでも悲しんでいたら、亡くなった方が浮かばれないよ」と言われ、笑顔で過ごしていたら「もう立ち直ったのね」と言われて、泣くことも笑うこともできずに、これまでお付き合いのあった人たちとも疎遠になってしまうという話をお聞きしました。事故から1年なんて、僕たちでもまだ何も整理がついていなかったし、事故直後よりずっと大変な時期だったのに…。
ワンボックスカー2台に分かれて丹後半島に行きましたが、きっと周囲から見ると何の集まりなのかな?と思うほど不思議なグループだったと思います。夫を亡くした妻、子を亡くした両親、親を亡くした娘、そして僕たち夫婦でしたが、なんだか修学旅行のように皆ではしゃぎまくって、夜の宴会ではカラオケ大会もして、子供のようにケラケラと皆たくさん笑いました。そして、Oさんのバイオリンと朋子のピアノ&僕のギターで、「ダニーボーイ」と「Summer(菊次郎の夏)」を演奏しました。宿の方も趣旨を理解して下さって、普段はライブ会場として使用しているバーのピアノを使わせて下さいました。浴衣姿で音楽を聴きながらバーでお酒を飲み、事故のこととは全然関係ない話をしながら、なんだか久しぶりにとても楽しい時間を過ごしました。
この2日間で皆で一緒に撮った写真がたくさんありますが、きっと報道関係の皆さんはこんな遺族の表情は見たことがないと思います。皆、とっても良い表情をしています。遺族と生き残った人間の家族が一緒に温泉旅行に行ったときのことなんて決して報道されることはありませんが、僕が関わった取り組みの中で、これ以上に心に残ったことは他にありません。

事故から1年半の10月15日の朝、Aさんのお兄さんから、今朝、Aさんが亡くなったとの連絡がありました。Aさんと手紙のやり取りをしていたので、そこに書かれてあった連絡先を見て、我が家に電話をくれたとのことでした。全く予想していなかった訳ではありませんでしたが、あまりのショックで感情が停止しました。彼女が住んでいたマンションの11階から飛び降りて自殺をしました。
最初に思い浮かんだのが、Aさんと一番仲が良くて、彼女と同じく夫を亡くしたという立場のOさんのことでした。とにかく、まずOさんのところに行こうと思って彼女に電話をして「今から行くから」と言うと「なんで来るの?何かあったの~」という感じだったので、「まぁ、とにかく今からすぐ行くから待ってて」と言って、何の準備もせずに妻と一緒にOさんの家に向かいました。彼女の家に着くとすでに誰かから連絡があったようで、「勝手に先に一人で死んで…」と怒っていました。
その後、Aさんのお通夜や葬儀の件に関しては家族から連絡も無く、何もすることがないままOさんの家で会話もせずに、じっと待つだけの張り詰めた時間が流れていきました。途中、一緒に誕生日会をした乗車位置探しの仲間がOさんの家に来ましたが、4人で黙ったまま連絡があるのを待っていました。

夕方になってAさんのお兄さんから連絡があったので、教えてもらったAさんのお母さんのマンションに向かいました。このときに初めてAさんのお母さんとお兄さん夫婦に会いましたが、お母さんはとても小さな人で、こんなに小さな肩に大きな悲しみと苦悩がのしかかるのかと思うと、胸が苦しくなりました。彼女の遺書の中にはたくさんのことが書かれてあり、報道関係に出すための写真も準備されていました。彼女が書いた絵本のストーリーには、こんなことが書かれていました。仲良しの男の子と女の子のクマさんは、貧乏だけど毎日幸せに暮らしていました。でも、事故で男の子のクマさんが死んでしまった後、女の子のクマさんは寂しくて死んでしまいました…。
きっと彼女は、随分前からこの結末を心に決めて準備をしていたのでしょう。彼女が13年間一緒に過ごしてきた相手とはまだ正式には結婚をしておらず、当時、JRにはただの同居人としての対応しかされていませんでした。相手の親にもお付き合いを認めてもらえていなかったようで、葬儀への参列も拒否されていたようです。僕は、彼女がこうした準備をして自殺をしたのは、きっと「彼の妻は私なんだ」ということを命をかけて周りに知って欲しかったからだと思っています。JRからも、相手の親からも、そして世間からも彼の妻だと認めてもらえず、きっと悔しくて苦しくてこういった方法しか思いつかなかったのだと思います。

翌日、乗車位置を探したメンバーと一緒にお通夜に参列しました。けっして裕福ではなかったAさんのご家庭が準備できた葬儀のお部屋は、とても小さな会場でした。その会場の大きさが、JRという巨大企業によって追い詰められ、彼女がもがきながら闘ってきた力の大きさを象徴しているように見えました。その会場の周りには、まるでテレビドラマのようにもの凄い数の報道関係者がすでに集まっていて、細い道を埋め尽くすような状態になっていました。
ちょうどその日、JR西日本の社長は何かのイベントに参加する予定があったようで、代わりに被害者対応本部の人が2名と、Aさんの担当者2名が葬儀場にやって来ました。メディアに囲まれてもみくちゃにされながら、最初は遺族から参列を拒否されていましたが、Aさんの母から彼女の思いを知って欲しいということで列席してもらい、彼女をお見送りすることになりました。高い所から飛び降りたのに、幸い彼女の顔はきれいなままでした。僕の中では、棺の中に入っているのはおじいちゃんかおばあちゃんというイメージしかなかったので、若い彼女が入っていることにとても違和感がありました。
部屋の隅では、JRの職員が正座をして小さく縮こまっていて、Aさんの担当だった若い社員はうつむいて泣いていました。この場にいる全員が不幸で、何かの歯車が噛み合わなくなって一気に崩れさり、その誰もが救われない状況の中にいるように感じました。

告別式が終わった後、泣き崩れるOさんの肩を抱えて階段を降りて行くと、ドアの前には無数の報道陣が待っていました。乗車位置探しの記者レクチャーの場にもいてくれて、一緒にこの取り組みを支えてくれた多くの記者の顔が目に入りました。先に僕が一人で出て行くと、仲良くしていた記者の一人が「小椋さん、この場にいる記者の目的はたぶん皆同じだと思うんですけど、Oさんのコメントってもらうことができますか…」と申し訳なさそうに聞いてきました。彼女はとてもそんな状況ではなかったので、「申し訳ないけど、今日はそっとしておいてもらえませんか」とお伝えすると、その場にいた記者の皆さんはそれ以上しつこく聞くこともなく、駐車場までの道を空けてくれました。
とてもOさんを一人で彼女の家には帰せなかったので「ウチに来るか?」と聞くと、素直にうなずいたので、一緒にいた乗車位置探しのメンバーに「しばらくウチで預かるから」とお伝えしました。皆、「小椋さんのところにいてくれるなら安心だから、そうしてあげて」と言ってくれたので、我が家に連れて帰ることになりました。

我が家に帰る途中、記者の方から電話がかかってきて、「Aさんが自殺をしたのは、JRに生活費を打ち切られた生活苦が原因なんでしょうか?」と聞かれました。とある遺族の方からそう聞いたとのことでしたが、そんなことを勝手にメディアに言うことに対してもの凄く頭にきました。
彼女の命をかけた叫びを、「生活苦」という言葉で報道されることだけは許せないと思いました。途中で車を停めて、Oさんと妻と3人で手分けをして知っている記者全員に電話をして、彼女の死の原因はそんな理由では無いということをお伝えして、いったん報道を止めてもらうことにしました。多くの記者はそれを理解してくれましたが、間に合わなかった番組では「生活苦=JRが追いつめた」という内容でセンセーショナルに報道されてしまいました。

そこから約1ヶ月半ほどOさんは我が家にいましたが、遺族と生き残った人間の家族が一緒に生活をするなんて、おそらく他では考えられないことだと思います。会社から僕が「ただいま」と帰ると、「おかえり~」と二人が出迎えてくれる不思議な生活でした。一緒に買い物に行って、ワイワイ食事の準備をして楽しい時間を過ごすこともありましたが、突然泣き出したり、思いをぶちまけるような場面もありました。僕も、それから3年ほど安定剤と睡眠薬を服用するようになりましたが、きっとこうした生活の中ででも、妻の朋子には大きな心の負担がかかっていたのでしょう。
12月になって、Oさんは「家で主人が待っているような気がする」といって帰って行きました。妻の調子が悪くなってからは、逆にOさんが彼女を支えてくれるようになりました。今でもよく電話がかかって来ますが、ときどき朋子を一緒に食事に誘ってくれたり、大阪の教会に行った帰りに一緒にカフェに行ったりしているようです。こちらに越してからも一度泊まりに来てくれて、今となっては普通の友達として仲良くできていることをとても嬉しく思っています。

僕にとって、この最期の乗車位置を探すという取り組みはいったい何を意味していたのでしょう。あまりにも激動の日々を過ごして来ましたので、その渦中にいるときには考える余裕もありませんでしたが、この活動は、人が人を思うことの根源的なところに根ざしているような気がしています。亡くなってしまった人は物理的にはもうこの世にはいない存在なのですが、少しでも近くに感じたいという遺族にとって、乗車位置を探すことそのものが、亡くなった人を自分の中に存在させるという行為そのものなのではないかと感じています。僕自身も、それまでは「106名の亡くなった乗客」という漠然とした存在だったのが、「亡くなった方=一緒に乗車位置を探した仲間の大切な家族」という存在に置き換えられました。事故現場に行って思い浮かぶのは、必死になって服装や靴の色などで場所を探した続けた彼らの顔なのです。

事故から10年目を迎える前の日に、遺族の有志が主催する「追悼のあかり」が事故現場で執り行われ、一緒に乗車位置を探した遺族の方や4・25ネットワークの方がたくさんおられました。他の方は同じ立場の人同士で集まって話をしている中、久しぶりにお目にかかるのに「小椋さん、朋ちゃん、久しぶり~」と遺族の方が声をかけて下さって、皆さんと普通に会話をすることができました。その関わりが、我が家がこれまでに過ごしてきた濃厚な時間を象徴しているように感じました。妻が、子供を亡くしたお母さんたちと一緒に楽しそうに話している姿を見ると、改めて彼女の懐の深さと人に愛される存在であることを思い起こさせてくれました。