その11「最期の乗車位置①」~JR福知山線脱線事故から10年 | 小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

兵庫県の田舎で、茅葺きトタン引きの古民家でデザイナー&イラストレーターとして生活しています。
自宅兼事務所の「古民家空間 kotonoha」は、雑貨屋、民泊、シェアキッチン、レンタルスペースとしても活用しています。

事件や事故が発生して人が亡くなった場合、警察が現場検証をして、どこでどういうふうに事故が起きて、どの場所で人が亡くなったのかということが調査され、遺族が希望をすればその詳細を知ることができるのだと思いますが、福知山線の事故の場合、事故直後に救助に駆けつけてくれた周辺住民が車内から運び出したり、事故時に車両の割れた窓や連結部から車外に投げ出されていたりして、乗っていた位置はおろか、乗車していた車両すら分からないという方がたくさんいました。
僕にとっては、この乗車位置探しは「福知山線の事故=最期の乗車位置」と言っても良いぐらいとても思い入れのある取り組みで、おそらく国内というか世界の事故の歴史の中でも、こういった活動はほとんど例がないんじゃないかと思います。愛する家族を亡くした方の切実な思いが伝わってくる話ですので、是非知ってもらいたいと思っていますし、きっと他の事件事故にとっても役に立つことがあるのではないかと思いますので、自分の視点で書いて残しておくことにします。


事故からしばらくは、他の負傷者とも繋がることができず、なんだか自分だけが取り残されているようなモヤモヤした感覚で過ごしていましたが、新聞で「JR事故の遺族が4・25ネットワーク発足。初会合が開かれる」といった感じの記事を目にしました。その中に、「遺族○○人、負傷者1人参加」と記載されていて、ここに行けば電車に乗っていた人に会えるかもしれないと思いました。しかし、家族を亡くした方の集まりに行って、どんな目で見られるだろう…と、僕も最初は躊躇していましたが、行ってダメだったら次から行かなければいいと思って、2回目の会合に行ってみることにしました。一人じゃ不安だろうからということで、妻も一緒に着いてきてくれました。
すると、予想に反して「負傷した方がよく来て下さいました」と、むしろとても感激して迎えて下さいました。その日は僕以外にも二人の負傷者が来ていて、その内のひとりは、事故当日、片目が腫れ上がっていて「目が見えへん」と言ってパニックになっていたので、僕が隣で手を繋いでいてあげた女性でした。
まだ事故原因も分かっていない状況ですし、会合そのものはとても重苦しい雰囲気のものでしたが、休憩時間に何組かの遺族の方が僕のところに来て、「事故のことを思い出すのはつらいと思いますが、亡くなった息子が乗っていた車両が分からないので、記憶にないか写真を見て頂けないでしょうか」と言って、顔写真を見せてくれました。何組かの遺族が持って来られた写真を見ましたが、記憶にはありませんでした。僕は事故に遭うまでの4年間、通勤でずっと2両目に乗っていて、知り合いではないけど見知った方を割とたくさん覚えていたので、お役に立てなかったのがとても残念でした。それと同時に、家族を亡くした上に、乗っていた車両すら分からない方がいるんだ…というこが、とても深く自分の中に残りました。

それからずっと、僕と朋子は4・25ネットワークの会合には参加し続けました。何人か遺族以外の方も来たことはありましたが、遺族の中にいるという重圧に耐えられなくてすぐに来なくなりました。実質、遺族会だったネットワークですが、JR西日本や国の調査の在り方に対して対峙するならば、絶対にあの電車に乗っていた自分の存在が必要だと感じていましたし、2両目に乗っていた生存者ということが、必ずどこかの段階で力になるだろうと確信していましたので、負傷者が誰も来なくても妻と二人で参加し続けました。
中には、明らかに「子供の代わりにこの人が亡くなってくれたら良かったのに…」という視線で見られているというのを感じたこともありますが、そう思わざるを得ない親の気持ちも分からないでもありませんでした。そして、そんなことを思っていることに、その人自身が苦悩しているのも感じました。結局、途中で会合には来なくなった遺族もいましたが、その真意は僕には知る術もありません。
ネットワークには代表者というのがいませんでしたが、実質のリーダーであった方は、どんな場面で発言をするときも「我々、4・25ネットワークの遺族と負傷者は…」という言い方をしてくれていましたし、僕が発言し難いだろうということにも配慮して「小椋さんはどう思いますか?」と話しやすい雰囲気を作ってくれていました。多くの遺族はあまり発言をしませんでしたが、リーダーである彼の意見に賛成も反対も意見が出なければ、彼が一人で決めてしまったという印象になってしまうので、僕は反対意見でもできるだけ発言をするよう心がけていました。そうすれば、みんなの合意の上で決めた内容だということになると思ったからです。

事故から8ヶ月が経過して年が明けた頃の会合で、乗車していた車両が分からない遺族がどれぐらいいて、車両や最期に座っていた場所や立っていた場所を知りたいと願っている遺族がどれぐらいいるかを聞いてみました。すると、かなりたくさんの方が手を挙げたので、乗車車両が分かっている方、もしくは知りたくないという方とは別に、ネットワークの分科会として「最期の乗車位置」を探す取り組みを行うことになりました。
そのとき、僕たちと同じ年代の女性で旦那さんを亡くしたOさんから、「聡くん、一緒に乗車位置を探してくれへんかな」と言われました。実際問題、遺族が直接、負傷者に事故当時や事故前の記憶を話して下さいとお願いしても、ネットワークの会合にすら負傷者が来ない状態だったので、おそらくほとんどは丁重に断られるのは目に見えていました。乗車していた位置を知りたいということは、手がかりとなるのは乗っていた人の記憶に頼る他はありませんので、これは2両目に乗っていた自分がやらなければいけない繋ぎ役だと感じましたし、何より、そうして遺族が自分に頼ってくれたことがとても嬉しかったので、一緒に取り組むことになりました。

最初の会合は会議室のようなところで行ったのですが、やはり会議室というのはなんだか冷たい感じがするので、今後は我が家に集まって話し合いをしませんかとご提案しました。僕は現場にいたので最初からある程度覚悟はしていましたが、遺族の方は、これから事故現場の生々しい話を聞く課程で、どんな悲惨な現実が出てくるのかというのをあまりイメージできていないように感じていました。そうしたことを皆で一緒に乗り越えて行くために、会議という雰囲気よりもお互いに支え合えるような関係になれる場所作りが大切だと思いました。それに我が家には犬と猫もいますので、彼らがいるだけでもその場の雰囲気が少し柔らかい感じになります。そういったこともあって、その次からは我が家に集まり、これからどうやって乗車位置を探すかという会合を定期的に行うことになりました。会合で集まる度に、妻が毎回手作りのケーキを焼いてくれました。

この取り組みを始めた頃、家にこもって死ぬことばかり考えている子がいるので、一緒に乗車位置探しをすれば少しは気が紛れるかなということで、Oさんが2両目で夫を亡くしたAさんを連れて来ました。彼女はあまり多くをしゃべる子ではありませんでしたが、いつも部屋の隅でニコニコしていて、打ち合わせの途中でふと目をやると、「こんなことを知っても彼は帰って来ない…」というような、表情の無い表情をしていました。
厳密に言うと彼女のパートナーは夫ではなく、13年間一緒に生活を共にしてきた人です。結婚をする直前で、婚姻届を準備している状態のときに彼を亡くしました。JRからは当初、夫としてではなく、ただの同居人としての扱いしかされておらず、とても悔しい思いをし続けてきたのだと思います。なので、それ以降、僕は彼女のパートナーのことを言うときには、あえて「夫」という言葉を使うようにしてきました。

まず最初に全員で決めた約束事があります。それは、どんなにつらくても「自分で探す」ということです。それまでは、Oさんがいろんな人から預かった顔写真や当日着ていた服などの写真を持っていたのですが、自分の足で歩いて探し、人から話を聞くときは自分の耳で聞いて納得をするということを約束しました。「代わりに聞いてきて」「代わりに情報を集めて」というのはダメですということです。それともうひとつは、出来る限りのことをやって、それでも見つからなかったらそれで納得しようと決めました。
僕がこの取り組みに関わってとても印象に残っているのは、娘を亡くした父親の「娘が最後に座っていた場所に座ってあげたい。最後につかまっていた吊り革を握ってあげたい」という言葉でした。この言葉が、最期の乗車位置を探す理由を象徴しているのだと感じました。

人の記憶を頼りに情報を集める取り組みである以上、できるだけ早く取りかかるに越したことはありませんでしたが、まだ多くの負傷者が入院や通院中だったり、事故のことは思い出したくないと言っている人が多数いる時期でしたので、負傷者への配慮というのが大きな課題でした。しかし、せっかく情報を集めるのであれば、事故から1年目を迎えるにあたって最期を迎えた場所が判明すれば、少しでも亡くなった家族を近くに感じられるかもしれないという皆さんの思いもあり、2006年の4月25日までに集中して情報を集めることにしました。
実質、こうした会議の場を引っ張って行けるのは僕とOさんしかいませんでしたので、とにかく立場がどうこう言っている場合ではなく、「情報を集める」ということに集中して、やるべきことをひとつずつクリアして行くしかありませんでした。
「情報を集める」と一口に言っても、我々が知っている負傷者の連絡先などはたかが知れていますので、この取り組みには絶対にJR西日本の協力が必要になります。当時、僕が勤めていた会社はJRの本社の近くだったので、会社の帰りに何度も立ち寄って話し合いをしました。彼らも、亡くなった家族の最期の場所を知りたいという遺族の思いにとても共感してくれて、全力でサポートをしてくれることになり、乗車位置を探すための専任の担当者が着いてくれました。

その次の会合からはJRの担当者も我が家に来て、一緒に話し合いを行うことになりました。まず、こちらが提案した案は、情報を集めるための情報交換会を何度か行い、そこに負傷者、救助にあたってくれた人に来てもらって情報を集めるという場を設定する。そして、負傷者全員とコンタクトが取れるのはJR西日本しかいませんので、その告知をやってもらえないかというお願いをしました。彼らはその依頼を受けてくれて、さらに、彼らの方から、情報交換会をやるのであれば負傷者や救助をしてくれた人が来やすいように、複数の場所で複数回やりましょうという提案をしてくれました。決定した開催日時は以下の通りです。事故現場に近い尼崎では、救助に当たってくれた工場や市場の仕事帰り来て頂きやすい時間設定にしたり、あまり長時間になると話を聞き続ける遺族の負担が大きくなるため、短い時間で区切ることにしました。

■第1回 4月6日(木)16:00~20:00 尼崎
■第2回 4月9日(日)13:30~16:30 宝塚
■第3回 4月16日(日)10:30~12:30/13:30~16:30 宝塚
■第4回 4月25日(火)11:00~16:00 尼崎(慰霊式会場)

次は告知の方法ですが、JRから我々に個人の情報を頂く訳にいきませんので、負傷者に個別についている担当者から遺族の思いを伝えて頂き、その上で情報交換会のご案内を手渡して頂くことになりました。
僕もネットワークの会合で話を聞くまでは、乗車車両すら分からない遺族がいるということは知りませんでしたので、おそらく他の負傷者にもそういった遺族がいるというのは伝わっていないと思いました。そして、事故のことを思い出したくない、遺族には申し訳なくて会えないという人に、わざわざ情報交換会に来てもらって、遺族の前で事故当日の話をしてもらうためには、何故、遺族が亡くなった家族の乗車車両や乗車位置を知りたいのかを丁寧に伝える必要があります。その方法のひとつとして、乗車位置を知りたいと願っている遺族の簡易的な文集を作ることにしました。7名の遺族が書いた手記を「あの日のことを知りたい」という冊子にまとめましたが、今読んでも心が震えます。
実際に思いを書くとなると、涙でなかなか筆が進まない…というのは理解していましたが、決められた情報交換会開催までにやるべきことは全てやるという使命があったので、鬼の編集者になって集め、内容にJR批判や亡くなった方への思い以外のことが書かれてある場合は、書き直してもらいました。事故原因や再発防止などの視点ではなく、ある意味、最もストレートに亡くなった家族に向かい合う時間だったと思いますので、とてもつらい作業だったと思います。19歳の娘を亡くした父親が書いた「(娘の最期が分からなければ)親より先に逝ってしまった親不孝者の死を、最愛の娘の死を受け入れることができないんだ」という言葉を読んだときには、涙が出ました。

普段、あまりしゃべらなかったAさんも少しずつ打ち解けてきてくれて、この冊子にも車両は分かっているけど、2両目の中で最期にいた場所を知りたいと書いてくれました。今思えば、「最期の位置を知り、その場所に行きたい。行ってあげたいと思うのです」という言葉は、彼女なりの思いや覚悟がそのときからあったのかもしれません。

この冊子は、遺族の知りたいという気持ちがとても伝わってくる内容である反面、これを目にする負傷者への配慮は不可欠でした。生き残ったことへの罪悪感(サバイバーズ・ギルド)を持っている負傷者がいることも承知していましたし、僕自身も、2両目が最も多くの犠牲者が出た場所だと知ったときには、自分が飛ばされて行って車両前方にいた人を押しつぶしたと感じたので、その気持ちは理解しているつもりでした。
そうしたことを踏まえ、単に冊子や情報交換会の案内を手渡すだけでなく、まず担当者から口頭で趣旨を伝えて頂き、こうした遺族の思いが書かれた冊子を読んで頂くことはできませんかと聞いてもらった上で、冊子を手渡してもらうことにしました。負傷者へのお願いの手紙や協力依頼の文章などは、全て僕が書きました。説明をしてもらった上で、それでもやっぱり遺族の前でお話をすることはできないという方には、JRの担当者が事故前に乗車していた位置、事故後に飛ばされていた位置、そして事故前と事故後に記憶していることなどの聞き取り調査をしてもらいました。特に、覚えている人の特徴や服装、持ち物、ケガの状態(遺族は、亡くなった方のケガの状態は把握しているので)などを重点的に聞いて頂きました。
この冊子はJRが1000部印刷をしてくれて、遺族が救助にあたってくれた周辺の工場や企業、市場の方、さらに警察、消防、レスキューなどを一軒一軒手分けして周り、これらの冊子と情報交換会の案内を配りました。事故現場にもたくさんの方が献花に来られますので、そこにもご案内の看板を立てて頂くことにしました。

情報交換会の場で、来てくれた人からどのように情報を集め集約するのか、細かい打ち合わせが必要でした。方法としては、亡くなった方がいた1両目、2両目、3両目の形を個別に書いた畳1枚分ぐらいの大きさの紙と、事故現場全体を俯瞰した紙、それから1~7両目までの事故前に乗車していた場所を示す紙を5枚用意しました。
それぞれをテーブルの島に配置して、車両が分かっている遺族はその車両の島で話を聞き、車両すら分かっていない遺族は、後からでも来てくれた人に話が聞けるように、書き込んでもらう情報と聞き取った情報を整理番号で管理することにしました。整理番号は、負傷者「フ-001」、救助者「キ-001」、JRが聞き取ってくれた情報は「JR-001」という形で、ひとつのマップに整理番号と共に書き込んで行くことにしました。そして、来てくれた人が書き込んでくれた情報以外にも、話をしている内容全てを記録するために、JRの職員、被害者の支援を行ってくれているボランティア団体のメンバー、臨床心理士グループの有志などがボランティアで参加してくれることになりました。事故当日の話をして気分が悪くなったり、逆に生々しい話をお聞きしてショックを受ける遺族がいるかもしれないので、心理士が常にスタンバイしてくれていました。それはとても心強いサポートでした。

会場に来てくれた人に思い出してもらいやすいように、知りたいと願っている遺族の亡くなった家族が当日着ていた服や持ち物の特徴を、デザインの仕事をしているOさんが作ってくれました。当日、実際に着ていた服は事故でボロボロだし血だらけになっているので、イラストで再現しました。年齢や特徴、顔写真なども掲示しましたが、視覚的にインパクトのあるものは壁を一枚隔てた裏側に設置しました。会場に入って来た途端、いきなり目の前に亡くなった方の写真がずらっと並んでいると、とてもショックを受けるかもしれないので、その配慮のためです。こうした一つ一つの細かいことも、全て遺族とJRで話し合いをして決めていきました。これらの作業を、実質、事故から1年目の4月25日を迎える前の3月の1ヶ月間で全て行いましたので、怒濤の日々でした。

人の記憶に頼るという取り組みなので、情報はたくさん集まったとしても、実際にピンポイントで知りたい人の乗っていた場所まで判明するのは難しいだろうと感じていました。しかし、負傷者や救助をしてくれた人が会場に足を運んでくれて、遺族のために一生懸命話をしてくれるというところに人間としての温かみが感じられるだろうと思っていましたので、仮に場所が見つからなくても、遺族にとって一つの納得の手だてになって欲しいなと願っていました。
とは言っても、実際には目に見える写真などが必要です。当日の号外や新聞記事に掲載されている写真はそれほど鮮明ではありませんし、数も多くはありません。僕の方で個別に記者に交渉をして、出来る限りたくさんの写真を集めることにしました。中には、この取り組みで使う以外は表には出さないという念書を書いてお預かりした写真もありました。

何度目かの我が家での集まりで、皆でワイワイと準備をしていたときです。集めた新聞写真を見ていた遺族が、「主人です…」と言って突然泣き崩れました。報道写真の片隅に、血だらけになって倒れている旦那さんを発見したのでした。その場で皆が凍り付きました。これまで漠然と「知りたい」と思っていたことが、乗車位置を探すということはこういうことを意味しているのだと突きつけられた瞬間でした。多くの遺族が真実を知りたいと口にしますが、真実がとても残酷な場合もあります。当時、詩のようなものをたくさん書いていましたが、そのときの気持ちが良く書けているように思う内容があったので、ここに引用しておきます。

「私たちのママ」
私たちには 身内ではないママがたくさんいる
あの事故で 子供を亡くしたお母さんたちを
いつの間にかママと呼ぶようになった

自殺をしてしまった仲間のお母さんも
私たちのママ

メールのやり取りも
「ママへ」
「ママより」
何て不思議な関係なんだろう

ママたちの抱えきれない悲しみを
私たちに埋める事が出来るのだろうか

私の大切なママたち 泣かないで



「真実を知るという事」
真実を知るのは良い事なのだろう
しかし 真実が必ずしも優しい顔をしているとは限らない

死亡した乗客106名
負傷した乗客560余名
生き残った全ての乗客から情報を聴き出すつもりで
私は「最期の乗車位置」を探す取り組みを
遺族の有志と共に始めた

その中に この事故で(中略)夫を亡くした妻がいた

その取り組みを始めた矢先
彼女の夫が車外に運び出され
血だらけで 路上に倒れている姿の写真が見付かった
夫の姿を見付けた彼女は泣き崩れた
一緒に探し始めた仲間の全員が その場に凍り付いた

その後 多くの負傷者とコンタクトを取り続けていた私は
ある人から預かった複数の写真の中で
車外に運び出された彼女の夫が 足を曲げたり延ばしたり
手の位置も写真によって微妙に変わっている事に気付いた

事故直後は生きていたのだ…
彼女に伝えるには 余りにも残酷過ぎる現実だった

この事実を私たちは それから1年以上黙り通した
何度も何度も彼女に伝えようと思ったが
日に日に弱ってゆく彼女の姿に
追い討ちを掛けるような事は どうしても出来なかった
彼女が捜し求めている真実を黙っている事に
吐き気がし 目眩がした
罪悪感が付きまとい
彼女を裏切り続けているようだった

真実を知るという事はこういう事なのだ
言葉で語るほど 真実は生易しいものでは無い
炎天下に長時間放置されていた彼女の夫は 結局助からなかった
「もっと早く運ばれていたら…」
「即死ではなかったのか…」
そう考えずにはいられないだろう

事故から2年3ヵ月後
私は彼女にその写真を渡した
「今まで黙っていてごめんなさい」
私の大切なママが…泣きそうになりながら笑ってくれた

彼女は私に
「私のために今まで黙っていてくれてありがとう
あのときの私ならば この現実を受け入れる事が出来なかったと思う
今だからこうして向き合えます
本当の事が知れて良かった
今まで 黙っていて苦しかったでしょう…」
と言ってくれた

私は淡々とその場を去ったが
帰りの車を運転しながら 涙が止まらなかった
ママ…ごめんなさい

その後
ママは 私の妻を自宅の食事会に誘って下さり
私の誕生日には 大きなメロンを持って来てくれた

人の苦しさに寄り添うために
年代や性別 立場などは関係が無い事を知った



いよいよ情報交換会を行う準備が整い、一番大きな仕事が残されました。記者の皆さんにこのことを伝え、どのように報道してもらうのかということです。事故後、それまでいろんな局面で取材を受けて来ましたので、この取り組みがもの凄い注目を集めることになるのは覚悟していました。しかし、個別に説明をして、きちんと趣旨が伝わらないままに報道されると、遺族の思いが伝わらないまま、情報交換会にだけ来て下さいという乱暴な伝わり方になってしまうかもしれません。そうなると、会場に来てくれないだけではなく、遺族に対する反感に繋がる可能性もあります。そこで、報道関係者を一同に集めて、記者レクチャーという場を持つことにしました。場所は、JR西日本が会合などで使用している弥生会館という場所を用意してくれましたが、このときが、これまで僕がいろんな取り組みをしてきた中で一番覚悟のいる会見でした。
遺族の中にいる負傷者は僕だけです。思い出したくないと言っている負傷者がたくさんいる状況の中で、それを思い出して遺族の前でしゃべってくれと言っている負傷者がいるということで、負傷者全員から嫌われるんじゃないかと思い、とても怖かったです。この取り組みは、遺族、負傷者、JRのみならず、周辺住民、警察、消防、レスキュー、病院関係者、報道関係者、支援をして下さっている方など、この事故に関わったほぼ全ての人を巻き込む活動でしたので、やると公言するにはそれなりの覚悟が必要でした。普段は取材など一切受けないAさんも、自分の口で思いをしゃべると言って会見の席に参加してくれました。
弥生会館には、大手報道機関以外にも思いつく限りではほぼ全てのメディアが来ているような状態で、異様な雰囲気の中で会見が始まりました。乗車車両すら分からない遺族がいること、それを知らなければ死を受け入れることができないということ、その思いを伝える冊子を作ったこと、どういった方法で情報を集めるのかということなど、かなり時間をかけて丁寧にお伝えしました。Aさんも、泣きながら夫が乗っていた最期の場所を知りたいという思いを記者の皆さんに伝えました。
記者の皆さんにも「あの日のことを知りたい」をお配りし、こうした思いを知った上で、知りたいと願う遺族の思いが伝わる内容を中心にして、その記事と共に情報交換会のことを告知して欲しいというお願いをしました。結果的に、各社とも丁寧に遺族の思いを取材して下さり、とても素晴らしい記事を書いて下さいましたし、テレビの報道も共感のできる内容が多かったように思います。ここでは僕は裏方ですので、取材をお受けするのは遺族の方のみです。その中で、一社だけが、我が家がどうして遺族と共に乗車位置を探すのかということに着目してくれたテレビ局がありました。

後は、4回続く情報交換会の開催を待つのみとなりました。本当に会場に人が来てくれるのか全く予想ができませんでしたが、JRと共に乗車位置の仲間で考えつく全てのことはやり尽くしました。この会見の中でも、遺族の口から「JRの皆さんには感謝している」という言葉が出たぐらい、彼らも本当に一生懸命やってくれました。この会見が終わって記者の皆さんが帰っていった後、ついに引き返せない場所まで来てしまったと感じました。後は、自分が信じてやってきたことの結果を待つのみです。

「最期の乗車位置②」へ続く