その10「私の2両目」~JR福知山線脱線事故から10年 | 小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

兵庫県の田舎で、茅葺きトタン引きの古民家でデザイナー&イラストレーターとして生活しています。
自宅兼事務所の「古民家空間 kotonoha」は、雑貨屋、民泊、シェアキッチン、レンタルスペースとしても活用しています。

事故に遭うまでは、電車の何両目に自分が乗っているのか…ということを気にすることは全くありませんでしたが、当たり前の話だけど、電車は前から順番に1両目、2両目と繋がっていて、脱線してぶつかったり、踏切で立ち往生しているトラックに突っ込んだりして一番ダメージを受けるのは、やはり前方の車両ということに初めて気がつきました。
僕が乗っていた2両目は、マンションに激突して「く」の時に折れ曲がり、一番多くの犠牲者を出した車両です。忌まわしく悲惨な現場なのに、2両目という場所の響きには、僕の中では愛着にも似た不思議な親近感のようなものを感じています。その「2両目」について書いてみます。


事故に遭うまでの4年間、通勤時にはほぼ毎回2両目に乗車していました。当時僕が住んでいた生瀬という駅は快速電車が停車しない駅だったので、普通電車で宝塚駅まで行き、そこでホームの反対側に止まっている東西線の快速電車に乗り換えていました。大阪で降りた後は、駅の前方の出口から会社に向かうので、前の方の車両に乗る方が便利だったからです。しかし、1両目付近には、当時、宝塚駅に喫煙場所があったので、停車中に車内に煙の匂いが流れて来ることもあってその場所は避け、3両目は女性専用車両だったので、その間の2両目が自分の定位置だった訳です。
東西線は宝塚駅が折り返しになるので、通常は普通電車から乗り換えると8割方は座れました。座れなかった場合は、1両目の運転席の後ろが広くて立っていやすい場所でしたので、1両目まで移動して立っていました。あの日、もし2両目で座れなければ1両目の先頭に移動していたので、僕は今頃生きていなかったでしょう。

事故直後の2両目の車内は、筆舌に尽くし難いほどの悲惨さでした。僕自身はほとんど気を失っている時間が無かったですし、僕がいた場所は車体の天井がはぎ取られて燦々と日が照りつけていたので、その悲惨な光景をはっきりと目にすることができる場所でした。
僕の周りの方はほとんどが即死状態の方が多く、顔が半分に裂けている人や目玉が片方飛び出して潰れている人、頭の皮がめくれ上がっている人などがいました。瓦礫と化した車体や裂けた車内の壁面、吊り革のポール、クーラーのファン、アルミのフレームなどが凶器になって人に突き刺さり、外れた座席などが複雑に絡み合った状態で、人が何十人も山のように積み上がっていました。僕の隣には、両足を人の山の上の方に挟まれてぶら下がっている人がいましたが、両腕から地面に血が滴り落ちている状態で、すでに亡くなっているというのがすぐに分かりました。僕は、2両目が激突してぺちゃんこになっている柱のすぐ隣にできた1mほどの空間にいて、人の山に右足の太ももから下を挟まれ、反対を向いてぶら下がっている状態でした。あまりにも絶望的な状態で、人が生きていて欲しいと願うことすら否定されるような現場で、人の山の一番下で足だけ見えている状態の人は、途中で動かなくなりました。
事故後しばらく、ミンチの肉や温泉タマゴなどを食べることができなくなったので、妻が食事の内容にも気を使ってくれていました。そして、2両目の後方に乗っていて、激突後に車両の前方にまで飛ばされて行った僕がこの程度のケガで済んだのは、きっと車両前方に乗っていた人がクッションになってくれて、自分が彼らを押し潰してしまったのではないかと考えるようになりました。
事故後の報道で3両目の車両の中の写真が公開され、今でもときどき使われることがあるのですが、とても違和感があります。どの車両に乗っていても被害を受けたことに代わりはないのですが、あの写真は電車の車内という形が認識できる映像ですので、僕がいた場所のどっちが上で何がなんだか良く分からないほどグチャグチャに潰れ、スクラップ状態の残骸と化した車両とはほど遠い現状を伝える内容だからです。

あれから10年。あの事故現場は、間違いなく自分の人生の大きな分岐点になった場所です。事故現場のことを忘れたいという被害者の方もおられますが、僕は忘れたいとか思い出したくないと思ったことは、今まで一度もありません。事故から2年目ぐらいまでは、忘れるどころか、額の裏の前頭葉というか、目玉の裏の辺りにずっとその映像が焼き付いているような状態でした。しかし時間と共に、あんなに鮮明に覚えていた場面が、徐々にあやふやになってくるのを感じ始めました。それに加えて、報道で見続けている別のアングルの映像や写真が、いつの間にか自分の記憶のように書き換えられ、いったいどれが本当の自分の記憶なのか分からなくなってくる危機感を持つようになりました。
そう思って描き始めたのが「眼窩の記憶」というタテ180cmもある大きな絵で、何度も描き直して、かなりの時間をかけて完成させました。報道関係の方が、「作品」という言葉を使ってくれることがありますが、僕にとっては、自分の記憶を忘れないうちに描いておこうと思っただけのものなので、作品というよりもただの絵という感じにしか思っていません。そもそも、見て頂きたいと思っていたのも、自分が話をする報道関係の記者やJRの職員が対象でしたので、一般の方が目にするということは全く想定していませんでした。

何度も何度も頭の中で反芻してきた事故現場なのに、時間と共に記憶があやふやになっていくことが許せないという感覚を拭いきれません。僕がいた場所は、「く」の字でマンションにへばりついた内側なので外からの写真もありませんし、もしあったとしても、車両の中に人が山積みになっているような写真が表に出て来ることはないでしょう。でも、もし自分がいた場所の事故直後の写真が残っているならば、見てみたいと思っています。あるとすればレスキューの方が撮っているかもしれませんが、自分にとってとても大切な2両目のあの場所のことを、自分以外の人が知っているかもしれないと思うと、嫉妬や妬みを感じるほどです。
何だかとても変な感覚ですが、あんなに悲惨で目を背けたくなる場所なのに、僕にとってはすでに自分の中に同居している大切な場所でもありますし、同じ2両目に乗っていた方に対しては、どういう表現をすれば適切なのか分からないけど、無条件に思いを共有できる人という特別な感情があります。逆に、ある意味、2両目以外のことは全く関心が無いと言っても過言ではなく、おそらく1両目で生き残った人も同じようなことを感じているのではないかと思っています。僕には、真っ暗な穴の中で身動きができず、ガソリンの匂いが充満していた1両目の中の恐怖は想像できませんが、そこに乗っていた若い女性が、僕と同じように「記憶が曖昧になっていく自分を許せない」ということを言っていました。彼女の言葉はとても共感できるものが多く、事故現場に対して僕と似たような感覚を持っているのではないかと感じています。

事故後、事故現場のことを忌まわしい場として自分の中に認識し、遠ざけてしまうこともできなかった訳ではなかったんだと思いますが、たぶん、そうした姿勢を取って行動をしていたとしたら、おそらく今のような心境にはなれていないだろうと感じています。ずっと、自分の人生の転機になった場所のことを反芻し、それを自分の記憶の中で共存することによって、その後に過ごして来た時間や行動に意味を持たせることができたのではないかと思っています。

10年目の4月22日から、東京のギャラリーで、事故から3年目に描いた「眼窩の記憶」と自分が記憶している場面の模型を展示してくれることになりました。一般の方に見てもらうことを目的に描いた訳ではありませんので、自分が関心のあるピンポイントの部分以外はかなり雑に描いてありますし、後の報道で知り得た部分を想像で描いている箇所もあります。また、かなり残酷な場面の絵と模型ですので、公開することに抵抗がなかった訳ではありません。
ただ、ここ数年、事故から何年とか裁判のこと、事故現場の保存の件などで福知山線の事故のことが報道されるとき、いつも同じような無難な空撮の映像で「106人の乗客と運転士1名が死亡した…」という冠で伝えられることに、とても違和感を感じるようになりました。
本当に、この報道であの悲惨な事故現場で亡くなったり、その場で生き残った人間のことが伝わっているのか、むしろ107人という人数と、2両目が「く」の字に折れ曲がった衝撃的な映像のみによって福知山線の事故が認識され、人の記憶の中に留められようとしているのではないかという危機感を感じました。車両の中に生きた人間が存在していて、あの事故によって突然命も未来も奪われた一人一人の人間としての107人であるということが伝わっていないような気がしています。107人の亡くなった人にはたくさんの遺族がいて、遺族にすら分類されない友人や恋人などがたくさんいたはずです。その彼らの一人一人がどのような場所で亡くなり、人間がこんなにも不条理な状況で、人としての尊厳も尊重も配慮もない中で命を奪われたということが、本当に伝わっているのかな…と感じるようになりました。

あの事故現場で、山のように積み上がった一番下で足だけ見えていた人、顔が半分に裂けて亡くなっていた人が、あなたの恋人だったらどうでしょう。そして、それがあなたの大切な人ではなかったという根拠がどこにあるのでしょう。たまたま僕はあの電車の2両目に乗っていましたが、1時間前の電車であの事故が起きていれば、間違いなく107人の倍以上の方が亡くなっていたでしょう。東京で起きていれば、さらに被害が大きかったことは言うまでもありません。
そうした思いもあって、今回、東京で初めて自分が描いた2両目の車両の中の絵と模型を一般の方に見てもらうことになりました。どのような反応があるのか想像できませんが、「わたしたちのJR福知山線脱線事故ー事故から10年」という展覧会を企画してくれた若い女性の思いや心づかいにとても感謝しています。
今回の展示は、自分が経験した事故の悲惨さを最もストレートに伝える内容となります。中には、見たくなかった、知りたくなかったという人もいるかもしれませんが、自分なりに配慮をして10年間表に出さなかった事故の姿です。見に来て下さった方が、少しでも日常の安全の意味を思い起こしてくれたら良いなと思っています。

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