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曹洞宗・建中寺
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 謡跡『遊行柳』は奥州街道の関東北端の宿駅「芦野宿」の端に位置していた。
JR黒田原駅からをタクシー利用、街中に有る「石の美術館」を横目に芦屋氏縁の「建中寺」へ。
 
 「曹洞宗・建中寺」
「芦野氏新墳墓」の有るお寺、山門から更に階段を登る景色は岡城の様。
 
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遊行柳
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西行歌碑
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遊行上人揮毫の碑
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謡曲駒札
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芭蕉句碑
 
     道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ       
                                   西行
     田一枚植て立去る柳かな         
               芭蕉
 
 芭蕉は元禄2年(1689年)4月19日(新暦6月6日)、殺生石を見物したあと遊行柳に立ち寄ったという。
 
 この先は「芦野湯泉神社(上の宮)」と樹齢400年の大イチョウ、背後の鏡山を拝して街中へ。
 
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武家屋敷の枝垂桜
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芦野氏陣屋跡
                                              
 道標やお堂、石仏の数々を見ながら武家屋敷へ。
「武家屋敷の枝垂桜」は樹齢400年、
「平久江家門」は芦野家・家家老を勤めていたお宅の門構えを拝見して御殿山「那須歴史探訪館」へ。
建物は現代的で立派だが、パンフレットにある歴史街道についての情報が全く得られず
時間が惜しいので先を急ぐ。
 「揚源寺」(あすなろ)~「芦野氏陣屋跡」~川原町
 
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三光寺
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   「三光寺」(日本三所 芦野聖天)
白河藩主松平定信も篤く信仰し定信直筆の「聖天」の扁額を奉納、
記念として境内に松を植樹したと伝えられている。
 
     文化8年、白河城主松平定信(楽翁)公の
     当山本尊聖天扁額奉納記念として
     植樹されたと伝えられてい
     後年、名を松平の「松」楽翁の「翁」をとり
     『松翁』と名づけられた。
     その雄々しい姿は200年の歳月を経て
     見るものの目を圧倒している。
     なお那須の名木に指定されている。 
                     三光寺
                               ―説明板を写す―
 
 「最勝院」~「芦野氏陣屋裏門」を見学
 
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館山城址
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堂の下岩観音
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堂音の下岩観桜まつり・お念仏
                                                        
 「芦屋氏旧墳墓」へ至る直前、国道294号線の道端に説明板と印象的な景色。
 
   館 山 城 址
 芦野氏第2の城館「館山城」は、切り立つ岩山の丘陵地形を利用した要害で、
前館、中館、後館に区分され、東側を流れる菖蒲川を天然の堀とした極めて強固な山城である。山頂や山腹には土塁や郭跡の遺構がわずかに残っている。
 芦野の地は奥州との堺に位置し、室町時代には北に白川結城氏、東に佐竹氏、南に宇都宮氏と対峙し、抗争を繰り返した。この城の築城は応永年間(1394年~1428)と伝えられている。
この時期は、個人戦法から集団戦法への変化に伴い、武士の居館が平城(芦野氏居舘)から山城へ移行し、戦略的な革命時期でもある。
その後、狭隘な地形と飲料水などの条件から、戦国時代の天文年間(1550年頃)に、東方にある御殿山(芦野城)を築城し、移転したと伝えられている。
 江戸以降は、廃城となった館山城は、芦野石の石切場となり、その面影をしのばせている。
                                                        (説明板を要約)
 芦野石は国道294号線沿いの地域で産出される地場産品であるらしい。
今朝寄らなかった「石の美術館」が気になる。 
 
 「堂の下岩観音」
奈良川の西岸(右岸)の西坂から東岩崎の間に芦野石の石脈が続いており、ここは旧芦野石の採掘所であった。この南端に近い所に「堂の下」集落があり、その集落の西部に芦野石の岩肌が露出していて今にも崩れ落ちるかのようにそびえ立っているところがある。その中腹に観音堂がある。古くから信仰があったようであるがくわしくはわかっていない。  (栃木県HPより)
 
 鉦の音が響くので何かと思っていたら、「桜祭りのお念仏」の最中だった。 感謝。
 
 
                                  義経道~白河の関へ続く・・