夜の底で Ⅰ | せいたのすくわれないブログ

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 春の宵の心地よい空気のその生暖かさの所為ばかりではなかろう。
街全体がうかれゆく人々の歌声と嬌声、踊りと酔態の熱気による一個の澱(よど)んだ大気にすっぽりと収まっているようであった。
せいたはいつもの馴れ親しんだ顔ぶれと共に若い女たちをからかい茶化したり、口笛を吹いたりしながら酩酊のうちに街路を縦横に我がもの顔にそぞろ歩いていた。
「こっちだ。こっち! 」頬を酒の酔いに染めながらも瞳は子供のように好奇心に満ちてきらめかせながら若い友人が街路を右に折れて先導する。せいたも他の面々も次々にそれに従う。
せいたの身を包んだ女物の軽やかな薄着は春の宵に誘われ空気と戯れ、せいたをますます受容的な自由の官能性へといざなう。
「こっちだ。」また若い青年が頓狂な声音で叫ぶ。 せいたはその黒い瞳の輝きを実に可愛いらしく思う。しかし、可愛いらしく感じたその刹那、妙な虚ろさが駈け足で入ってくる。
深呼吸のようにして首を後ろに反らせると、遠い彼方にぼやけた三日月が爪跡のようにかすかにみとめられる。
せいたは歩調は同じままにして、しばらく馬鹿のように口をあけて三日月を眺めながら歩き続けた。 ややあって視線を元に戻した。河のように佇む夜の濃密な大気が眼の前にあった。前を歩く友人の足は石畳ではなく沈んだ闇を踏んでいるかのようであった。せいたはおもむろに駈け出して、一党の先頭まで出た。そのまましばらく走り続け次の曲がり角まで行く。出くわした美しい女はびっくりしたようにそこに立ち止まったのか、それともずっとそこに立っていたのか…その眼に見入ってみると、黒い澄んだ眼ではあるが白い部分に赤く鋭い血管が上目使いに非難の調子を見せていた。 せいたは角を折れてまた小走る。後ろから一行も小走りに追ってくる。中のひとりがおよそ不釣り合いな怒鳴り声で詩を吟じ始めた。
「おお、甘美な……あなたの手の中に憩うのは今…… 夜を脱けだしあなたのもとに走る……」

「一緒に呑まないか?」太った赤ら顔の中年の男が声をかけてくる。
「おいで」開かれた木の扉の中から女が呼ぶ。 歩をゆるめて眺めると、そう齢は行ってないが眼の下にただれたような皺(しわ)を刻んだ女がランプの灯りの中で豊かな胸を半ば露出してもう一度嘲(わら)ってうなづく。 酔いにまかせてろれつの廻らない口調でせいたにしがみついてくる男たちもいる。 せいたはそのひとつひとつに寛大な微笑を見せ、丁寧に応じ、励ましたり元気づけたりする。しかし、いわれのない虚ろさがその度びにその虚無自体を締めつけるかのように胸の奥で蠢(うごめ)くのであった。
「せいた! 」「せいた! 」派手な色の服をつけた若い娘たちのグループが期待をあらわに彼の名を呼びつける。せいたはすぐにそちらの方へ歩を向けた。