3月2日は朝起きたとたんに鼻血が出て、全身がだるくて、真央ちゃんと何かしゃべる時も言葉がうまく出てこなかった。
「音舞語り」の小作品を自分で考えて稽古場で上演してみる、という課題がお師匠さんから出されて、3月1日がその締切日だった。前日から稽古場に舞台さながらに幕を立て、照明も2発だけだが設置して臨んだ上映&撮影会。
午前中に私の作品、午後に真央ちゃんの作品と、2つ続けてやり終えたときはまだアドレナリンが出ていて、何とか片付けまで動き続けられたが、翌日は上記の通りのグダグダ状態。
何日も半分徹夜状態が続いていて神経も張り詰めた状態だったため、終わったときは本当に今までに味わったことのないほどの「解放された。」という感覚を全身で味わっていた。何か月も前から分かっていたことなのだから早めに着手すればよさそうなものだが、ギリギリにならないと本格的に動きだせないものだ。
さて、一つの作品を作ったという達成感はあった。後日録画を見てみた感想は、端的に言うとビックリするくらい面白くなかった。
今回私の考えた「音舞語り」は刀鍛冶が主人公だ。あらすじはこうである。
ものすごく腕の良い刀鍛冶の男が、人を殺傷する道具を作ることをやめて今は鍬や鋤を作る村の鍛冶屋となって、ひっそり妻と暮らしている。
妻はなぜか言葉を話すことができないが、とても気立てが良く働き者で、男を助けて働いている。二人の間には幼い子があった。
ある時都から武器商人が現われ、来るべき戦に備えようとしている殿様の要望により、伝説の刀鍛冶である男に、一振りで千人の命を絶つ刀を鍛えさせようとする。男は断るが、幼子をさらわれて止むを得ず刀を再び打つことにする。
出来上がった、この世にまたとない名刀を誉めそやす商人の言葉に、男はつい心を動かされ刀鍛冶に戻ろうとする。すると、どこからか突然女の声がし、それを止める。
季節外れの猛吹雪が吹き荒れ、権現様が現われると、男の鍛えた刀を銜え取って消えてしまう。
男はその日から刀を作る術を忘れ、妻は姿を消してしまい、男は村の鍛冶屋に戻った…。
テクノロジーがどんどん発展して行き、現実に身近な場所で戦争が起こっている現在、人には、自分の技術をどこまでも高めたい、それを世の中で発揮して人に評価されたいという欲があるということ。わが子を助けるために他人の子を犠牲にしても良いと思ってしまう心もきっとあるし、良いことをしているつもりでも悪いことをしていたり、その逆もある、ということを物語で表現したかった。
一応物語は理解できるし、踊りや語り、太鼓といろいろな要素が盛り込まれているし、流れはきちんとある。でも、なんだかちっとも感情移入できない。
録画だし稽古場でやっているということを差し引いたとしても、和力の作品のようにぐっと感動して身動きできなくなるような瞬間がない。
今回のお師匠さんからの宿題のルールとして
① 15分以上の作品であること
② 出演者はお師匠さん、私と真央ちゃんの3人であること
③ 自分が作品中で語り、太鼓、踊り(できれば歌も)をやること
④ 語りや音楽は暗記すること(これは最終的には今回免除になった)
ということが決められていた。
お師匠さんが「音舞語り」作品を作るときは、いろいろなやり方があるが、最近は「この踊りをこの音楽でやりたい」というような、場面がまずあってそれに合わせて物語を書く、という順の傾向があるそうだ。
私も今回は、鬼剣舞の刀を持って踊る踊りと権現舞をどうしてもやりたかったので、半ば無理やり両方の場面を作った。
作品中に必要な踊りや太鼓は、毎日少しずつお稽古をつけていただいていた。
いったい、何をどうしたらこの作品が良くなるのだろう。今の時点では正直に言ってまだそれがわからない。
例えば秩父屋台囃子や八丈島の太鼓囃子といったお囃子がかっこよく叩けても、鬼剣舞やさんさ踊りなどの舞踊がとても上手に踊れたとしても、それだけでは私たちの立場の人間が作る舞台の形にはならない。
太鼓や踊りの稽古は日ごろからしているけれど、それだけではなくて、ただソデから出てきて何かをし始めるまでの歩き方や目線、どのくらい何に間を取るかということ、そういった一見何気ないことの方が難しい。
そうした細かいことが洗練されていないので、観た時の印象が舞台っぽくないような気がしている。
唯一良かったと思っている点は、真央ちゃんに琵琶歌を、お師匠さんに商人の役をやっていただいた場面。我ながら良い演出だったと思っている。
最近、お師匠さんは趣味のバイクにもうすぐ乗れる季節ということで、メンテナンスやら改造やらにワクワクしている様子だ。いろいろな部品からできているバイクの、いくつかのパーツを変えたりしたいそうだ。
舞台も実に様々な要素からできている。
「稽古」という部品
「作曲」という部品
いろいろな部品が必要だ。
とにかく、文字にする、音にする、記録することが「作る」という行為の部品なのだ。
「ここにはこの音しかない。」「ここではこの間だ。」ということが分かって、それを出せるようになるためには、稽古や本番を積み重ねることが必要だし、魅力ある舞台を作れるようになるにはいろいろな経験をして人間を磨いていくしかないだろう。
そうするまでは、いくら頭で考えていても、なんとなく心の片隅に思っていても「作って」いることにはならないのだ。
お師匠さんたち和力の皆さんが育ててこられたこの「音舞語り」という表現の形式は無限の可能性を秘めている。
私もいろんな有形無形の部品を集めて、育てて、改造していつの日か…
その日まで皆様どうぞ気長に、厳しくも温かい目で見守ってくださいませ