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標記のことについて、聖書からメッセージをさせていただきます。
旧約聖書イザヤ書の第53章1~6節より
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
主の御腕は、だれに現れたのか。
彼は主の前に若枝のように芽ばえ、
砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、
苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。
彼への懲(こ)らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を
彼に負わせた。
私たちは救われる前は、迷い子の羊でした。
帰る道が分からず、帰るべき所もなく、
サタンの餌食になるのを、ただ待つばかりでした。神は、このような私たちの犯した全ての罪を、御自分の御子の上に負わせられたのです。
聖霊は、「私たちが聞いたことは、だれも信じることができないほど不思議なことである。主の御腕、すなわち御力はだれに現れたのか、実に、人によってさげすまれ、見捨てられたこの御方に現れたのだ。この方こそ、神の御力の現れであられたのだ。」と語っておられます。
主イエスは弱々しく、注目を浴びることもなく、育てられました。主イエスは人に知られず、貧しい家で育てられました。成人された時も、主イエスはただの普通の男性の顔つきで、中世の絵画に登場するような、ハンサムなところは全くなかったのです。
主イエスの顔には、常に悲しみが宿っていました。全てを知る力を持ちつつ、憐れみに満ちた心を持った御方が、悲劇に満ちたこの世にあって、悲しむことなく過ごすことは不可能です。
もしこの世の中で、人が自分は幸せだと喜びながら生きることができるならば、その人は人を憐(あわ)れむ心が全くないか、他人のことに全く無関心でいることができる、薄情な人であるかのどちらかです。
主イエスは罪人の身代わりとなられて、罪人が受けるべきであったさばきを御身に受け、私たちが犯した罪過に対する神の怒りを、御身に受けてくださったのです。主イエスの身代わりの死によって私たちは罪の赦(ゆる)しを受け、平安を得ることが許され、主イエスがお受けになった打ち傷によって私たちは救われることができました。
今日も日本で、世界中で小さないのちが守られますように!
ひとりとして、一匹として、苦しい思いをすることがありませんように。
ご覧いただき、誠にありがとうございました!