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☆愛がいちばん!ネアカ椋田☆寅吉の本日完売ブログ☆(悲しんでいるようでもいつも喜んでいる人のブログ)☆

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標記のことについて、聖書からメッセージをさせていただきます。


旧約聖書サムエル記第二第24章1節

「さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は『さあ、イスラエルとユダの人口(兵士)を数えよ』と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。」新改訳聖書では「イスラエルとユダの人口」となっていますが、「イスラエルとユダの兵士」とすべきです。第9節は、「そしてヨアブは民の登録人数を王に報告した。イスラエルには剣を使う兵士が80万、ユダの兵士は50万であった。」と語って、ヨアブが調査したのは兵士になり得る民の数であったことを明らかにしています。ただ単なる人口調査であるならば、主がダビデに怒られる理由がありません。


第24章2~4節

「王は側近の軍隊の長ヨアブに言った。『さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、その民を登録し、私に、民(兵士になり得る民)の数を知らせなさい。』」


第一歴代誌第21章1節は、サタンがダビデを誘い込んで、これを行わせたと語っています。神が、サタンにダビデを誘惑することを許されたのです。その理由は、ダビデの心の中に、彼自身が、何が神のみこころに反することであるかを知っていながら、それをあえて行いたいという自己主張を持っていたので、サタンに誘惑する隙を与えたからです。


「すると、ヨアブは王に言った。『あなたの神、主が、この民を今より百倍も増してくださいますように。王さまが、親しくこれをご覧になりますように。ところで、王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか。』しかし王は、ヨアブと将校たちを説き伏せたので、ヨアブと将校たちは、王の前から去って、イスラエルの民を登録しに出かけた。」(3、4節)


ヨアブもこのダビデの考えが、神への不信仰から出たものであることを知っていたので、それに反対しました。もしダビデが神を信頼しているならば、兵士に徴用し得る男の数を、数える必要はなかったのです。しかし、ダビデはそれを強行しようとしました。サタンがそのチャンスを掴んで彼を誘惑し、彼にそれを実行させました。


神は決して私たちに、御自分のみこころを行うことを強制なさいません。神が求めておられるものは、私たちの自発的従順です。また神は、私たちが、サタンの誘惑に乗せられて悪を行おうとしている時、直接的干渉によってそれを強制的には止められません。むしろ、サタンが私たちを誘惑することを許されます。そして、私たちが悪を行った後に私たちにその悪の結果を刈り取らせ、それを悔い改めさせ、それを繰り返さないようにと決断させられるのです。


調査を終えてからダビデの良心は目覚め、行ったことが非常に愚かであったと認めました。彼は、最初、民の中の兵士に徴用し得る者たちの数を知、とることが、それほど大きな罪であるとは思いませんでした。しかし、自分の国の勢力を知り、それに頼ることは神を知らない異邦人の王が行うことです。ヨナタンは、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものはない。」(第一サムエル記14章6節)と言いました。イスラエルの王は兵士の数に頼らず、全能の神に頼るべきであるのです。


不信仰は神を疑うことです。神を疑うことは神に対する非常に大きな罪であるのです。不信仰という罪は、神にとって赦すことができない大罪であるのです。


ダビデは、当初、それほど神の怒りを買う大きな罪であるとは考えなかったのです。私たちも神の御力を疑うことに、あまり罪悪感を持たないことが多いのです。しかし、この事はそれほど私たちの良心が鈍っていたことの証拠です。


なぜ、ダビデが兵士の数を知りたくなったかの理由として、考えられることがもう一つあります。それは、ダビデが自分のそれまでの働きの結果の大きさを知りたくなったということです。これは、神に奉仕する全ての人間が、最大の注意をもって警戒しなければならないことです。不信者が努力して、自分の努力の結果を知ろうとすることは当然です。彼らは、自分の名誉のために、あるいは誇りのために働いているからです。しかし、私たちは、神の御栄光のために働かせていただいているのであり、そのために神の助けを求めているのです。私たちは、神の助けを利用して、自分の自慢のために働いているのではありません。仮に結果があったとしても私たちは、それを利用して自慢し、誇るべきではありません。


なぜ神はダビデが生涯の終わり近くになって、サタンに彼を誘惑することを許し、彼が罪に堕ちることを許されたのでしょうか。それは、全て私たちの教訓と警告のためです。何と私たちも誇り高い、直ぐに己を誇る愚か者ではないでしょうか。自分を働かせてくださった神に栄光を帰さず、あたかも自分が全てを行ったかのごとくに自分を誇ります。これは私たちが最も陥りやすい、最も警戒しなければならない大罪であるのです。ダビデが非常に大きなさばきを受けたのは、その罪がどれほど大きな罪であり、神がそれをどれほど忌み嫌っておられるのかを私たちに悟らせるためであったのです。もしそうでなければ、神が、このように辛い苦しみを晩年の味わわせる必要はなかったのです。


ダビデは、神にその罪を赦して、それに対する懲らしめを見逃してくださるように願いました。しかし、神は、懲らしめを見逃してはくださいませんでした。「朝ダビデが起きると、次のような主のことばが、ダビデの先見者である預言者ガドにあった。『行って、ダビデに告げよ。「主はこう仰せられる。わたしがあなたに負わせる三つのことがある。その一つを選べ。わたしはあなたのためにそれをしよう。」』ガドはダビデのもとに行き、彼に告げて言った。『7年間のききんが、あなたの国に来るのがよいか。3ヶ月間、おなたは仇の前を逃げ、仇があなたを追うのがよいか。3日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めてください。』」(11~13節)


この神のみことばに対して、ダビデは曖昧に「それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。」(14節)と答えましたが、神はダビデの心の中の思いを見抜いておられました。神は彼の要求通り、3日間、民の上に疫病を下されました。そのために、7万人の民が疫病で死にました。


主なる神が、民を憐れまれ、エルサレムの民全体をまさに滅ぼそうとしていた御使いに向かって、「手を引け」と命じられた時、第一歴代誌第21章16節によると、同時にダビデも、抜き身の剣をエルサレムの町に向けてエルサレムの住民を滅ぼそうとしている主の使いを見て恐ろしくなり、神の御前にひれ伏しました。そして、彼は「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの手を、私と私の一家に下してください。」(17節)と神に言いました。彼は、エルサレムの住民を殺さずに、自分と自分の一家を殺してくださいと願ったのです。

彼は、自分の羊のために自分のいのちを捨てる「良い羊飼い」の心をもって、民のために祈りました。


これはダビデにとって必要な訓練であったのです。なぜならば、ダビデはやがて実現される千年王国において再び神によって牧者に任命され、民に奉仕するからです。エゼキエル書第34章23節が次のように預言しています。「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。」



今日も日本で、世界中で小さないのちが守られますように!

ひとりとして、一匹として、苦しい思いをすることがありませんように。



ご覧いただき、誠にありがとうございました!