新しい朝ナインの町で起きた奇跡 | ☆愛がいちばん!ネアカ椋田☆寅吉の本日完売ブログ☆(悲しんでいるようでもいつも喜んでいる人のブログ)☆

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新しい朝新しいいのちをくださった、父なる神さまの憐れみと恵みに感謝します。


今から約2030年前に、創造主なる神の御子が、私たちと同じ人の姿となって、私たちの罪のために、私たちの罪のさばきの身代わりとなって、十字架の上で苦しみを受け、尊いいのちを捨ててくださり、そればかりでなく、葬られた後、3日目によみがえってくださった、創造主なる神の栄光のみわざを、心から誉め称え感謝いたします。



聖書から、ルカの福音書第7章11~17節


それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の人の群れがいっしょに行った。


イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大勢その母親につき添っていた。


主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。


そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。


すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。


人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神をあがめた。


イエスについてのこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。



神の被造物でありながらサタンにそそのかされて自分の創造主に背いたために、死の力に支配されてしまった人類を深く憐れみ、その罪の結果の悲しみと苦しみから人類を救い出そうと天から下って来られ、人間となられた全知全能の神である主イエスと、ひとり息子が死んだためにその遺体を埋葬するために、墓場に泣きながら向かっている母親とが遭遇しました。どうして憐れみの心で満ちておられる主イエスが、この場で憐れみを示すことなしにこの婦人を見過ごすことができたでしょうか。それは主イエスにはできないことでした。主イエスはこの婦人に『泣くことはない』と言われました。その場でそのみことばを聞いた人々は驚いたことでしょう。「このような時、この母親がどうして泣かずに済まされようか。なぜ泣かなくてもよいのか?」と、その人々は考えたことでしょう。


主イエスは彼女を見て深く憐れみ、棺に手をかけられました。そのようなことは、死んだものに触れると汚れると考えていた普通のユダヤ人ならば絶対にしないことでした。しかし、主イエスは死体によって汚される御方ではありませんでした。死人がそれによって生き返らされてしまったのです。主イエスの『若者よ。起き上がれ』の一声で、死の力が主イエスのいのちの力の前から退散したのです。その瞬間から、人々の嘆きの声が、神を賛美する喜びの声に変えられてしまいました。悲しみに沈んで墓場に向かっていた一行が、神を賛美しながら大喜びで帰って来たのを見て、しかも棺桶に入れられて運ばれていた若者が、神を賛美しながら歩いて帰って来たのを見て、ナインの町の人々は驚嘆したに違いありません。それは町中の評判になり、町民全員がこの若者を見に来たはずです。これは町が始まって以来の大事件でした。ですから、「イエスについてのうわさがユダヤの全地方とその近辺の全ての地方に広まった」のも当然です。


さて、ルカの福音書が書かれ世に出された時、もしこの福音書を手にした者の一人がこの書の内容に疑いを持ったとしたら、その当時、その人は先ずユダヤ地方に行き、人々にこの若者の生き返りのうわさを聞いたことがあるかと尋ねることができました。もしユダヤ地方で、人々が、そんなうわさは聞いたことがないと言ったならば、ガリラヤ地方に行く必要がありません。それだけで、十分、ルカの福音書が作り話であることが証明されたからです。もし人々が、そのうわさは聞いたけれど、それが本当かどうか分からないと言ったならば、ガリラヤ地方に行き、ナインの町に行って、この若者の生き返りが事実であったのかどうかを尋ねることができました。町の人々は、すぐに、その若者の家までその人を案内し、その若者を紹介することもできたのです。また、その当時ならばこの事件の目撃証人たちにも会えたはずです。ルカは、この福音書の信憑性をかけて17節を書き記したのです。ルカの医者としての能力、語学力、伝道者としての熱意、そして彼の主イエスへの信仰が、また彼の歴史家としての客観的に物事を見る能力が、十分に用いられました。彼は時間をかけて綿密に調査したのです。「私も、初めから、全てのことを詳しく厳密に追跡して調べてありますので、あなたのために順序正しく書いて差し上げるべきであると思いました。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(ルカの福音書1章3~4節)


聖霊は、目的のためにルカが適任であると判断されたのです。



最後までご覧いただき、ありがとうございました!



今日も小さないのちが守られますように!



みなさま、良い一日を!